目と絵のむきのこと
(画像:2020年 JINEN Galleryでの個展「維持と探索」展示風景より)
縦長の絵を描くように気をつけている。
人物画はじめ、明らかな主人公がいる絵の場合、縦長の構図で描かれることが多い。反対に、風景画は横長構図のものがおおい。目が左右に、つまり横方向にひろがりのある並びかたでついているからだろう、素朴に風景をみれば視野は当然、横構図になる。視界を縦に切り取るときは、わざわざなにかを注視するときだ。逆にいえば、縦構図のものを人に見せるというのは、画面に正対するよう鑑賞者に強いる、ということでもある。モニュメントは、塔であれモノリスであれ、縦が似合う。歴史画は横に長いことがおおい(というか、おおきい)が、あれはみんなでやいのやいの言いながらみやすい。
閑話休題、
自分の描く絵は、いちおうは空間を描いており、かつ、主人公的モチーフをしっかり設定していない。だから横長のほうが描きやすい。いざ縦長の絵を描こうと考えてみると、なかなか骨が折れる。このことに気がついてから、その苦労を選んで、なるべく縦長の絵を描くように気をつけている。
気をつける以前は横長の絵ばっかりだった。けれども、もともと横長の絵を描こう!と意識的・積極的に選んできたわけではなく、結果的に、自然とそうなっていたのだった。
それはひとつに写真の影響もある。小学生のころから、数か月に一度、インスタントカメラを買って、持ち歩いて遊んでいた。写真として切り取れるシーンがどこかにないかと探す欲望と一緒に過ごすのが楽しかった。大学生のとき、制作とは無関係な事柄で、個人的にかなり追い詰められている時期があった。自分が誰かに頼ったりすることは許されず、そればかりかむしろ気丈に振る舞うことが強いられ、不都合な事態や心ない軽口に囲まれるなかで、制作の成果を提出しなければ単純に単位をもらえない。余裕がなかった。それで、子供の頃インスタントカメラで撮影していた写真をひっぱりだしてきて、単純に絵に描き起こしてみていた。そうすると、そこではじめて、「自分の絵が描けた」という気になった、少しだけ。
子供の目がとらえた、たとえばマンション団地の一画とかの写真を拙い技術で描き起こすことは、自分自身について冷静に向き合うような時間にもなったわけだ。このステップが結局いまに繋がっているんでよかったです。あ、けど、話したいのはそこじゃなくて。
インスタントカメラは横向きに構えやすいつくりをしている。「スナップショット」の登場を支えたカメラ(ライカとか)も横向きが持ちやすい。おれが悩まず絵を描きはじめたとき、参考にした写真は横長だったし、完成作もそうだった。先述のとおり人間は、ただ周囲をみるとき、横長の構図でものを見ている。人間の視野は基本的に横長である。歩きながらふと引っ掛かった情景を、横長構図で写しとる行為の相性は悪くない。
なにかを注視するときにはこの限りではない。写したいモノそれだけをメインに据える場合、たいていは縦長のほうが撮りやすい。人物しかり、酒瓶しかり。いまのケイタイ・スマホのカメラ機能は特にそうで、人やなにかを撮りたいときに、横長で撮ったら、余計なものが映り込みすぎてしまう。(映画は横長だけど、いろんなものが映り込む余地があるという点こそがおもしろいのだろう。映画の「読解」はほとんど、横長画面であるためにうつりこんでしまうものを回収する作業に費やされている。)
注視したいモノがあるなら、目の前の光景を縦長に切り取ったほうが効果的だ。縦長のものは、注視を促す。縦長の前では、画面の中心と、それを見る体の中心をあわせたくなる。縦長であるということは、静かな気持ちで、対面し、立ち止まる、という動きを促すのではないか。シンプルに、巨大な城壁よりも、巨大な塔のほうが「みやすい」。
そもそも、目が右と左に並んでるのは、これは生き物が海出身だからだろうな。釣り人が「棚」というように、水のなかの世界は水平に区切られているので、上下に目を光らせるより、左右を知れるやつらのほうが生き残りやすかったのかもしれない。
深さによって水温や水圧が変わるから、生息域は水平方向の層でわかれている。自分の暮らす層の情報を仔細に汲み取れたほうが賢い。光を感知する「第三の目」たる視覚細胞さえ上方をむいていれば、下のことはサーチしなくてもいいだろうし、そしたら自分の層のなかで食べるものとか、同種の仲間とか、どうせ水の中の視覚なんてそう頼りにならないだろうからこそ、せっかくの感覚器官で探る方角は水平方向に限って特化してるほうがいいんじゃないか。もちろんこれはあてずっぽう。ただの思い違い、思い込みかもしれない。海の世界のことはわからない。
陸の生き物の生息域は鉛直方向に区分けされている。とはいえ目は左右のならびでついている。人は特にものを見るのが好きで、しっかり横長にみている。空間や風景をとらえることとのつながりを思えば、横長のほうが風景画に適しているのは当然のこと ……とも言い切れない。掛け軸のことがある。掛け軸はじめ、屏風絵や絵巻物、パノラマが考えのそとにあった!
掛け軸だが、「覗き」の視野を「ひとりじめ」するのに縦長はちょうどいい。冒頭で、歴史画が云々と述べたが、縦長で、おおきくない絵は、ひとりのひとが静かに正対するのにちょうどいい気がする。(ほら、ここに「縦の要請する静けさ」が再登場だ)屏風絵以下は省略。
話は横道にそれるが、高橋由一の「鮭」は掛け軸を意識しているから縦に長い。工部美術学校で教鞭をとっていたイタリア人彫刻家ラグーザと結婚し、自身も画家であったラグーザ玉(1861-1939)の自叙伝にこんな言葉があるようだ。「油絵が、横では、床の間に掛けるわけにも参りません。そこで柱に掛けるやうに、あの頃は、よく細長い板に書いたものです。」
どうして掛け軸のこと忘れてたんだろう。西洋由来の美術に染まりすぎて、「絵=キャンバスによるタブロー」という思い込みが根深いんだろうな。それに、学習してきた視覚をめぐる問いの多くが西洋思想、つまりタブロー的な矩形画面(西洋絵画のほか、映画のスクリーンなども含む)に負ったものたちばかりだったからだろうか。大きさの変わらない、壁に掛けられた四角形の内側を、周囲と独立した世界の表示された全体としてみる、というセッティングに慣れすぎている。あるいは、遠近法に染まりすぎている。
遠近法を下支えするのは、画面全体を眺めるための「正しい」観測地点の想定である。この「画面全体を眺めるための「正しい」観測地点」は、そのままカメラの位置でもある。実際には人は、二つの眼球を細かく動かしながらピントを調整し続け、意識をかたむけたり、意識的にみないようにしたり、無意識のうちに無視してたり、それだけですでになかなかやっかいな視覚面のなかにさらに、意味や見覚えを読み込んで解釈しながらものを見ている。だから遠近法を支えている「唯一の視点」のごときものは、人間がものをみる、ということの実際とは違っている。ところが、われわれは、もはやすっかり、「リアルさ」および、光学的直接性によって、カメラのうつした写真が記憶や証拠のよりどころと頼りきるクセの染みついた以降の時代に生きている。もはやその視覚観の外側にいくことができそうにない。(特に結論とかはないです)
2021年5月
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このアカウントは、(主に)絵についてのテキストのために2022年6月に開設しました。(もとのアカウントは、フィクションのテキスト専用とします。)今回は、もとのアカウントで過去に公開していたものを転載、加筆修正し、再公開するものです。
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