私は本屋が好きでした
永江朗
『私は本屋が好きでした』(太郎次郎社エディタス)
制度疲労、無関心、あきらめ。
様々な理由が絡み合い、いつしか書店の一角には、特定の人々を攻撃し、排除する〝憎悪の棚〟が出来上がった。
「入荷するから」「売れるから」という言い訳。そこには「何を売り、売らざるべきか」という、本屋が持つべき批評性も、「何が正しいか」を考える姿勢も、「どういった社会を作りたいか」という価値観も、微塵も見てとることはできない。
「仕事だから」「配本が多い」「間口を狭めない」
どれももっともな理由に思える。一部の例外を除けば確かにどの書店も経営に苦しみ、同じ状況の出版社も取次も、“手っ取り早く金になる”本を生み、流通させる。
積極的にしろ消極的にしろ、そういった類の本を作り、運び、並べることで生じる影響についての、想像力の欠如、無責任。
ごく一部の人々の溜飲を下げるだけの、「本」とも呼べないような代物は、どす黒い不快感と恐怖を売り場に生み出し、店に立ち寄っていた「本好き」の足を、少しずつ、あるいは急速に本屋という場所から遠ざけた。
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「本屋が好きでした」
本書のタイトルに、既に過去形が使われていることに、悲しみと寂しさを感じざるを得ない。
そして、そういった「ビジネス」を当たり前のようにこなす人々に哀れみを禁じ得ない。
ヘイト本を置かずとも成り立つ店はある。いやむしろ、そうでなければならない。本屋とは、本当に万人の欲望に対して公平に開かれているべき場所なのか?
誰かを傷つけたい。馬鹿にしたい。
徹底的に踏みにじりたい。
そんな欲望に対しても?
もし、どうしても置かねばならない事情があるのであれば、その隣にはそれに対抗できる本を並べるべきだ。いかなる場合も公平中立であるべきと考えるならば、当然それをして然るべきだ。
できないのであれば、それはただの怠慢に過ぎない。
いつか訪れる滅びの時を待つしかないだろう。
もう、言い訳は聞き飽きた。
出版界はアイヒマンばかりなのか。
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