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ひさみの超私小説④:「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」と言われた

私の超個人的なお話④。前回の③では、昭和天皇の戦争責任と恐竜の化石の寄付という2つのエピソードで、夫となる男性の「人間性(Humanity)」を確信し、結婚を決意したことを書いた。今回は結婚を家族や会社に告げたことによって起きた出来事を記す。

私の独立は父の病気で急遽取りやめとなる

私の父は1989年64歳で肝臓癌で亡くなった。母は当時まだ54歳という年齢で「未亡人」という立場になってしまった。但し、幸運なことに母は当時働いており、父を失った後も仕事を続けることによって、心の傷痕を癒すことが可能だった。父が亡くなる1年以上前、私は実家から出てアパートメントを借りることを決意した。当時最もお洒落だった雑誌『カサ・ブルータス(Casa BRUTUS)』で、羽根木公園近くのロフト付きのアパートメントを見つけ、早速両親と一緒に、アパートメントを内覧した。玄関から中に入るとまずDKで、1-2段のステップを上がると、リヴィングルームへと続く。またそこには梯子がかかって、それをよじ登るとロフトのベッドルームとなる。そのロフトの窓から這い出るように外に出ると、屋上にでるという、非常にユニークな作りだった。

母は開口一番「これは酔っぱらって帰ってきたひさみが、この梯子で落ちる可能性があり、危ない」と警告を発した。父は「ひさみの好きなようなさせてやればいい。俺はたまにここに遊びに来て、近所の羽根木公園でやっている野球を見るよ」といって、ニコニコ笑っていた。その後、3人で少年野球を見た後、梅が丘の駅前の有名な「美登利寿司」でお鮨をつまんで帰った。私はこの最新のお洒落なアパートメントでの生活を思い浮かべて、ワクワクしたことを思い出す。

内覧直後だったと思う、父の検査で訪れた、聖マリアンナ医科大学の医師が、母と私だけを別室に呼んだ。当時、患者に直接病状告知をするケースは稀で、医師は申し訳なそうに、父の命はあと1年しかもたないと言った。真っ青な顔で戻った母と私に、父は「どうだった?」と尋ね、私は即座に「治療に時間がかかるみたい。入院する必要があるの、お父さん」と答えた。父は、その時、ちょっと悲しげで乾いた微笑を浮かべて「そう、了解」と答えた。

或る日、父の見舞いに来た私は、病室のベッドが綺麗に整頓されて、父が見当たらず、頭が真っ白になった。父は戻ってきて「ベッドにいなくて驚いた? ごめんね」と照れ臭そうに謝った。父は自分の命の限りを既に察知していたが、私たち家族には「知らないフリ」をしていたと思う。1989年1月7日昭和天皇が崩御した頃、自宅に戻った父の病状は徐々に悪化し、2月24日の大喪の令の日、父は吐血して、そのままICUに運ばれた。私たち家族は、ICUの待合室で大喪の礼を見て、その後5月6日に亡くなるまでの2か月半、母と弟と3人で、24時間3交代で病院に寝泊まりして、父の最期を看取った。

医師は意識不明になっていた父は、痛みを感じないからといって、モルヒネを打ってくれなかったが、父の苦しんだ動物のようなうめき声を聞いて、看護婦さんに頼んで、何度か打ってもらった。父の解剖結果を見た医師は、「大柴さんは身体中に癌が転移していて、普通ならばとっくに亡くなっている状態だった。心臓が強靭だったために、簡単に死ねずに随分苦しまれたようです。痛みを感じないなどと言って、申し訳ありませんでした」と謝った。

父の最期の言葉「ひさみ、次はアメ車を買いなさい。大きくて馬力があって頑丈でいい」

父との最後の会話がとても印象的だった。「ひさみ、車を持ってきて。家に帰りたいんだ。車はアメ車がいいなあ」。「あれ、お父さんはアメ車はあんまり好きじゃなかったじゃない?」「いや、アメ車がいい。大きくて馬力があって頑丈だから。ひさみ、次はアメ車を買いなさい」。この言葉がアタマを離れず、父の葬儀で遺体を火葬場まで運ぶ車は、キャデラックを選んだ。

私は父の死後6年経って、アメリカ人(彼は189㎝と背が高い)と結婚することになるが、ふとこの父の最期の言葉を思い出し、「お父さんは知っていたんだ、私がアメリカ人を選ぶことを」と確信した。

結婚式の当日、父の弟たち(私の叔父達)は、「ひさみの旦那は、アメリカ人なんだけど、みっちゃん(父の呼び名)にそっくりだね。みっちゃんはひさみを目の中に入れても痛くない程可愛がっていたし、ひさみはやっぱみっちゃんみたいな人を選んだね」と口々に話していた。

父は1925年(大正14年)1月1日に生まれて、昭和が終わった1989年5月6日に64歳で亡くなった。父の人生は、激動の昭和の64年間そのままだった。病状が悪化する父に「お父さん、平成っていうのが新しい年号だよ」と告げると、父は「平成?そんなの、俺は知らねえや」と呟いていた。

PS:夫は19歳で学生結婚をしており、彼の前妻の父親も1月1日生まれだった。夫は良く「僕は1月1日生まれの父親を持つ女性としか結婚できないらしい」と冗談を言う。

母の気持ちと片道切符代わりの指輪

結婚に関しての気持ちが固まった私は、この件をどのように母に話そうかと思い悩んだ。

当時、彼は「まだ暫くは日本勤務が続くと思うけど、2-3年後には米国のSFべイエリアに戻る。そうなったらどうする?」と、聞いてきた。彼は、これまで1つの業界一筋でキャリアを積み上げてきた人で、当時世界有数の大企業に勤務していた。身体の大きい彼は、夏でもサングラスをかけず(自分がサングラスをかけると日本の人に威圧感を与えるから)、電車に乗る時もなるべく身体を小さくするといった気配りを見せる人だった。私は、彼が今の会社を辞めて、日本でどんな職業があるんだろう? とても駅前留学Novaの英会話教師として暮らす姿は、想像できなかった。

「私は今の会社を退社して、あなたと米国に行きます」と告げると、「女性広告営業のパイオニアとして成功を収めたキャリアを、本当に捨てられる?」と、念を押された。米国移住後、仕事に関しては、度々厳しい鉄槌を下される私だが、16年間で築き上げた日本でのキャリアへの自負が強く、当時その甘さに一切気が付かなかった。

まずは、弟に結婚のことを相談した。「今アメリカ人と付き合っていて、結婚を考えているの。つまり米国に移住することになるんだけど、お母さんを残して行く気にはなれない。」。「姉貴は本当にその人に惚れてるだろう? だったら、米国に行った方がいい。俺がお母さんの面倒は見るから、心配しなくていい。」と弟に背中を押された。「あんたが、そう言ってくれるんだったら、決心できる。お母さんのことだけが心配だったの。ごめんね、こんな大きなコトをあんたに背負わせるようになってしまって」。弟は「大丈夫」とニッコリ笑った。

母の表情の変化が、全てを物語っていた。彼女はアタマと心の中で、私がアメリカ人と結婚することによって、今後の自分の人生にどんなことが起こるかという事実を、必死に咀嚼しているようだった。但し、私が経緯を話し終えると、彼女は「分かった。とうとう結婚を決意したのね、良かった。お母さんはとっても嬉しい。私のことは何も心配しないで、好きな人と一緒にアメリカに行きなさい」と、きっぱりと告げられた。

母は、私の結婚祝いに指輪をあげると言いはり、2人で銀座の宝飾店に出かけた。正確には覚えていないが、当時の金額で30万円ぐらいかかって、綺麗な青碧色の石と18金のイタリア製のバンドを組み合わせて、指輪を作ってもらった。母は真顔で指輪を渡す時「ひさみ、アメリカでどうしてもこれ以上いられないと思ったら、この指輪を売って、飛行機の片道チケットを買って帰ってきなさい。我慢しなくていいんだから」と、私に言い含めるように言った。米国移住をする娘の将来への不安は隠しきれず、もしものことを考えた母の気持ちだった。

非常に悲しいことに、その指輪は、後年自宅のクリーニングサービスをする女性に盗まれてしまい、今は母の指輪の思い出だけがアタマに残っている。

「お前がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない」

家族への結婚・米国移住の報告が終わり、次は会社へ告げる番だった。真っ先に上司に相談すると、「うーん。おめでたい話でいいんだけど、問題はクライアントだな。お前を外して誰を担当にするか? これは難題だな。揉めるかも」とアタマを抱え始めた。当時、すでにCliniqueを担当していて14年が経過していた。その間、私は何度も上司に担当を変えて欲しいと訴え続けたが、クライアントの猛反対でそれはまずできないと、ずっと拒まれていた。アカウントの責任者として、年間広告費30億円以上を扱っていた私は、クライアントの誰よりも、長く良くこのブランドを知る立場で、会社はエージェンシーとして、私だけは外せないという状況に追い込まれていた。

クライアントの部長の怒りとも嘆きともつかない反応に、エージェンシーとしてかなり厳しい交渉をしながら、会社は社内でも優秀と評価の高い私の同期を後任として決めた。彼への引継ぎを兼ねて、その後1年近く、私は彼と行動を共にすることになる。

当時、この件を耳にした周囲の反応は、以下の言葉に集約される。

「英語ができない大柴がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない。日本の広告業界で女性として稀有な成功を収めたキャリアを捨てるという判断は、完全に間違いだ」

米国移住後、私はこの指摘がすぐに間違いだと気付いた。米国のコンビニのキャッシャーを務めるには、英語がNativeレベルでないと、ローカルのお客さんとコミュニケーションが取れず、私のような外国人は難しい。さらに、米国では経験が重要視される。私はリテイルの経験はゼロで、私がいくらコンビニの仕事が欲しいとApplyしても、レズメにその職業経験がない以上、まず採用されないと思う。

「どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と涙した女性達

この頃最も嬉しかったコトは、私と仲が良かった女性の雑誌編集者やライター達が、私の結婚のニュースを聞いた時の反応だった。「何て素晴らしいことが起きたんだ!ひたすら働き続けた私達の仲間が結婚する!どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と泣きながら祝福してくれた。38歳で結婚する私の姿は、彼女達の気持ちに灯をともし、その後半年ぐらいの間に、30代後半から40代の仲間達の何人かが、仕事を続けながら、結婚して行った。

彼女達は、言ってみれば日本の男性中心の企業社会の中で、会社に対して、硬軟織り交ぜて懐柔、或いはいやいやながら折り合いをつけて、キャリアを積み上げてきた戦士達である。当時非常に数少ないこの女性戦士達は、志を共有する同志として、心が強く結ばれていたことを思い出す。

私は、その頃常に臨戦態勢で肩を怒らせて仕事をしていたらしく、周囲の男性から怖がれていた。37歳のシングルのWorking womanだった私は、「結婚できない女」としてレッテルを貼られ、「結婚している女性は安定していて仕事しやすいんだけど、シングルの女性はピリピリしてやりにくい」と言われたこともある。この言葉は私に限らず、他のキャリアの女性達にも投げつけられた言葉で、今ではとても考えられない職場環境だった。

米国移住まであと1年

こうして1994年はあっという間に過ぎていくが、翌年は結婚式直前のオウム真理教地下鉄サリン事件とのニアミス、結婚式前夜の春の嵐、退社、さらにハネムーンでバラ色の気分で降り立ったSFOで不法滞在者として疑われてパスポートを取り上げられるなど、どこまで行っても、事件が起こる。

その辺は、また次回のお楽しみとして、書き続けようと思う。


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