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「維持と探索」って? (3/3)

前回のつづき)


 これは僕が、かなり頻繁に口走る話のひとつ。「自分」って、ふつう素朴に思われているほど当たり前なものなんでしょうか。自分ひとり、とは、どういった範囲のことを指しているんでしょうか。


 成長=老化のサイクルで細胞は代謝され続ける。そのときどきの立ち位置で人柄は変わる。ひとりの時間の内訳でもあるはずの、趣味や考え方だって簡単に変わる。火傷をしたときジンジン痛む患部には、感覚的にはむしろ異物感がある。「わたしのなかに、わたしとは別の、熱を発するしこりがある」って気がする。酷暑のなかでのクーラー、あるいは、メガネや補聴器なんかは、身体を機能させるために欠かせないものだから、いわば外部化された臓器であるし、脳みそのなかで「わたしはこういうふうに思う・考える」とひとりごとをするときの主語の「わたし」って、「そんなふうに思ったり考えたりする不特定の“われわれ”」を想定したうえで使ってませんでしょうか。

 すなわち“自分”というのは、モノではなくコトである、と、ひとまずはこういえると思う。……それでは、どのような性質の、コト、なのでしょう。これも僕が頻繁に口走る話、自転車に乗れるようになると、「自転車にうまく乗れない」という感覚を再現できなくなる。それまであんなに乗れなかったのに、乗れるようになったら急に、わたし、から、自転車に乗れないわたし、が、完全に切り離されてしまう。むごいほどです。


 自分というのは物理的な実体ではない=モノではない。持続している循環のシステムがあって、その循環のせいで生じる中心の真空に、(循環よりもあとに)ふわっと登場してきたものなんじゃないのか。意識の持続、肉体の代謝、外部環境との絶えざるわたりあいなどによって、事後的にほのめかされる真空、という、非常にあいまいなものが「自分」という言葉の意味するところなのではないか。車輪を回すようなイメージで、ほとんど繰り返しの動きを動き続けることで安定する。安定するために動き続ける。もともと用意されてるハードウェアの機能には限りがあるので、自分で思うよりも、自分をつくっている自分の動きはほとんど繰り返しなはずだ。
 物理的であっても、心理的であっても、あるいは無意識的なものであっても、「外部環境との絶えざるわたりあい」をし続けちゃうのが生である。

 いろんなものに物差しをあてまくる。あてまくり続け、調べ続け、どのように関係をもてるかを探索する。生きていくうち、物差しの種類は減りこそすれ増えない。まあ、目盛りがすれて読めなくなったり、物差し自体が曲がったりはするかもしんないけどね。次々と現れる、物差しをあてる対象に、子供のうちは新鮮な驚きを、その都度感じていたかもしれないけど、物差しの使い方が体に染み込んでいくうち、それまでほどのおもしろさは感じなくなる。退屈になってくる。さらに熟達してくれば、また感じ方も変わってくるだろうし、ときには、思いもよらないヘンテコな計測対象が現われるかもしれない。とはいえ、おんなじ物差しを使い続けるほかない。


 自分というものは、それこそが維持の結果であり、それは探索し続けることの裏返しでもあるってわけ。それともうひとつ。このシステムによって生じる感覚こそが「時間」の、ひとつの正体である気がする。循環が生じ、循環が自分を発生させ、時間をつれてくる。維持や探索というのは、前後を生じさせるので、そこではじめて時間がでてくる。まあ、「時間」の話はいいや


 まとめます。

 英語の塾では、日常を維持することを業務内容としておりました。なにごとも起こらず、すべて問題なく滞りなく進行することを目指すのです。で、これが案外忙しい。また、塾の上司は「コツコツと努力する」の権化であった。探索と維持を両輪に、じっくりと螺旋階段を(あるいは二重螺旋を)のぼっていって、そうやってパワーアップした人である。(言い忘れたけど、田中さんは英語を、まったくの独学で喋れるようになった人である。だから発音は相当悪い(発音の良さ・悪さとはなにか、という話もあるけど)。なぜ独学でそこまでいったのかというと、「高校生のとき、その当時好きだったアメリカのハードロックのバンドマンに、もしも万が一会えるなら、水入らずでおしゃべりがしたいから」それで「喋れる」まで、ひとりで辿り着いたのだ。すごすぎ)


 探索と維持、は、双方とも前進の換言でもある。どっちも、どっちかだけではありえない。それは制作とか語学学習に限定されない。「自分」というものの仕組みにも重なる。昔、個展のタイトルを考えていたとき。「塾でバイトしながら制作している今の自分の日常や、そこからみえてきた考えとか、思い合わせるなら、そうだな、そうか、ひとことで表すと「維持と探索」ってことに終始するだろうな」そう思って、展示のタイトルを決めたのです。自分の(しかも過去の)個展のタイトルについて、こんなに言葉を尽くして説明する作家ほかにいないと思いますよ。


 さて、Mくんの制作をモチベートしてきた思いについても、しかし自分なりに身に覚えがある。とはいえ正直、それはある種、若々しい精神が発言しているものだとも思ってしまう。単にぼく自身が若いころに感じていた感覚とリンクするから「若い」精神の発言だと思ってしまうだけで、これが独善的な判定であることはもとより、若さという言葉に特別な含意はありません。(若い=悪い・幼い、とか、若さ=よい・純粋、とか)
 どういうことかってそりゃ決まってるよ、中学生高校生のころなら、毎日毎日、右の人左の人の違いのわからぬスーツ姿の出退勤者にもまれながら、学校にスケジューリングされた授業を受けてたわけだし、しかも年代的には刺激に飢えたエネルギッシュな季節である。「つまらない日常を超えたい」と感じていた覚えがある。だけどいま、おれは、めちゃくちゃ将来が不安だ。どうやってメシを食っていけるんでしょうか。一年後もいまと同様に、不健康すぎないままニコニコ絵を描いたりして過ごせてるのかわからない。退屈と安定は背中合わせ、まるで月と太陽、コインの裏表、わははは。ハァーァ、我に返ってはいけない。我に返ってはいけない。


 で、それはそうと、Mくんに共感しきれない“今の”私は、Mくんのいう「制作のモチベート方法案」にのれないわけです。では、今の私は、今の私の制作を、どのようにモチベートしているんでしょう、していけるんでしょう。そのことを考えてみて思いつくのが、「自分のための制作より、誰かのための制作のほうが興が乗るなあ」って気がします。まあ、この言い方自体は非常にかっこつけているし、そのぶん勘違いもされやすいだろうから、あくまでスローガンとしての響き優先です。厳密ではない。厳密ではないまま話を進める。制作者の方向性に二つの極を仮定します。「自分のために制作し続けられる人」と、「誰かのためってのほうがノる人」の二つを。どちらかといえば、おそらく私は後者であるという自覚もあるし、人からも指摘されるので、おおよそ間違いない。
 たとえば、これまでの制作歴でいうと、「この本の表紙の絵」とか「レコードジャケット」、「この人との共作」とか「この空間での展示」とか、自分の外側になんらかの条件があったときのほうが、やる気が出る。考えがはかどる。残念なことだが、そのほうが作品もいい感じになる気がしている。自分の外側とのわたりあいのバランスに気を張っているからこそ、ひとりなら日常の範囲内でこなしている維持と探索に対してもバッキバキになるんでしょうか。さすがにタイトルにこじつけようとしすぎですかね。ああ、そうだ、さんざん偉そうに書いてきましたが、英語の塾で働いてただけで、僕は英語ぜんぜんできません。ちなみにね。

(おしまい)

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