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したたかに生きる14

今日は引きつづき、メタ認知について。
ただ、このnoteを綴っている時は完全にメタ認知から離れていて、バリバリ我見で書いてます。ご了承くださいませ。

自己肯定感とメタ認知

自己肯定感が低いことと、メタ認知ができないことについては、密接に関係している。

自己肯定感が低い=自分を正しく認識できていない。
フラットな状態で自分を評価できていない。
・自分のできていること
・自分のできていないこと
・強み
・弱み
などを、主観的視点で見てしてしまい、必要以上に低く評価をする。
この主観的視点こそが、メタ認知ができていない証拠。

なぜこのような思考になったかと言うと、

・できないこと
・弱い自分

を見せることで、許されてきたところも多いからではないでしょうか。
いや、「許されてきた」という表現には語弊がある気がする・・・・
ものすごく怖い存在から逃れる術が、できない自分を見せることだった、というほうがしっくりくるかもしれない。

典型的なのが、DV気質の夫をから逃れたい妻。
毒親に育てられた子供。

前者は、普段はめちゃくちゃひどいことをされて、それは全て自分が悪いと思っているけど、時たま相手がしおらしい顔をみせると、こんな自分でもいなければこの人はだめなんだ、という思考になった時。

後者は、親の思い通りにできないことげ普段はめちゃくちゃ叱られたりけなされたり嫌な思いをしているが、自分が弱っている時はなぜか援助された、などの経験を想像しています。

そんな経験をしてきた人が言う
「いやいや、そんなことないですよ」
「自分は全然できてないですよ」
という言葉の裏には

だから許して!

・・・って、魂の叫びが聞こえて来るようです。

でもね、実際社会の目は、あなたが怖いと思っている対象よりも全然優しい。

Shout at the Deavil (♪ラルクアンシエル)

もしもこのオレが失敗作なら
すでに完全じゃないことを認めたら

これです。
失敗作だとしたら、完全じゃないことを、みんなとっくに認めてます。
あなたの出来ないところを、あなたの怖い対象と同じ熱量ではだれも気にしてない。

でも、染み付いた思考方法によって、変えようとしても相当の意識と環境でないと、自己肯定感が低い風に傾いてしまう。

なによりも、この思考の怖いところは、自分は辛いのに、適切に指摘してくれる人がいないことです。

自己肯定感が低いことは、単なるあたなのエゴだよ!と言ってくれる人はなかなかいない(というか、みんな気付かない)

場合によってはなんとなく美徳化されちゃったり、やもすればそれがあなたのいいところだよね、みたいに流されてしまっている気がする。

本人も他人も気づいていないけど、本人も他人も違和感を感じて、コミュニケーションもしっくりこない、みたいなことが往々にしてあるのではないかと思う。
それは非常に悲しいことではないか。

だから、メタ認知が必要だ。

自分を正しく捉えること。

「正しく」というのは、自分が置かれている状況と、周囲の評価と、自分のできる・できないをフラットな視点で判断し、評価をすること。

この視点を身に着けることができると、不必要に苦しまないし、強くなれると思います。

最後に、私は、バリキャリって言葉は好きではないんですよね。

なんだか肩の力が入って、正論で男性を論破し、弱い犬ほどよく吠える、みたいな印象じゃないですか?(失礼)

人を論破せずとも、その場の空気を適切に読み、自分の振る舞いを思い通りに決め、自分の思い通りになるように戦略的にコミュニケーションを取れる人の方がかっこよくないですか?

したたかな人になるために、絶対に必要な思考だと思います。
メタ認知、引き続き頑張りましょう!


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