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立てませんまだ三十じゃないので

五十にして天命を知る

母の誕生日に、父から「母親の誕生日だから電話でもしてあげなさい」というような内容のラインが来た。送信時刻は日本時間8時過ぎ。日頃何をしているのか深夜1時や3時に連絡してくることが珍しくない父、今日は目覚めてすぐにこれを送ってきたのだろうか。ぼんやりと考える。あの人に、かつての妻の誕生日に思いを馳せる朝があるのか。もしやもうそんなこの日も9回目なのか。父でさえなければちょっと不憫でおもしれーただのおじさんなのに。

メッセージは送ったよ、と返信する。すると「もう我々もアラフィフだ」と返ってくる。うちの両親は同い年で、アラフィフと言われる年齢であるのは今に始まった話ではない。「数年前からそうだよね」「確かに。もうほぼ50、初老や」初老は40歳ぐらいを指すんじゃなかったかな。父はいつもどこかずれているような気がしてならない。

「孔子によると五十にして天命を知るらしいで」「知れるように努めて参る。大器晩成」何も考えずに放った言葉に思わぬ返答が返ってきて少々困惑する。えっ本当に天命を知るの?? どんな天命?? これから大成するつもり?? って言うか何をもってして大成?? これまでの人生はなんやったん?? 次から次へと疑問が浮かんでくる。その後母に父のこの発言を報告したところ「むりむり」と返ってきた。辛辣である。

贅沢を言わせてもらうと父には天命を知るよりも先に耳順ってほしいよ。

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坊主にできたら良いのに


最後に日本で美容院へ行ってから早5ヶ月、髪が随分と伸びた。大学生になってからはずっとベリーショート一歩手前くらいの長さで維持していた髪、ハーフアップとは言え結べる長さになるのは美容院へ行き渋っていた高校生時代以来はじめてのことだ。髪を束ねるときに手に伝わってくる感触で、高3の朝を思い出す。私にとってこのハーフアップは、18の秋と冬の髪型だ。

この国で美容院へ行く勇気はない。まず美容院探しを成功させられる自信がない。毛先を揃えてもらう程度で済むロングならまだしも、自分の望むスタイルとは違う切り方をされてしまうと、ショートの場合大事故が起きてしまう。私は顔を含め存在そのものが事故のような節があるのでこれ以上人の目を汚してしまうようなことは極力避けたい。あと普通に料金が高い。

一時帰国する頃にはショートボブにできるくらいには伸びそうだな、と思う。これから2年はこの地で美容院通いをせずに暮らすことを考えると、一旦ショートは封印して毛先を切り揃えてしまうのがおそらく得策だ。ボブの自分を想像してみる。いわゆるおかっぱ頭だった小学2、3年生頃の自分しか思い出せず困る。同時に、中高生の頃は髪を染めるならインナーカラーを入れるだけが良いと思っていたことを思い出す。ありかもな。内側だけ金の黒髪ボブ、いっちゃう?数ヶ月先の話だけど。

そんなことを言いつつ面倒くさがって結局やらなそうだなあとも思う。そもそも相当しっかりしている私の髪の色を抜こうとするとブリーチ2回は要りそう。美容院に長時間拘束されるの嫌だな。

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何語で夢見る?

夢の中で、中華料理屋の前でメニューを誰かと見ていた。どうやらそこは中国の空港内で、私たちは到着したところだったらしく、私と連れ(英語で話していたが誰だったのかはよくわからない)は、ここって英語通じるかな?と話していた。私中国語話せないからさ、と言った記憶がある。

留学先の言語で夢を見るようになったらその言語が身についてきている証だ、
みたいな話を時々聞く。が、もともと私の夢に出てくる人たちは現実世界において英語しか話せない人(つまりは小学生時代の知り合い)であれば英語で話すし、日本語しか話せない人であれば日本語で話す。日本語と英語ごちゃ混ぜで話す人たちは夢の中でも同じように話す。特別意識しているわけではないけど、私も多分相手と同じ言語で話している。

目覚めた次の瞬間に、なんで中国語?? と思った。中国語なんて中学のときに1年ゆる〜く授業を受けたきりで、簡単な挨拶と数字ぐらいしか覚えていない。今は中国語を話す人は周りにいない。もう少しで留学開始から4ヶ月、ここはフルイングリッシュの夢を見て「すごい私英語の夢見た!!」って感動するべきところじゃないのか。謎である。


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「寒い」に同調することで生まれる何か

ある人と授業終わりに歩きながら話していた。
相手「今日寒いね」
私「寒いね、朝雨降ってたしね」
相手「あ、雨降ってたんだ?知らなかった」
私「結構激しかったよ、学校来るまでに止んだから良かったけど」
相手「そうなんだ。……なんでこんな寒いんだろね」

ここまで読んで「??」となった人、仲間です、握手しましょう。でももし仮に私が「??」となった理由をわかってくれる人がいないようであれば、おそらく私に問題があるのでコミュ力並びに国語力を身につけるべく旅に出るとします。

私の主張は、「なんでこんな寒いんだろうね」という疑問に対する「雨が降っていたから」という答えを私は既に会話の中で出したじゃないか、ということです。確かに私は雨が降ってた「から」ね、という言い方はしなかったけれど、「雨が降ると気温が下がる」という認識って全人類共通のものではないのかしらん。それともなんだ、「雨だと日差しもないし気化熱の関係で気温が下がるよね」まで言わないといけなかったのか。

少し考えた結果、次のような結論に落ち着いた。
・最初の「寒いね」はただの感想の共有であり、「なぜ寒いのか」という理由の推測を相手は求めていなかった
・従って私が口にした「雨が降っていた」という情報はただの雑談として流された
・「なんでこんな寒いんだろうね」は本当に答えを求めて発された疑問ではなく沈黙を避けるための台詞

私の問題点は以下。
・何事につけても理由を追求したがる
・生産性のない会話に意味を見出せない
……意味が存在しないから生産性がないのか?? とりあえず雑談が下手である自覚は大いにある。

「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」という短歌を思い出す。まあ言わんとすることはわからんでもないが同調したところで気温は変わらないし根本的な解決にはならないのに、と思っていた中学生の頃の私、まだ生きてる。やっぱり大切なのは「そのときに感じたことの共有」なのかもしれない。寒いからなんなんだ、暖かいところに行きたいとかあったかいものを食べたいとか、寒いの先に何かがあるんじゃないのか、などと追求するのは野暮ってものなんだろう。人間むずかしーー!!

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