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いろ衣都つむぎ ~死という必然~

わたしは、母によると少し変わった子どもだったそうです。
あまりしゃべらず、子どもらしい無邪気なところがない。ぼんやりしているか、静かに本を読んでいる。
母にとって、接するのが、難しい子どもだったようです。
わたしは、ものごとを理解するのが早かったと思うし、なにより、「死」というものについて、知っていました。
幼い頃、近い身内に死んだ人はいません。だけど、知っていました。人間もその他の生物も、生まれたら死ぬということを。
そのことは、こわいことではなく、なにか安らぎを伴った事実でした。しかし、それは、死後の天国に憧れるというような簡単な想いではありませんでした。
わたしは、親が家に入ってくる蠅とか、虫を殺すのを見るのが耐え難いことに感じました。いま、生きているものを殺してしまうことは残酷なことでした。台所にある、死んだ魚、肉の破片、もまた、わたしには人の残酷さを見る拡大鏡なのでした。
生から死への旅。これは生きることです。ここは手を抜けません。ここでは様々なことが起こり、わたしたちは経験を積みます。そして、たどり着くのは「死」です。
死に入ったら、今度は「生」へ向けて旅をするのでは?とわたしは思っています。このとき、頼りにするのが生前に行ってきたことではないのか、というのが、わたしの推察です。生への旅がたやすくなるのが、よりよく生きた人。困難になりつらい旅になるのが、あまりよく生きなかった人、となり、生まれ変わるとしても、今世の生きざまが反映されるのではないかと思えます。
しかし、よいとか悪いとかいう価値判断は、わたしの今世的判断ですので、どういう人がいいのか、悪いのか、それは人間には量れません。
ただ、わたしたちは、必ず死ぬのです。
死後も誇れるような自分でいるでしょうか?
わたしもそんなにえらい人間ではないし、悪いこともしてきましたが、これからの人生は、夫や、友人、見知らぬ人たち、みんなを愛して、優しい人になりたいです。
死は、終わりがあると、わたしたちに告げ、だらけている暇はないと教えてくれるためにあるのではないでしょうか。
そう、どんな人にも、どんな人生にも、終わりはきます。
そのときをどう迎えるか。そこだけは、わたしたちにはどうにもできないし、それだから、生きていけます。


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