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『 有 明 海 の 思 い 出 』

                    絵:森聖華さん、吉中媛香さん



(一) 夜 明 け


「もう、行くのか?」
 朝の仄かな明かりが、高台の良平の家をようやく包み込もうとしていた。父の泰三はリウマチがひどくなり、上半身を起こすのも苦しそうだ。
「はい、今日は大村航空廠まで動員ですから。ぼくも兄さんに負けんよう、頑張ってきます」
「そうか。では、ミサは無理だな」
「ええ、帰りは夕方になりそうです。父上はどうされますか?」
「今日は木場の兄さんが教会の手伝いに来るそうだから、家に寄るだろう。兄さんと一緒にいくから心配はいらん」
「心平も一緒に来ますか?久しぶりに会いたいですね」
 浦上川の上流にある木場集落の母の実家には、仲の良い二つ年下の従兄弟がいた。
「わからんが、心平は学校かも知れん。それにしても、今日は早いな。一番列車には、まだだいぶ間があるようだが」
 良平が家を空けると、この広い家に父が一人になる。
 家政婦のウメは、まだ小一時間しないと来ない。

「今日は集合時間が早くに決まっとるとです。それに、遅れるよりましですから」
 後ろめたい思いがしたが、良平は革の鞄を拾うと肩から斜めに掛けて立ち上がった。鞄の皮紐が胸の十字架に当たらないようにずらした。
「お前も、その鞄が合うような齢になったか」
「はい、丁度よか具合です」
「その鞄はニューヨークで買ったものだ。さすがという感じだな」
「父上は船で世界を廻らしたですが、どこの国が一番だと思うたですか?」
「その鞄を作った国だ。ニューヨークにマンハッタンという中心街がある。そこは上を見ると目を回すぐらい高い建物が林立していた。建物の先が雲に届くこともあった。海上からの眺めは、摩天楼と呼ぶに相応しい眺めだったよ」
「雲に建物が届きますか?」
「ああ、雨の日など上層階は雲の中に隠れていた」
「摩天楼か、出来ればぼくもその光景を見てみたかです」
「夜はこの世のものとは思えないぐらい綺麗だった。国力の桁が違うと思ったよ。この戦争が終われば、おまえも見ることができるかも知れない」

 父は視線を庭に移し、遠く異国の風景を思い浮かべているようだった。
「国力の桁が違いますか?」
 良平は念を押した。
「そうだな」
 父はそこまで言うと、一旦言葉を切った。
「いや、私の思い違いだろう。他言無用だぞ」
「わかっとります。では父上、行って参ります」
 良平は踵を合わせて背筋を伸ばし、父に敬礼をした。
「ああ、お国のため、働いておいで」
 父はそれだけ言うと、諦めたようにそのまま布団に身を沈めた。
 良平は父が布団に伏せるのを確認して、玄関の方に歩き出した。
 すると座敷の方から、「良平」と再び呼び止める父の声がした。
「はい」と返事を返すと、しばらくして「輝夫はどうしているだろうか」と父の小さな呟きが聞こえてきた。
一旦立ち止まったが、これには答えなかった。

 玄関の戸を静かに閉めると、良平は東の空を見た。
 干拓地の先に袋状に食い込んだ鉛色の諫早湾が鈍く沈み、黒く小さな三つの島が瘡蓋のように浮いている。
 その奥の仄かに明けかけた朝空に、糸を引いたようになだらかな雲仙の稜線が有明海まで伸びていた。いつもに増して鮮やかな景色に見惚れ、しばらく立ち尽くした。
 家の前の道に出ると、一目散に裏山の坂を駆け下った。途中で餌を啄んでいる鶏を蹴飛ばしそうになり、けたたましい鳴き声が辺りに響いたが、まだ近隣の家は眠りの中だ。

 本明川の川岸まで降りてくると、川沿いの道を下流の方に折れた。
 真っ直ぐ川原に降りて飛び石を渡るとすぐ諫早駅だったが、寄るところがあった。学校の集合時間にはまだだいぶ間がある。
 良平は歩きながら本明川の様子を窺った。浅瀬では既に白鷺やアオサギが小魚を狙ってうろついていた。
 軽やかな水の音が足元から湧き上がり、川原の野朝顔が道端まで蔓を伸ばし、青紫の可憐な花を咲かせようとしていた。
 本明川は佐賀県との県境に横たわる多良山系のひとつ、標高千メートルの五家原岳や大花山の峰々に源を発し、北から南へ流れ下り、五百メートルほど下流の高城城址の小山にぶつかり、東に大きく流れを変える。
 流れはそのまま諫早の市街地の真ん中を東西に横切り、有明海のゆりかごと言われる諫早湾に注ぐ。

 地元では諫早湾のことを泉水海と呼ぶ。河口辺りから沖に向かっては、どこまでも豊かな干潟が続く泥の海である。
 有明海の干満の差は最大で六メートルに達する。諫早の市街地は河口から五キロメートル以上も上流にあるが、街中まで海水が遡上してくる。一日に二度、満潮時には川沿いの街は仄かな潟の匂いに包まれた。
 普段は優しいこの川も、ときに凶暴性を露わにする。地元住民は、諫早には『雨の道』が通っていると言う。毎年梅雨時にはみるみる水嵩が増し、サイレンが度々吹鳴される。
 過去に幾度も水害が発生し、多くの人家が濁流に吞み込まれ、流された人が有明海で見つかることも珍しくなかった。

 葦原の茂みの中に、ふと横たわる人影が見えたような気がして立ち止まった。身を乗り出し改めて目を凝らしてみると、もうどこにも人影はなかった。
 枯れ草を見間違えたかと思ったとき、昨夜読んだ詩の一節が蘇った。

〈 私は河辺に横たはる ふたたび私は帰つて来た 曾ていくどもしたポーズを 肩にさやる雑草よ 昔馴染の意味深長なと嗤ふなら 多分お前はま違つてゐる 永い不在の歳月の後に 私は再び帰ってきた ちよつとも傷つけられも また豊富にもされないで …… …… 〉

 詩人はそう詠っていた。詩の残像が潜在意識の中に溶け込んで、幻影を見せてくれたのだろうか。
 もしそうなら、自分にも詩を書く資格があるかも知れない、そう思うと無性に嬉しくなった。

 

(二) 秘  密


 川沿いの道を百メートルほど下ると、岩屋観音の鳥居の前に出た。

 参道の入り口に差し掛かると、良平は辺りを窺った。参道の両側の家はまだ眠りの中で、人の気配はなかった。
 誰も見ていないことを確かめると方向を変えて素早く鳥居を潜り、裏山の崖に削られた二十段ばかりの石段を足音を忍ばせて登った。
 登りきると、赤い稲荷の鳥居の向こうに岩を穿った祠と、お地蔵様や菩薩様などが入った小さな社が見えた。弘法大師の像は、そこからさらに一段上の大岩の上に安置されている。辺りを見渡したが、まだ静子は来ていないようだ。
 良平はためらったが、観世音菩薩やお地蔵様の前にしゃがむと、一つ一つの仏様に手を合わせ、出征している兄の無事を祈った。
 異教の神を拝んでいる姿を神父様や信者の人たちに見られたら、咎められるに違いないが、縋れるものであれば何にでも縋りたかった。

 兄の輝夫は諫早中学校を卒業すると、市内小野干拓地にできた開校間もない逓信省長崎地方航空機乗員養成所に操縦生として入所した。
 民間航空機のパイロットになるのだと意気込んでいた。兄は良平の憧れであり、誇らしい存在だった。
 幼い時から父に外国の話を聞かされて育ったせいか、よく兄と飛行機や外国の街の話をした。
 兄は「父上は船で世界を回られたが、これからは飛行機だ。自分は大空を翼で駆けて、世界の国々を回ってみせる」と言って、眼を輝かせた。
 良平も大空を自由に飛べたら、どんなに素晴らしいだろうと思った。兄に連れられ、よく隣町の大村の海軍基地の飛行機を見に行った。帰りは線路を二人で歩いて帰ってきた。両手を広げて飛行機になりきり、世界の国々と街々を空想の中で巡っていると、いつの間にか諫早に着いていた。
 赤とんぼと呼ばれた練習機が養成所の小野飛行場から諫早の空に初めて飛び立ったときには、町中が湧き立った。自分が空を飛んだかのように、誰もが興奮して話した。
 良平も父と連れ立って、飛行場まで見に行った。兄が練習機を操縦して飛び立つときには、良平も拳を握りしめて力が入った。兄が大空を翔る姿は、今も鮮明に覚えている。

 しかし航空機乗員養成所は昨年三月海軍に接収され、大村航空隊の分遣隊の基地となり、今年三月には諫早海軍飛行隊となった。兄はそのまま海軍に召集された。
 昨年十月のレイテ沖海戦では、わずかに残っていた空母の瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田までもが撃沈され、戦艦武蔵もシブヤン海の藻屑と帰した。この海戦ではじめて、神風特別攻撃隊が出撃した。
 兄は今年五月に、鹿屋の特攻基地から神風特別攻撃隊として出撃したが、エンジン不調で特攻を断念し、徳之島に不時着した。森を数日さまよった挙句の生還だった。
 生きて帰還した特攻隊員はいないのが建前である。兄は秘密の収容施設に入れられた後、再び鹿屋基地に特攻要員として再配属されていると、密かに伝え聞いた。
 しかし諫早では、兄は特攻で既に戦死したことになっている。遺骨もないまま、出撃の一週間後には兄の葬儀が盛大に営まれた。生きていることが分ったのは葬儀の大分後だった。
 兄の最後の様子を聴こうと、父が友人を頼って問い合わせてわかった。兄の生存は極秘事項だった。それを知る者は、諫早では父と良平のみである。
 父は兄を航空機乗員養成所に入れたことを悔やんだ。民間パイロットを養成するという謳い文句だったが、養成所の設置には海軍が深く関わっていたことを後から知った。
 どんなに非難を受けようと、兄には生きていてほしかった。良平には兄の無事を祈ることしかできない。

「良平さん、こっちよ」
 弘法様が安置されている崖上から、静子が顔を覗かせていた。崖の上の平らな岩棚に、良平と静子は少し間をおいて腰掛けた。

 鬱蒼と茂った樹木が二人を覆い隠して、下からは全く見えない。
「家の人に怪しまれんやった?」
「女学校の救護訓練が朝早くからあると言って、出てきたの」
 静子は嬉しそうに微笑んだ。そして、手提げの中から笹の葉にくるまれた包みを取り出し、良平の眼の前に差し出した。
「はい、おにぎり。半分して、一緒に食べましょう」
「おー、すごか。よう持ってこられたね」
 静子は得意そうな顔を良平に向けた。
 白飯の握りだった。こんなに白いご飯は、もう何か月も食べていないと思った。静子はおにぎりを二つに割ると、大きい方を良平の掌の上に置いた。
「ありがとう。実は腹が減って、昨日の晩もあんまりよう寝れんやった」
「そうだろうと思った。昨日の晩ご飯の後片付けをする時にね、少しもらったと。心臓がドキドキしたとよ」
 良平はおにぎりにかぶりついた。
「美味かよ、ほんとに」
 おにぎりは塩が効かせてあった。中には梅干しと紫蘇が入っている。
 米や麦をはじめ肉や魚など食料品をはじめ衣服や靴に至るまで、すべてが統制され、配給制だった。最近では米や麦ではなく、大豆や素麺が配給されることもあった。その量も次第に削られていると、ウメが愚痴をこぼしていた。
 静子の家はこの辺りでは大きな農家だったから、良平の家より食糧事情は随分ましなようだ。良平は家の庭を耕して植えたサツマイモに期待していたが、収穫はまだだいぶ先である。
 良平は隣の静子を見た。少しずつおにぎりを頬張るその横顔を盗み見ながら、やはり今日は言わなければと決心した。
 梅雨が明け、お盆がもう間近だったが、戦争の行方はいよいよ緊迫の度を増していた。

 昨年十一月には、東洋一の規模と言われる隣町の大村海軍航空廠が、中国成都から飛来したB29爆撃機に爆撃された。
 大村の三五二海軍航空隊の零戦や雷電がこれを迎撃し、多良山麓上空で激しい空中戦を繰り広げた。それを諫早市民は固唾を飲んで見守った。
 朝九時半頃だったと思う。良平たち諫早中学校の生徒は、多良山麓の高台にある目代の運動場近くで勤労奉仕をしていた。鳴り響く空襲サイレンに運動場の桜の木の下に身を潜め、繰り広げられる空中戦を見上げた。
 諫早の北西の空、大村上空から耳をつんざく轟音とともに飛んでくるB29の大編隊に、米粒ほどの小さな日本の戦闘機が群がるように攻撃した。敵の編隊が次第に崩れ、遅れた最後尾の爆撃機に零戦が一機体当たりを敢行した。
 B29は木の葉が返るように錐揉み状態となって、有明海の方にゆっくりと墜落して行き、体当たりした零戦は直後に大破したように見えた。零戦の残骸がキラキラと線香花火のように空中に消えていった。

 それが良平の見た、初めての戦争だった。
 その日の午後、良平たちは勤労奉仕を終えると、仲間で墜落したB29爆撃機を見に行こうということになった。諫早湾沿いに太良方面に歩いて行った。興奮していたせいか、全く疲れを感じなかったことを覚えている。
 湯江駅を過ぎ、有明海が間近に見える小長井まで来たとき、沖の浅瀬にB29爆撃機が機首を斜めに突き刺し、大きな垂直尾翼を立てたまま無残に機体を晒していた。
 巨大な鉄の塊だった。それまで見た日本のどの飛行機よりも桁違いに大きかった。良平たちは圧倒され、無言のままじっとその残骸を眺めた。

 人だかりがしている海岸沿いの倉庫前に、一人のアメリカ兵の遺体が横たえてあった。
 肌の色が赤いと思った。まだ若く、二十歳前後に見えた。
 遺体は損傷が激しく、良平はむかむかと湧き上がってくる異物に口を押さえた。あんな無残な死体を見たのは初めてだった。
 アメリカ兵の所持品を調べていた憲兵が、取り出した写真を見てそのまま捨て去った。目の前に飛んできた写真を拾い上げて見ると、ブロンドの可愛いらしい少女が精一杯の笑顔で微笑みかけていた。

 今年に入り東京大空襲の惨状や、沖縄での日本軍玉砕の様子も伝わってきた。諫早の街中でも防火帯設置のため家屋移転が行われ、緊迫した空気に包まれていた。
 東シナ海に開けた橘湾沿岸では、敵の上陸に備えて橘守備隊が配置され、魚雷や特攻ボートの震洋隊の基地や砲台が突貫工事で整備された。
 ひと月ほど前、六月二十八日の深夜には、佐世保が大空襲を受けた。諫早の街の上空をぶきみな爆音を響かせ、サイパンから飛来したB29の大編隊が次々と通過していった。
 市内にあった高射砲陣地から砲撃したが、飛行機まで弾が届かず、途中で爆発した弾の破裂光が暗闇に不気味な爆撃機の巨体を虚しく浮かびあがらせた。
 佐世保は廃墟の街となって、死者は千二百人を下らないだろうとの話だった。本土決戦がいよいよ現実味を帯びてきた。
 そして、昨晩の隣保班の寄合で、広島に新型爆弾が落とされたと聞いた。広島の街全体が壊滅したとのうわさだった。
 その爆弾のことを「ピカドン」という者もいた。悪化する戦況は、もはや一刻の猶予もないところまで迫っていた。

 こうして静子と密かに逢っていることが学校や友だちに知られたらと思うと、気が気でなかった。
 一方で静子に逢えなくなると思うと、寂しさが募った。矛盾する思いを抱えながら逡巡する日々を過ごしてきたが、近所や友達からは親兄弟が戦死したとの話を聞くことが多くなった。
 昨日も隣宅の敬一郎さんが戦死したとの知らせを受けた。敬一郎さんは、良平をよく可愛がってくれた。
 ましてや兄は、特攻隊員としていつ出撃するかわからない。従軍している兄に対する後ろめたい思いが、良平の心をなお重くしていた。

 

(三)  有  明  海  の  思  い  出


 良平の家は諫早駅前から東に見える裏山の丘の上、静子の家は同じ尾根筋を北にいった目代と少し離れているが、静子の家の隣が乳母のウメの家だったから、小さい頃はよく本明川で一緒に遊んだ。
 良平は母をまだ幼い頃に病気で亡くし、ウメが母親代わりだった。
 国民学校に行くようになると、他の男子の手前、女子と話すことに抵抗があった。そして、静子を意識すればするほど、態度は逆につっけんどんになってしまう。それは静子の方でも同じようだった。
 通学路が同じで、国民学校への行き帰りに偶然に一緒になることも多く、会えばお互いに会釈はしたが、話をすることはなかった。
 しかし、良平は静子と逢うことを次第に楽しみにするようになっていた。卒業後、良平は諫早中学校に進み、静子は諫早高等女学校に進学し、良平の密かな楽しみは失われた。
 二人が偶然再会したのは、昨年十月に空襲警報が市内に鳴り響いたときだった。その日、警報が鳴ったとき、良平は図書館裏の城址の防空壕に逃げ込んだが、偶然にもただ一人の先客は静子だった。
 以前は話したくても全く話し掛けられなかったが、そのときは自然に話すことができた。
 以前の良平とは何かが変わっていた。その変化の素地は良平だけではなく、静子の方にもあったのかも知れない。
 それからは、月に一度は人目を避けて逢うようになった。大抵は朝早く、この観音様で待ち合わせた。連絡は静子の妹が学校の行き帰りにしてくれた。

「静さん、ぼくたち、しばらく逢わん方がよかかも知れん」
 良平の言葉に静子は一瞬顔を強張らせ、おにぎりを頬張ったまま大きな瞳を良平に向けた。良平は視線を逸らした。
「こんなご時世やけん、もし、ぼくたちがこうして逢うとることが学校にでも知れたら、ただじゃ済まんと思う」
「うちは……」
 それだけ言って、静子の声は途切れてしまった。
 次の言葉を待ったが、静子は俯いたまま、それ以上は何も言わなかった。
 静けさが二人を包んだ。鳥のさえずりと水車の音が殊のほか大きく感じられた。
 良平は何か話さなければと焦った。
「そうだ、今日は静さんのために、いいものを持ってきたよ」
 良平が手についたご飯粒を急いで食べ、腰の鞄から本を取り出そうと体をよじったとき、地面で小さな金属音がした。首に提げていた十字架が落ち、それを静子が拾い上げた。静子は珍しそうにしばらく十字架に見入った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、金具が緩んだかな?」
 良平は鎖の金具を点検すると、十字架を元のように取りつけた。十字架がはずれたことなど、今までなかったことだった。
「その十字架は、キリスト様の下にマリア様の像が付いているのね。他の人たちのものも、そんな感じなの?」
「いや、普通はキリスト像だけのものが多いよ。ぼくのは、母がしていた形見なんだ」
 母の八重子は良平を産んだ後の肥立ちが悪く、良平が三歳のときに他界していた。
「ほら、静さん、この本を見てごらんよ」
 静子は良平が差し出した本を受け取ると、和紙でカバーを掛けた表紙を捲った。
 そこには「わがひとに与ふる哀歌」と印刷されていた。
「この詩集はね、諫早出身の人が書いたもんばい」
「へえー、伊東静雄っていう人?」
「うん、この人の実家は、教法寺の近くの這松下辺りだそうな。こんな素晴らしい詩を諫早出身の人が書いたと思うたら、嬉しくて。栞のところを開けてみて、ぼくが特に気に入っとる詩があるよ」

 静子は本の中ほどに差し込こまれている栞の頁をめくった。
「有明海の思い出……」
「うん。詩集の中で特に好きなのが〈曠野の歌〉という詩と、この〈有明海の思い出〉なんだ。最後の方が特に気に入っとると。確か、こうだよね」
 そう言うと、良平は詩の一節を諳んじてみせた。
「夢みつつ誘われつつ、如何にしばしば少年等は各自の小さい滑板にのり、彼の島を目指して滑り行っただろう。あゝわが祖父の物語!泥海ふかく溺れた児らは、透明に透明に無数なしゃっぱに化身をしたと」
 静子は本の文字を指で押さえながら、一つひとつ確認した。
「どう、合っとるね?」
「全部合っとる、さすが良平さんね」と静子が嬉しそうに微笑んだ。
「静さん、どうね、いい詩やろ。彼の島というのは、泉水海に浮かぶ、あの三つ島のことばい、きっと」
 水害で流され死んだ人たちの魂は、今でも有明海の底を漂っているのだと、良平は小さいころからウメに聞かされていた。
「諫早のことが詠われているのね」
「静さん、憶えとるね?ウメに連れられて、本明川の河口にムツゴロウやカニを獲りに行ったこと」
「うん、よく憶えとるよ。干潟に膝まで浸かって、カニを一緒に獲ったもんね。良平さんはムツゴロウに逃げられて、干潟を泳ぐように沖に追いかけて行ってしもうて」
「結局、つかまえられんやったけどね」
「そして、深みにはまって戻れんようになってしもうた」
 静子が良平をからかうように上目使いで見た。
「えー、そうやったっけ?」

 良平はわざととぼけてみせたが、忘れるはずもなかった。
 大きなムツゴロウを見つけたのだった。夢中で追い掛け回し、素手で捕まえたと思ったら、するりと抜けた。

 干潟に落ちたムツゴロウが撥ねて逃げると、それをまた追った。何回それを繰り返したろうか。沖へ沖へと誘い出されるように、夢中で追いかけた。
 岸からは一様に平らに見えた干潟も、実際はなだらかに窪んだ低い部分と、少し膨らみ盛り上がった部分があった。
 浅い澪筋のような柔らかいところに足を踏み入れたとき、落とし穴に嵌ったように底が抜け、その後ずぶずぶと身体が干潟の中に沈んでいった。
 そのまま干潟の中に吸い込まれてしまうのではないかと、恐怖に胆をつぶした。

「忘れたなんて言わせませんからね。ウメさんが大騒ぎをして、長田の漁師さんたちが大勢集まって来てくれらしたでしょう」
「そうだった、そんなことも確かにあった」
「あのときは、本当に心配したとよ。潮がどんどん満ちてくるでしょう、もう気が気じゃなかったと」
 静子の眼には、あのときの情景が映っているようだった。
「ウメが人を呼びに行っとる間、静さんが大きな声でぼくを励まし続けてくれたね」
 良平にも、堤防の上から励まし続ける幼い静子の姿がありありと思い出された。
「だって、もう心配で、心配で」
「ほんとに、溺れそうになったもんね。腰まで潟に埋まってしもうて、ピクリとも動けんごとなってしもうた。潮が胸の辺まで来たときは、さすがに焦ってしもうたなあ。詩のごと、ひょっとすれば溺れ死んでしもうて、有明海のシャッパになっとったかも知れんね」
「良平さん……」
 静子の眼はもう笑っていなかった。静子の強い視線が良平をとらえていた。
「良平さんが戦争に行くことはなかよね?」
 静子の真剣な眼差しが良平の体を射抜くようだった。良平は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「徴兵は一応満十七歳以上が対象やっけん。でもこのまま行けば、また引き下げらるっと思う。今だって、志願することはできるし、この頃は同級生にも志願者が出てきた」
「志願すると?」
 静子はじっと良平を見つめた。
「ぼくは……」
 良平は言葉を継いだ。
「志願はせんよ」
「よかった」
 静子の顔にさっと安どの色が広がった。
 その表情で、静子が心底心配してくれていることがわかった。良平は無性に嬉しかった。
「静さん、しばらく逢えんごとなるけど、この本を読んどってよ。そして、静さんが好きだと思う詩を、今度逢えるときに教えてくれんね」
「私に詩がわかるかしら?」
 静子はためらいがちな視線を良平に返した。
「詩はわかるものじゃなかと思うよ。そんなに難しく考えんでもよかとよ。読んでみて、静さんがよかなと思うかどうか、何か感じるものがあれば、そいだけでよかと思うよ」
「それなら読んでみるわ。良平さん、ありがとう」
 静子は詩集を大事そうに胸に抱くと、寂しそうに微笑んだ。

 詩集は、上町に新しく店を開いた古本屋の紀元書房の店先で見つけたものだった。
 店と言っても、粗末な台の上に古本を並べただけのものだったが、そこには良平が読んでみたい本がいくつもあった。
 聞くと主人は佐世保から疎開して来たという。詩集を出したこともあると、自作の「地上の歌」という詩集を見せてくれた。本には上村肇と印刷してあった。そして教えてもらったのが、伊東静雄の存在だった。
 店主から伊東の話を聞くうちに、読みたくなった。諫早出身者に有名な詩人がいることに、嬉しさとともに自分の可能性をほんの少し垣間見た思いがした。
 伊東の三冊の詩集を手に取って迷っていると、「わがひとに与ふる哀歌」と「夏花」の二冊で一冊分の値段でいいと言う。おまけに、伊東の詩が載っている「知性」という雑誌も付けてくれた。
 良平が恐縮すると、「空襲でいつ焼けるかわからないから、読んでもらった方がいいんだ」と言って、店主はにっこり微笑んだ。

「そうだ、ほかにも伊東の詩集があるよ。ちょっと待って」
 良平は本を取り出そうと鞄を肩から外し、膝の上に乗せた。
「へえ、素敵な鞄ね」そう言って静子が手を伸ばした。
「秘密だよ、この鞄はね、アメリカ製なんだ。輝夫兄さんが父上からお土産にもらったもんばい」
「どおりで、丈夫そうだわ」
「ほら、これを見て」
 良平は鞄から二冊の本を取り出した。
「これが『夏花』という詩集だよ。伊東静雄って日本浪漫派詩人の第一等の人なんだ。こっちの雑誌にも伊東の詩が載っとるよ。よか詩ばい」
「へー、雑誌に詩が載っとると。すごかね、それ、私にも見せて」
 静子に促されて、良平は雑誌に挟んでおいた栞を開いた。
「ほら、これだよ」
 良平は開いた頁の詩題〈そんなに凝視めるな〉を指差した。

「そんなに…みつめるな…って読むの?」
「そうだよ、少し見てみる?」
「うん」
 静子が良平の持っている雑誌をのぞき込んで読み始めた。
「ここ、この部分が特に好いとるところ」
 良平の指先の文字に食い入るように、静子が顔を近づけてきた。良平の顔の直ぐ横に静子の顔があった。
 少しどぎまぎした。静子からは仄かに甘い匂いがした。
 その横顔は目鼻立ちがすっきりして、良平はふと川岸で見た野朝顔の花を思い浮かべた。
「鳥の飛翔の跡を天空にさがすな。夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな。手にふるる野花はそれを摘み、花とみずからをささえつつ歩みを運べ……。前向きで、すごくすてき言葉ね。なんか力が湧いてくるみたい」
 良平には、静子の何の屈託もないはじけるような笑顔が眩しかった。
「そうやろ、本当の詩にはね、力があるとさ。ぼくも、詩を書き始めたんだ。いつか、こんな詩が書けたらよかなあっと思っとる」
「大丈夫だよ。良平さんならきっと、この詩に負けんぐらい素敵な詩が書けるようになるよ」

 良平は静子の励ましが何よりうれしかった。良平は誰よりも先に静子に詩の話をしておきたかった。父にも友達にも、まだ言えない秘密だった。
「うん、頑張るよ」
「良平さんはすごかなあ。自分のやりたかことば、もうちゃんと持っとらすもん。私も絵を頑張ろうかな」
「そうだよ、静さんは絵が上手かとやけん、画家になりなよ。ぼくは中学校を卒業したら、長崎の叔父宅から長崎師範学校に行こうと思うとる。叔父が援助してくれると言ってくれているんだ。伊東静雄のように教師をしながら、詩を作って暮らそうと思う」
「じゃあ私は、そんな良平さんを絵に描いて、展覧会に出品しようかな」
 静子が少しはにかみながら答えた。

 良平は照れ隠しに学生帽子を被り直した。
「静さん、この戦争はそう長くは続かんと思う。飛行機の大きさが全然違うし、数だって比べものにならんよ。アメリカの国力は桁違いに大きからしか」
「日本は、負けると?」
「もう誰も勝てるとは思っとらんとじゃなかろうか」
 静子は黙って良平を見つめた。
「アメリカに、ニューヨークという大都市があるとは知っとるやろう。そのニューヨークには、雲にも届く建物が筍みたいに立っとるげな」
「建物が雲に届くと?」
 静子が木の間から見上げた空は、ようやく青を取り戻して、朝日に照らされた雲が薄赤く染まっていた。
 生々しい肉の塊のように見えて、静子はいやな雲だと思った。胸騒ぎとともに下腹部に違和感を覚えて、少し眉間に皺を寄せた。
「静さん、違うよ。雲と言うてもあんな高い雲じゃなくて、ほら雨の日に出る低い雲だよ。とにかく想像もできんぐらい高くて、夜はこの世のものとは思えんぐらい綺麗なんだそうだ。摩天楼だと聞いたよ」
「へえー、ちょっと想像できんね」
「うん、そんなとんでもなか強大な国と戦争をしよるとよ、日本は」

 静子は何も答えなかったが、不安そうな表情が見て取れた。
「ぼくは、早くこの戦争が終わればよかと思うとる。お国のために沢山の人が戦死さしたというとに、非国民もよかとこたいね」
「良平さんは正直なだけよ。私だって本心ではそう思っとるもん」
 静子は意を決したように語気を強めた。
 親子の間でさえ、戦争への非難がましい言動は憚られた。良平はほっと安堵して、強張った身体から力が抜けた。
「静さんは新型爆弾が広島に落とされたこと、聞いたね?」
「いいえ、初めてよ。新型爆弾って、そんなにすごいとやろか?」
「新型爆弾で、広島の街が壊滅したと聞いたよ」
「街が全滅すると?」
「そう、悪魔のような兵器をアメリカが開発したげな。このまま行けば、燃料も食べ物も何もかもなくなってみんな野垂れ死するか、佐世保や広島のように爆弾で皆殺しにされて、本当に一億玉砕するしかなかよ。ぼくには万策尽きたように思える」
 良平は兄のことを想うと、どうせ負けるなら早く終わってくれと願わずにはいられなかった。
「この戦争はそう長くせず終わる、ぼくはそう思う」
「戦争が終われば、また穏やかに暮らせる日がやってくるかしら」
「うん、ぼくはそう信じとる。そうだ、戦争が終わったら、二人で長崎に行こうよ。静さんに浦上天主堂を見せたかし、デパートの岡政とか、新地中華街にも行ってみたかなあ。浦上の叔父の家に寄って、何かご馳走を食べさせてもらおうよ。叔父の家からは長崎の街が一望できて、庭にはそりゃあ綺麗な花がいっぱい咲いとるとよ」
「うわあ、楽しみ。叔父さんの家に、絶対連れて行ってね。私はあんまり長崎には行ったことなかけん、良平さんに任せる」
「ああ、ぼくに任せて」

 静子の後ろの木の間から見える遠くの家並みに、朝の透き通った光が差しかかってきた。
「静さん、そろそろ行こうか。みんなが集まってくる時間だよ」
「良平さんは、今日はどこに行くの?」
 静子が辺りを見廻しながら問いかけた。
「大村だよ、諫早駅前に集合するように言われとる。近頃は大村に行くことが多くなってきたよ。静さんは?」
「私はたぶん、諫早公園にできた発動機部の工場に行くことになると思う。今日は救護訓練がそこであるの。工場には、諫早中学の人も結構おらすとよ。良平さんも発動機部になればよかとにね」
「それが一番やけど、泊まり込みで大村に行っとる連中は、ノミやシラミにやられて大変らしかよ。そいつらに比べたら通いやから、まだましな方かも知れん。でも、この間はびっくりした。艦載機のグラマンから機銃掃射を受けて、必死に防空壕に逃げ込んだよ」
「気をつけてね、大村はB29が来るかも知れんけん」
「うん、爆撃機が来たら、真っ先に防空壕に逃げることにする」
「約束よ!」
 静子が真剣な眼差しで小指を差し出した。
 良平は少し躊躇して小指を出した。
「約束する」

 (四) 運  命  の  歯  車


 静子と別れた良平は、諫早駅前の広場に向かった。
 既に学校の授業は停止され、良平の組は学徒報国隊として大村海軍航空廠の関連工場に行くことが多かった。その日は、点呼を取った後、担任の野口教官が教頭に呼ばれて戻ってきた。
「誰か一人、長崎の三菱兵器製作所の住吉トンネル工場に行って、書類をもらって来てくれ」
 教官は整列した生徒を眺めまわした。
 生徒たちは顔を見合わせたが、誰も志願する者はいなかった。良平は浦上の叔父の家にはよく行くが、三菱の軍需工場辺りは警備が厳しく、近づいたことはなかった。
 初めての任務は要領が分からず、失敗でもしようものならひどい罰を受けるから、出来れば避けたかった。
 しかし、最前列に整列していた良平を野口がじっと見た。
「御厨、お前の鞄は丈夫そうだな。お前、行ってくれるか?」
 良平を見る野口の視線には、有無を言わせない強いものがあった。野口は普段は穏やかな口調だが、一度激昂すると手が付けられないところがあった。
 失神するまで殴られる同級生を何度も見てきた。良平はもやもやしたものを感じながらも、観念した。
「はい、行かせていただきます」
「よし、住吉トンネル工場の一号トンネルの技術部の佐田さんという人を訪ねろ。十時に来てくれということだ。行けば分かるようになっているそうだ」
「はい」
 良平は野口に敬礼をした。

 良平は諫早駅の一番線乗り場から、同級生とは逆方向の長崎行きの汽車に乗った。汽車の前の車両には、他県からきた学徒隊が大勢乗っていたため、良平は一番後ろの車両に乗り込んだ。
 汽車はのどかな田園の中を、いつもよりゆっくり進んで行くように感じられた。青い稲の葉波が切れた辺りに海が見えた。
 右前方に視線を移しながら少し腰を浮かせ、遠く横島海水浴場を眺めた。横島は遠浅の砂地の海岸で、波静かな大村湾の最深部に位置し、アサリやハマグリなどがよく採れる。
 戦況が悪化する前までは、良平も友達と一緒によく遊びに行った場所だった。平時なら夏休みで多くの子どもたちが歓声を上げて泳いでいるはずだが、さすがに人影はなかった。

 汽車は喜々津駅でしばらく停車して、上りの汽車と待ち合わせたが、ホームに入ってきた車両には長崎から帰る学徒隊が乗っていた。
 下り車両に学徒隊を見つけると、数人の学生がホームに降りてエールを送った。それに応えて、今度は下り車両の学徒隊からもエールが返され、ホームは青年たちの歓声と熱気に包まれた。
 喜々津駅を出発した汽車は、出入りの激しい大草の海岸沿いを右に左に進路を切り返しながら進んで行く。海沿いの山肌はみかんの木に覆われ、濃い緑の葉が夏の日差しを時折反射させる。
 大草駅を過ぎると線路は大村湾から離れ、伊木力の深い谷間に沿って上り勾配が続く。汽車は苦しそうに蒸気を吐き出し、その蒸気が谷の両側を埋めるみかんの木を時折視界から隠した。

「お母さん、お腹が空いた」
 通路を挟んだ隣りの席に座っていた幼い女の児が、いつの間にか若い母親の膝に縋りついていた。
 母親は一瞬困った顔をしたが、直ぐに優しい笑顔を向けて子どもを膝の上に抱き上げ、黙ってそっと抱き寄せた。
 耳元で何か童謡を歌っているようだった。赤ちゃんをあやすように、子どもの背中でトントンと拍子を取っている。子どもはそれ以上何も言わず、ただ親指を口にくわえて焦点の定まらない視線をみかん畑の方に向けた。
 たぶん今朝から何も食べていないのではないかと思った。

「はい、どうぞ」
 突然に、母親の前に座っていた婦人が梨を女の児に差し出した。
 女の児はきょっとんとして目を一段と大きく見開き、差し出された梨とその女性の顔を交互に見比べると、母親の顔をじっと見上げた。母親もどうしたものかと迷っている様子で、直ぐには答えられなかった。
「よかとよ、余分に持ってきたから。一つどうぞ」
 その婦人は梨に付いている埃でも落とすように、何度もその表面を掌で丁寧に拭くと、再び女の児の目の前に差し出した。
「ありがとうございます」
 堰を切ったように、母親の目から涙が止めどなくこぼれ落ちた。我慢していたものが一気に噴き出したような涙だった。お礼を言いながら、何度も何度もお辞儀をした。
「よかと、よかとよ。庭になった梨を住吉の娘の家に届けるところなの。ちょうど、このお嬢ちゃんと同じぐらいの孫がおってね、みんな大変だもんね」
 梨をもらった女の児は嬉しそうに一口かじると、母親の顔の前に梨を差し出した。食べろと無言で言っている。母親は、自分はいいから咲ちゃんが食べなさいと優しく言い含めていたが、女の児は頑なに首を横に振って、なお母親の前に梨を差し出した。
「一緒に食べてやってくれんね」
 婦人のひと言で、ようやく母親が梨を一口かじった。女の児が満面の笑みを浮かべた。
「美味しいね」
 女の児は母親に小さな声で囁いた。
「本当に、美味しいね。今まで食べたどんなものよりも、美味しいね」
 母親の声は涙にむせび、最後は聞き取れなかった。
 この親子は佐世保の空襲で住まいを焼かれ、知人宅に身を寄せていたが、そこも居づらくなり、遠縁を頼って長崎の浦上に行くところだという。ご主人は、昨年十一月に台湾北方の海に沈んだ戦艦「金剛」とともに戦死されたと話した。

「ひどい戦争だ。このまま行けば、日本は間違いなく滅ぶだろうよ」
 良平の前の席に座っている男が独り言を呟いた。
 四十歳ぐらいに見えるその男は、良平が諫早駅から乗り込んで隣に座ったときから、目を閉じたまま頭を壁に預けて具合が悪そうだった。時々思い出したように席を立ち、貨車の後部出入り口で嘔吐を繰り返していた。
 初めは二日酔いかと思ったが、酒の匂いは全くしなかった。着ている服は質が良く着こなしもさっぱりしていたが、顔は青白く頬はこけていた。男はまた眼を瞑ってしまった。言葉を掛けるのが憚られる雰囲気があった。

 良平が何気なく男の疲れきった顔を見ていると、鼻血がすっと顎を伝わりズボンの上に滴り落ちた。男は慌てて手で鼻を抑えたが、指の間から血が洩れた。咄嗟に良平は腰の手拭いを男に渡した。
「大丈夫ですか、具合がひどく悪かごたるですね」
 良平は思い切って話しかけてみた。
「ああ、昨日あたりから風邪のような症状が出てね。体はだるいし、吐き気がするんだ。しかし、鼻血が出たのは初めてだよ。長旅の疲れが出たのかも知れない」
「どっから来らしたとですか?」
「広島からだ。長崎の幸町工場に帰るところだ。貸してもらった手ぬぐいは、もう使い物にならないよ。悪いことをしたね」
「よかとです、使ってください」

 良平は広島と聞いて、新型爆弾のことを訊ねてみようかと思ったが、思い止まった。新型爆弾の件は戦争の極秘事項かも知れず、軽々しく車内で話すようなことではなかった。
「君は、広島の街が新型爆弾で壊滅したことを知っているかい?」
 鼻辺りを手拭いで押さえながら、暗く潤んだ目が良平を見ていた。
 良平はびっくりして辺りを見回した。近くにいた乗客の視線が、一斉に良平たちの方に向けられていた。
「いいんだよ、どうせ日本は、早晩滅ぶ運命なんだ。憲兵がいようが構うものか。地獄だったよ、広島の街は。一瞬だよ、一瞬。ピカッと光ったと思ったら、物凄い爆風が来て、本当に一瞬で廃墟の街に変わってしまった。何万という人が一瞬で命を落とした。私は偶々堅牢な壁の陰にいたから助かったが、窓際にいた同僚は跡形もなかった。生き残った人たちも体を熱線に焼かれ、爆風に吹き飛ばされ、酷い有様だった。黒い人間の影だけが外壁に残っているところもあったよ。阿鼻叫喚とはあんな光景を言うのだろうね。水を求めて川岸には夥しい負傷者たちが押し寄せ、折り重なって死んでいくんだ。あれはこの世のものじゃないよ。地獄、焦熱の生き地獄だったよ」

 その男は、狂ったように次々と毒に染まった言葉を吐いた。
身体の中に溜まっている毒素が増殖して身体を蝕み、溢れたものが口を衝いて出てくるようだった。その男は手ぬぐいで顔を覆い、ついに感極まって嗚咽を漏らした。
 良平は掛ける言葉が見つからなかった。車内には男の咽ぶ声が低く響いた。乗客はみな一様に無言で、男が語った広島の街の惨状に思いを馳せているようだった。
 良平は居た堪れない思いで、窓外に眼を移した。
 さっきまであれほど明るく晴れていた車外は急に陽が陰り、辺りの景色が沈んで見えた。直ぐそこにトンネルが迫っていた。直後に車内は暗闇に呑み込まれた。
 良平は得体のしれない暗黒の世界に引き寄せられていくようで、拳を固く握りしめた。

 静子は良平と別れた後、女学校に来はしたが、気分が悪くなった。
 ときに下腹部に刺すような鈍痛がきて、うずくまった。仕方なく先生に事情を話し、救護室で横になっていた。
 静子は開け放った窓から吹きそよぐ風を感じて、眼を窓の外に向けた。白いカーテンが風に揺れ、校舎に覆いかぶさるように茂ったクスノキの木の間から夏の青空が見えた。
 幼い頃、良平とよく遊んだ本明川から見上げた空が思い出された。あの頃見ていた青空と何かが違うように思えた。
 何がどう違うのかうまく説明できなかったが、もうあの頃に戻れないのだという悔恨みたいなものが湧き上がってきた。

 救護室のドアを小さく叩く音がした。
 静子がどうぞと返事をすると、少し開いたドアの隙間から顔をのぞかせたのは多恵子だった。
「具合はどうよ?」
「うん、少し楽になった。救護隊員が具合が悪くなるようじゃ、駄目ね」
「しょうがなかよ、女は赤ちゃんを産まんばいかんとやっけん、体を大切にせんばね」
 多恵子が静子の枕元に座って、布団を直してくれた。
「これから諫早公園に救護隊の訓練に行って来るわ。静ちゃんは早退させてもらいなさいよ」
「うん、お役に立てそうもなかもんね。多恵ちゃんは、わが校の救護隊長さんだから大変ね」
「そうなの、隊長は大変なのよ。みんなを統率して連れて行かんばできんでしょう。兵隊さんたちは色々と用事を言いつけらすし。みんな私のところに言って来らすとよ」
「頼りにされとる証拠よ、多恵ちゃんは。頑張ってね」
「まあ、それはいいとやけど。ねえねえ、それより知っとる、広島に新型爆弾が落とされたこと?」
「うん、良平さんも、今朝そんなことを言いよらした。広島の街が全滅したって」
「あれ、まあ、静ちゃんからまた良平さんが出た。静ちゃんは何かあると良平さんよね。今朝も逢ったとね、へえ、そうね」
 多恵子は睨むような真似をした。静子はしまったと思った。
「うっうん、まあ。それより多恵ちゃんは誰から聞いたと、広島のこと?」
「わたしは新聞で見たとよ。隅っこに小さくのってたと。この頃はね、小さな記事ほど重大事件だと思うようにしとるとよ。新型爆弾と書くぐらいだから、今までの爆弾とは全く違う兵器だと思ったと。やっぱりね、こっちにも落とされたら大変なことになるわ」
「さすが、隊長ね。読みが深い」
「褒められても全然嬉しくないわ。それより、私は絶対誰にもしゃべらないからよかけど、良平さんと逢うの、しばらく止めた方がよかと思う。みんな気が立っているから、ばれたらどんなひどいことされるかわからんよ」
「うん、わかった。良平さんからも同じこと言われたと」
「そう、それならいいわ」
 多恵子はそう言うと、行きたくないけどと言いながら救護室を出て行った。

 静子は起き上がり窓辺に立つと、校庭を見下ろした。
 思い思いのグループに分かれた女生徒たちが楽しそうにおしゃべりしているところに多恵子が現れ、大きな声で整列の掛け声を掛けた。
 女生徒たちは蜘蛛の子を散らすように一度はばらけたが、何かの法則に誘導されるように二列の整列体制に収斂した。
 静子はそれを楽しく眺めると、東の地平線に眼を向けた。
女学校がある宇都の高台からは、なだらかに裾野を広げる雲仙や小野干拓地の先に遠く有明海が遠望できた。
 幼い頃、良平とムツゴロウを獲って遊んだ本明川の河口付近もおぼろげながらわかった。
 また下腹部に痛みがぶり返した。静子は痛みが治まるのを待って家に帰る身支度を始めたが、手提げに入れようとした荷物の中から詩集が床に落ちた。
 静子は慌てて詩集を拾ったが、栞を挟んでいたページが開いて紙が少し折れた。〈有明海の思い出〉のページだった。
 静子は丁寧に紙の折れ目のしわを伸ばし、詩集を一旦ゆっくり閉じて、改めて詩集を最初から捲ってみた。
 巻頭の〈晴れた日に〉という詩の次に、相当読み込んでいるのだろう、良平が特に好きだと言っていた〈曠野の歌〉のページがすぐ出てきた。薄く鉛筆で線が引かれている箇所もあった。
 静子は、誰もいないことを確かめると、少し調子をつけて声を出して読んでみた。

〈 わが死せむ美しい日のために 連嶺の夢想よ! 汝が白雪を消さずあれ 息ぐるしい稀薄のこれの曠野に ひと知れぬ泉をすぎ 非時の木の実熟るる 隠れたる場所を過ぎ われの播種く花のしるし 近づく日われ屍骸を曳かむ馬を この道標はいざなひ還さむ あゝかくてわが永久の帰郷を 高貴なる汝が白き光見送り 木の実照り 泉はわらひ……わが痛き夢よこの時ぞ遂に 休らはむもの! 〉 

 詩を読み進むに従い、静子の声は次第にトーンが落ち、最後は言葉が出てこなくなった。
 静子は、詩集を閉じた。
急に胸騒ぎが起こり、その不安は徐々に身体を侵しながら広がり、静子を落ち着かない心持にした。
 静子は、良平のことを思った。
もう大村の海軍工廠の工場では、作業が始まっている頃だった。


 (五) 長 崎 の 空


 浦上駅に到着したのは、午前七時四十分を少し過ぎていた。
 トンネル工場には、一つ手前の尾ノ道駅で下車して歩くのが近いが、早く着きすぎたので、浦上の叔父の家に寄って時間調整をすることにした。
 戦局が緊迫して私的な往来は憚られ、叔父の家には正月に遊びに行ったきりだった。久し振りに叔父夫婦に逢いたくもあった。
 浦上駅では学徒隊が下車し、改札口が混雑した。良平が駅前に出ると、具合が悪そうだった隣の男性が意外にしっかりした足取りで道路を右に折れた。
 その後をあの母子が手をつないで楽しそうに続いた。良平はその姿を見送り、そのまま道路を渡り赤迫行きの電停に立った。女の児に梨をあげた婦人も一緒で、軽くお辞儀を交わした。
 路面電車に乗ってすぐ警戒警報に続いて空襲警報が鳴り、電車は停車して近くの防空壕に避難した。
 しかし何事もなく三十分ほどで空襲警報は解除され、再開された路面電車で大橋電停まで行き、東の尾根に続く丘の道に進んだ。なだらかな坂道の両側の住宅では、もう子どもたちが庭に繰り出し、駆け回って歓声を上げていた。
 山里国民学校の横を通り、県立長崎工業学校を過ぎた高台で立ち止まり、良平は空を見上げた。
 雲間から見える空はどこまでも青く、宇宙の果てまで一直線に突き抜けているようだ。振り返り、浦上の街を眺めた。
 人も草木も建物も、この街のすべてのものがひっそりと呼吸していた。戦争をしていることさえ忘れさせる長閑な光景だった。

 右手の谷向こうに浦上天主堂が見えた。その壮麗な姿をしばらく眺めた。多くの人が忙しく出入りする様子が遠く見て取れ、ミサの準備が始まっているようだった。
 良平は真っ直ぐ、さらに上の丘に続く道を歩いた。
 丘の上に見える大きな桜の木を目指し、切支丹墓地を抜けると、道は細く九十九折の急坂となる。汗を拭きながら坂を上り切ると、港に続く長崎の市街地が眼前に一望できた。
 遠くに岩屋山から稲佐山に至る稜線が見えたが、その手前の市街地には巨大な軍需工場の煙突群が空に向かって伸びていた。
 煙突だけがその風景に場違いに大きく、人間の力を誇示するかのように、もうもうと黒い煙を天に向かって吐き出していた。
 その煙は遠くの山並みを遮り、岩屋山を凌駕するほどの高さまで昇って、空に灰色の雲を創り出しているように見えた。
 岩屋山には、叔父夫婦に連れられて登ったことがあった。岩屋山は、浦上の信徒にとっては聖なる山だ。頂上からは、禁教時代に潜伏キリシタンの聖地だった外海の樫山が見える。
 浦上では、岩屋山から樫山を三度拝めば一度巡礼したことになり、樫山に三度巡礼すればローマに一度巡礼したことになるとの言い伝えがある。良平はしばらく黙祷した。

 細い里道が畑の中をなだらかに登りながら、大きな桜の木に続いていた。その根元に、低い生垣を巡らした平屋の家が見えた。
 家の周りには蜜柑や枇杷、桃や梅などの果樹が植えられ、庭には夏の野菜や花々が溢れ、蝶たちが忙しく飛び交っていた。ここだけは、下界を離れた清浄な聖域のように感じられた。
 叔父の進次郎と叔母の民子が驚いて、農作業の手を止めた。
「おお、良平じゃないか。どうした、今日は?」
「うん、命令でトンネル工場に行くところやけど、早く着きすぎて時間があったけん、寄ってみた」
「そうね、よう来んさった。久し振りやったね、さっさ、縁に座らんね。珍しい月餅があっとよ、今持ってくるけんね」
 子どもがない叔父夫婦は良平が遊びに来るたびに、心のこもった歓待をしてくれる。
 良平が諫早中学校に進学するとき、叔父はどうせなら長崎で勉強しないかと勧めてくれた。
 叔父の家から県立瓊浦中学校に通えばいいと言ってくれたが、良平は迷った末に断った。父のことも気掛かりだったが、静子と離れてしまうと思うと寂しさが先に立った。

 叔母が家の中に立ち去り、進次郎は良平を促しながら縁に腰かけた。
「ここはいつ来ても、本当に心がほっと休まるね」
「ああ、ここからの眺めは最高だろう。この景色が気に入って、土地を求めたんだ」
 二人はしばらく、無言のまま浦上の景色を眺めた。
「そう言えば、天主堂でミサの準備がありよったよ」
「私たちも、おっつけ行こうと思とる。良和や弥生たちは、先に行っているよ」
 木場の従兄弟たちが遊びに来ているらしかった。
「心平も一緒?」
「いや、心平は学校らしい。諫早の方はどうだ、時局がだいぶ緊迫してきたが」
 良平は周囲を憚り、人が居ないことを確かめた。
「叔父さんは、広島のことは聞いたね?」
 進次郎が良平の顔をまじまじと見つめ、声のトーンをぐっと落とした。
「ああ、聞いている。県知事が心配して、市民を避難させるかどうか、今日は朝から県庁で会議を開くという話だ」
「神のご加護があるから、長崎は大丈夫だよね」
「広島には陸軍第五師団司令部や第二総軍司令部があったからな。しかし、用心するに越したことはない。今度の新型爆弾は、今までとは全く違うらしいぞ。うちの会社の極秘情報だと……」
 叔父は辺りを窺うと、さらに声を潜めた。
「アメリカの大統領がな、ATOMIC BOMB、つまり、原子の爆弾だと声明を出したらしい」
「原子の爆弾?」
「そう、宇宙の基本的な力、太陽のエネルギー源と同じだと言っているそうだ。原子の力の解放は理論上では可能だと言われていたが、実際にそれを兵器まで創り上げるとは、敵ながらその科学技術力に圧倒される。全く、途方もない爆弾を開発したものだよ」
「太陽のエネルギー源と同じとね。そりゃあ、すごか」
 良平には、それがどのような爆弾で、どのように炸裂するのか、全く想像すらできなかったが、汽車の中で聞いた広島の街の惨状を思い出していた。
 あの男の人は、一瞬の熱線で街が焼き尽くされたと語った。その爆弾は、とてつもない高温の熱線を出すのだろうと思った。
「たった一発の爆弾で、広島を壊滅させたそうだ。この戦争の行き着く先は、最後には地球を滅ぼすかもしれんな」
 良平は、叔父の顔を食い入るように見た。
「たった一発で?」
「ああ、たった一発だそうだ。どれほど巨大な爆弾なのか、想像もつかない。いいか、今話したことは、絶対他言無用だぞ」
「うん、わかっとる」

「さあさあ、食べなさい」
 叔母が座敷からお盆を持って現れ、月餅が載せられた皿とお茶を二人の間に置いた。
 良平は、久しぶりに甘い餡子の入った美味しいお菓子を食べた。この月餅をお土産にして、静子にも食べさせたいと思ったが、叔父たちには言えなかった。
「今日はおかしか日ですね。朝からB29が飛んで来て、警報が出たと思ったら、たった一機でしょう。そいも、爆弾を落とすでもなく、すぐ帰っていくとやっけん、何か気持ち悪かですねえ」
「そうだなあ、空襲の前の偵察飛行かも知れんな。昨日は八幡がひどい空襲を受けたらしい。ここにも本格的な空襲があるかも知れんから、今度警報が出たらすぐに避難するようにせんとな」
「そうですね、気をつけましょう」
 叔母は身をくねらせるように縁から乗り出し、庇の端から空を見上げた。
「ところで、良平は、決まった彼女はいるのか?」
「そりゃあ、居ますよね、良平さん?」
 叔父夫婦から尋ねられて、静子のことが喉元まで出かかったが、父に先に言うべきだと思い直した。しかし、叔父たちには、嘘はつきたくなかった。
「うん、まあ」
「ほら、ねえ。良平さんは、もてるはずですよ」
 良平は恥ずかしさに下を向いた。
「そうか、そりゃあ頼もしいな。こんなご時世だが、戦況がひと段落したら、一度連れてくるといい。できるだけのもてなしをするよ」
「うん、今度絶対に一緒に来るから。ここからの眺めは最高やもん」
「楽しみにしていますよ。きっと約束ですよ、良平さん」
 叔母が小指を差し出した。良平は照れたが、素直に応じた。

 それからしばらくの間、良平は上着を脱ぎ、庭で農作業を手伝った。
 鍬を振り下ろし、夏の陽ざしで固くなった土を掘り起こした。三人でとりとめもない話をしながら、気持ちのいい汗を流した。
 良平が座敷の柱時計を見ると、午前九時二十分になろうとしていた。今から出れば、十分前にはトンネル工場に着くだろうと計算した。
「十時にトンネル工場だから、そろそろ行くね」
「じゃあ、私たちも終わりにするか。ミサに行ったあと、午後から出勤して造船所の避難計画を作成せんといかん」
 良平が手拭いで汗を拭き、縁側で身支度を整えていると、叔母が残っていた月餅を紙に包んでくれた。
「これ、持って行きなさい。彼女さんへのお土産よ」
 叔母がうれしそうに包みを良平の手に握らせた。良平は少しばつが悪そうにお礼を言うと、鞄の中に丁寧に仕舞った。
「兄さんの具合はどうだ?」
「それが、あんまり良くなかと。ミサにも、一人で行くのが難しくなってしまわして。今日は木場の伯父さんが諫早に来るそうだから、一緒に諫早教会に行くと言わした」
「そうか、なかなか親戚でも集まれなくなってしまったからな。戦局が落ち着いたら見舞いに行くからと、兄さんに伝えといてくれ」
「うん、わかった。じゃあ」
 良平は叔父たちの見送りを受けて、来た道を引き返した。
 眼下の街では相変わらず、巨大な煙突が黒煙を上げていた。
 見上げると、あんなに晴れていた空が半分以上は雲に覆われ、陽が陰ってきた。

 住吉トンネル工場は、三菱兵器大橋工場の北側の小高い丘をくり抜くように造られていた。途中で何回か歩哨に出くわしたが、無難に遣り過ごした。
 トンネル工場に着くと、入り口に衛兵が立って厳しく出入りを検問していた。良平が用件を伝えると、衛兵は電話で問い合わせ、トンネルの奥に行くように指示した。
 トンネル奥の事務所に行き、女学校の制服を着た受付の女性に敬礼をし、所属の工場名と名前を名乗り用件を伝えた。
 その女学生は、今最後の点検作業を行っているので少し待つようにとの指示があっていると、すまなそうに話した。
 良平は立ったまま、じりじりとした時間を過ごした。
 道ノ尾駅の次の上りの汽車の通過時刻は午前十時三十分だった。
 出来ればその汽車で大村に戻りたかったが、駅まで行く時間を考慮すれば、一時間後の汽車に変更せざるを得なくなった。

 しばらくして、眼鏡をかけ手甲をした三十後半に見える男が奥から出てきた。良平は姿勢を正し、最敬礼をして所属と氏名を名乗った。
「待たせて、すまなかった。今朝になって、不具合が見つかってね、急遽修正作業を急いだが、少し時間を要した。書類はこれだよ。しっかり頼むよ」
 佐田は疑り深そうな目を良平に向けた。
「大丈夫です、この鞄に入れていきますから」
 良平は油紙で厳重に梱包された書類を受け取り、肩から鞄を降ろした。
「ほう、珍しい鞄だ。洋物のようだね、頑丈そうだ」
 佐田から渡された書類は弁当箱ほどの厚みがあった。良平は鞄の中の本を一旦取り出し、月餅を包んだ紙を胸ポケットに移し、中を整理して収めた。「確かに預かりました。ではこれで失礼します」
「君、さっきの本は詩集じゃなかったかね?」
 佐田が射すような視線を鞄に向けていた。
「あっ、いえ、その、失礼しました」
 良平は咄嗟に腰を深く折って謝った。鉄拳が飛んでくるのを覚悟した。
「謝らなくてもいいよ、伊東静雄の『夏花』だろ。私も持っているよ」
 恐る恐る顔をあげると、佐田が笑みを浮かべていた。良平はほっと安堵した。
「せっかく諫早から来たんだ。お茶でも飲んで、少し休んでいったらどうだ?」
「でも、大村の方では待っとると思いますので」
「そんなに急いでも、次の汽車は十一時三十分だろ」
 確かに佐田が言う通り、今から駅に行っても時間を持て余すばかりだった。それに『夏花』を持っている佐田という男に、少なからず興味を覚えた。
「では、少し休ませてもらいます」
「そうしたまえ、君は諫早中学校の生徒だろう?」
「はい、三年生です」
「そうか、私らの頃はまだ諫早に中学校はなかったからな。私の実家は高来の小江というところだ。有明線が開通したおかげで、随分汽車の便が良くなった。疎開を兼ねて今は高来から通っているよ」
 佐田はお茶を入れながら、楽しそうに話を続けた。
「伊東静雄は大村中学校の先輩なんだ。話したことはなかったが、汽車で時々見かけたよ。まさか、こんなすごい人になるとは思わなかった」

 伊東静雄の詩の感想を、二人で熱心に話した。詩のことを誰かと話すのは、初めてだった。伊東静雄の知り合いで、しかも詩の話が出来る人が目の前に居ることが不思議だった。
 家を訊かれて諫早駅前の丘の上だと答えると、その北の目代に佐田の親戚があることがわかった。
 名前を聞いてびっくりした。「山野」は目代に一軒しかない。静子の家だった。
 良平は急に佐田に親しみを覚え、静子の家のことをあれこれと聞いた。
 静子とは幼馴染だと言うと、静子が赤ちゃんの時にはおしめを換えてやったこともあると、佐田は笑った。
「彼女にその話をすると、顔を真っ赤にして怒るがね」
佐田は静子のふた従兄だった。
 時計を見ると、もう十時四十分を過ぎていた。野口の顔が頭をよぎった。汽車に乗り遅れるわけにはいかない。
「すみません、話し込んでしまって。もうこんな時間です、これで失礼します」
「そうか、気を付けて帰り給え。そうだ、戻ったとき、遅いと言われたら困るだろうから、こちらの準備が出来ていなかったことを、工廠の方に連絡しておくよ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
 良平は姿勢を正して敬礼し、踵を返して歩き出した。

 静子は家に帰ってきていた。
 風通しのよい脇座敷の畳の上に横になって、良平が貸してくれた詩集を見ていた。
 お腹の痛みはだいぶ薄らいで、ふと良平の絵を描きたくなった。既に画用紙は手に入らなくなっていた。
 静子はノートを取り出し、鉛筆でデッサンを始めた。描き始めると夢中になった。良平の顔の輪郭が段々と姿を現してきた。
 顔に繊細な陰影を施し始めた頃、台所から呼ぶ母の声がした。
 まだ顔の半分しか出来上がっていなかった。そのまま描き続けていたが、母から厳しく叱られ、完成していないことに後ろ髪を引かれる思いがしたが、それ以上はあきらめた。静子は心の中で良平に謝った。 
 母はお盆を迎える準備に余念がなかった。母の手伝いで、外に干してある笊を取りに出たときだった。
 二機のB29爆撃機が銀色の機体をキラキラ光らせながら、東の有明海の方から長崎の方へ向かって、遠く爆音を響かせて飛んで行くのが見えた。
〈警報はなぜ鳴らないのかしら……〉
 静子は訝しく思った。


 良平は住吉トンネル工場を出ると、道ノ尾駅を目指して足早に歩いた。
 外は雲が多く日差しを遮っていたが、汗が滲んできた。住吉の電車通りに出たとき、胸の十字架が無くなっていることに気づいた。母の形見だった。
 汽車の時刻が気になったが、走りさえすればまだ余裕があった。
 来た道を戻りながら探したがなかなか見つからず、トンネル工場の入口が見えて、諦めざるを得なかった。
 もしかしたら、叔父宅の庭で鍬を振ったときに落としたのかも知れない、そう思い直した。
 踵を返し走り出そうとしたとき、遠く爆音が響いてきた。
 警報が鳴らなかったから味方の飛行機かと思ったが、それにしてはいやに大きな爆音だった。
 良平が立ち止まり空を見上げたそのとき、雲間にB29爆撃機らしき機影が見えた。
 良平は咄嗟に身構えたが、たった二機であることにほっとした。

 機影を眼で追っていると、黄色い芥子粒ほどの塊がスローモーションのように爆撃機から落とされ、直後に落下傘が花開いた。途端に爆撃機は大きく旋回して飛び去っていった。
 その落下物は、高度を下げるに従い段々と膨らんで大きく見えるようになり、爆弾の形をしていることがわかったが、これまで見た爆弾とは随分と形も色も違っていた。
 ずんぐりと不格好に太った形をして、何より黄色く着色されていることが珍しかった。
 爆弾は良平のいる位置からは随分と距離があり、叔父の家の方角からも離れていたからほっとして、しばらくその物体を肩越しに眼で追った。
 落下傘のついた、しかも黄色く着色され、ずんぐりと不格好な、こんなへんてこな爆弾が、それもたった一個かと怪訝に思ったとき、不意に脳裏に叔父の言葉が蘇った。
〈たった一個の爆弾……?〉
 その瞬間、上空で太陽のごとき火の玉がさく裂し、原子の閃光が解き放たれた。

 

 静子は、B29爆撃機が西の空を覆っていた雲に隠れるまで目で追った。
 気を取り直し、笊を持ち上げたとき、突然西の空に稲光のような赤紫色の眩い閃光が一瞬走った。
 はっとして、長崎の方をそのまま目を凝らして見ていたが、特に異常はなさそうだった。
 家に戻りかけて、田んぼの稲に波紋を広げるように、遠くから突風らしきものが近づいて来るのが見えた。
 次の瞬間、重く地面を揺り動かす爆発音が轟いた。
 静子は恐怖に耳を塞いで座り込んだ。
 その瞬間、下腹部に激痛が走って呻いた。
 視線を上げると、南西の井樋ノ尾岳の右側の低い山並みの上空の雲を突き抜け、七色に照り輝く雲がもくもくと湧き上がり、巨大なキノコ雲となって立ち昇った。

 雲は薄いピンク色のようにも見え、今まで見たこともない異様で恐ろしい雲だった。
 静子は、呆然と長崎の方を見ていた。
「静子、何しているの、早く、防空壕に避難すっとよ」
 母に叱られ腕を持ち上げられて、静子はやっと我に返り、立ち上がった。
 母に腕を引かれて走りながら、これが良平の言っていた新型爆弾かも知れないと思った。
 それからしばらくして、諫早上空も黒い霧のような雲に覆われ、太陽が赤い月のように不気味な輪郭を雲の中に浮かび上がらせた。 
 静子たちは防空壕から様子を窺っていたが、中には「長崎がピカドンにやられた」と言う人がいた。静子も自然と頷いていた。
 長崎の造船所や兵器工場に通勤している家も少なくなかった。そんな家の人たちは防空壕の外の崖まで行ってはしきりと、長崎の方を見て気を揉んでいた。
 諫早中学校の生徒の大方は、大村海軍航空廠の関連工場と市内の事業所だった。
 良平も大村に居るはずだった。新型爆弾が大村でなくてよかったと、静子はほっと胸を撫で下ろした。

 喧騒が耳に戻った。
 気が付くと、良平はトンネル工場内に寝かされていた。次から次に大勢の負傷者が運び込まれていた。
 トンネル内は立錐の余地もなく込み合い、負傷者の苦しそうに呻く声がトンネルの中に満ちていた。
「やっと気が付いたかい?」
 佐田の暖かい声だった。
 良平は何か言おうとして、声が出ないことに愕然とした。
 眼は片方しか開かず、それも僅かな視界だった。
 胸の奥が鈍く痛んだ。爆風で吹き飛ばされとき、胸を強く打ったようだ。
「御厨君、長崎はもう駄目だ。新型爆弾にやられて、壊滅したよ。幸町工場も大橋工場も、跡形もなく吹っ飛んだ。外は地獄のような光景だよ。浦上の駅の方が特に酷いらしい」
 佐田はそういうと、良平の肩辺りを優しく摩ってくれた。
「君の火傷も酷い状態だ。顔は何とか包帯で手当てしたが、身体までは足らなかった。すまない」
 良平は佐田がそばに居てくれるだけで嬉しかった。
 良平は、叔父たちは大丈夫だろうかと思った。
 明らかに爆弾からの距離はここより近かった。何とか無事でいてくれと、祈らずにはいられなかった。

 ふと鞄を思い出し、腰のあたりを探ってみた。しかし、鞄らしきものは見当たらなかった。
「鞄かい?」
 佐田の問い掛けに、良平は僅かに頷いた。
「鞄はボロボロだった。中の書類も詩集も駄目だったよ」
 良平の落胆は大きかった。あの鞄は兄の輝夫が出征する日に、無事に帰ってくるまでと言って良平に託したものだった。
 伊東の詩集を失ったことも悲しかったが、静子に託した処女詩集の『わがひとに与ふる哀歌』だけでも助かったと思うと、ほっとした。それとともに、詩集を大切そうに抱えて微笑んでいた静子の顔が思い出された。
 静子に無性に逢いたかった。

 猛烈に喉が乾いていた。
 良平は声が出なかったが、「水」と口を動かした。
 佐田がすぐ気づいてくれたが、すまなさそうに顔をしかめた。
「水を飲みたいだろうが我慢してくれ。あげたいのは山々だが、禁止されている。今水を飲むと、喉に水ぶくれができて呼吸ができなくなる恐れがあるそうだ。すまんな」
 火傷のせいかどうかは分からなかったが、つばさえ出ない状況だった。喉の奥がただれているようで、呼吸するのも痛い。
 そう言えば、広島の新型爆弾で負傷した人たちが、水を求めて川岸に重なり合うように死んでいたと、あの男の人が言っていた。
 同じだと思った。水を求める気持ちが痛いほどよくわかった。
 あの男の人は、幸町工場に顔を出してから家に帰ると言っていた。
 折角、広島で九死に一生を得て、やっと家に辿り着こうとしていたのに、二度までも新型爆弾に遭遇するような偶然があっていいものか。
 女の児と母親はどうなっただろうか。浦上駅の方がひどいと佐田は話した。どうか無事でいてくれと祈らずにはいられなかった。
 梨を女の児に分けてやった、あの優しいご婦人は助かっただろうか。
 なぜ自分たちだけが、こんな目にあわなければならないのだろうか。
 運命は決して平等ではない、良平はそう思わずにはいられなかった。

 どれ程の時間が経過したのだろうか、朦朧とする意識の中で遠くに汽車の汽笛を聞いたような気がした。しかし、廃墟と化した街に汽車が来るはずもなかった。
「おい、今、汽車の汽笛が鳴らなかったか。ちょっと見て来る!」
 佐田が忙しく立ち上がって、確認に行ったのが気配で分かった。帰れるものなら、諫早まで帰りたいと思った。
 真っ暗な視界の中に、朝見た本明川の静かな流れが浮かんだ。そして、微かに有明海の潟の匂いを嗅いだような気がした。

 しばらくして、救援列車が浦上駅を目指して進んでいると、佐田が知らせに戻ってくれた。
「私が必ず君を諫早に帰らせてやる。私が負ぶっていくから、救援列車まで行こう。長崎は医科大病院もやられてしまった。諫早に帰れば海軍病院がある。きっと治してくれるよ」
 佐田の手助けを受け、良平はどうにか半身を起こした。
 僅かな視界の中、佐田の背に負ぶさりながら見た沿道の光景は、地獄絵さながらだった。
 道脇の黒い燃え滓と思ったところが急に動き出して半身を起こし、佐田の足にすがりついた。
 助けを求められた佐田も、どうすることもできなかった。
 黒く焦げた人や馬の死体が道に連なっていた。
 虚ろな目でよろけながら、無言のまま足を引きずるように歩いて行く人たち。
 腹這いになりながら、死体を乗り越え進む負傷者の群れ。
 救援列車に向かう夥しい数の黒い人影が道と線路を埋め尽くしていた。
 あの男の人が言っていたとおりだ、まさに生き地獄だと思った。
 そしてまぎれもなく、そのおぞましい地獄の住人の一人が自分だった。

 良平は佐田に心底感謝した。他の負傷者に比べれば自分はまだましな方だった。
 しばらく行くと、汽車の汽笛が一段と大きく聞こえてきた。
 汽車は負傷者を励ますように、何回も何回も苦しそうな汽笛を響かせながら進んできた。
 汽車は車輪を軋ませ、重く蒸気を吐き出しながら、ゆっくり停車した。
 辺りは苦痛にうめく声に包まれ、負傷者たちが次々に貨車に収容されていく。
 佐田に助けられながら、良平もなんとか乗ることができた。
 別れ際、佐田が何か言ったがよく聞き取れなかった。
 ただ「静子…」と言う言葉だけが耳に残った。
 その直後、良平は窓から線路に大量の血を吐いた。
 この男はもう駄目だろうから降ろそうかと、乗務員が話している声が聞こえた。
 朦朧とした意識の中で、静子に逢うまでは死ねないと思った。良平は必死になって椅子にしがみ付いた。
 直後に汽車は鈍い音を発し、動き出した。乗務員が立ち去ったのが気配でわかった。
 諫早に帰れると思うと急に身体から力が抜け、意識が次第に遠のいていった。

 得体のしれない暗闇の中を、一人よろめきながらさまよい歩いていた。
 不意にむせ返る煙に意識が戻った。咽んで、胸が苦しい。
 熱風を飲み込んだようにただれた喉に、石炭の燃え滓の微粒子がまとわりつく。
 身体を起こす力さえ無くなったと思っていたが、咽ると身体が反射的に動いた。
 眼を開けなくてもトンネルに入ったのがわかる。多分、長与と伊木力を分かつ松ノ頭峠に差し掛かったのだろう。
 トンネルを抜けた途端に、伊木力のみかんの葉を潜り抜けてきた清々しい空気に変わった。
 列車は推力を取り戻し、嘶きにも似た甲高い汽笛を一つ鳴らすと、下り坂を一目散に駆け下った。
 女の児が嬉しそうに母親と梨を食べていた姿が思い出された。

 坂を下り終えると今度は、貨車の中にべっとり潮を含んだ海風が充ちてきたのがわかった。大村湾だった。
 良平は包帯で巻かれた顔を指で触ってみた。
 鼻の骨だけが場所を指定していた。皮膚の感覚はすでに失われ、眼は塞がって全く見えない。
 右目は潰れてしまったようだ。左の瞼を指で押し開いてみた。にじみ出た体液が瞼を固め、なかなか開かなかったがようやく離れた。
 わずかに明かりが戻った。板のように薄い視野の先に、群青の大村湾があった。時折、波間に小さな波が照り煌めいていた。
 救援列車は大村湾の海岸線を縫うように疾走し、頻りに鳴り響く汽笛が非常事態を沿線の村々に知らせていた。
 もう諫早までは、そう遠くないはずだった。 
 皮膚が剥がれ、剥き出しになった爛れた肉の塊に、差し込んできた夏の太陽が容赦なく照り付ける。焼かれ疼く肉体をくねらせ転げ廻りたいが、それすら叶わない。
 陽の光に焼かれる感覚だけが脳に蓄積し、意識は再び遠のいていった。


〈りょうへい…良…平…〉
 壊れた蓄音機のような間延びした兄の声が、真っ暗な視界の奥から聴こえてきた。
〈兄さん、どこ、どこにおると?〉
〈良平、どこか…返事をせんか〉
〈ここだよ、ここにおるよ。早よう、早よう助けに来て!〉
〈良平、待っとれ。今助けに行くから…良平…どこだ、返事をしろ〉
 特攻服に身を包んだ兄の姿が、暗闇の先に仄かに浮かんできた。
 まるで舞台でスポットライトを浴びている俳優のようだ。
 良平には見えるのに、兄にはこちらが見えないらしい。兄が良平を必死で探し回っている。

 そこに突然、黒い自動車が現れた。
 自動車は兄の傍に停車すると、けたたましい笛の音とともに中から憲兵が現れ、兄を連れ去ろうとした。
〈貴様、特攻隊員のくせに怖気付いたか〉
〈自分は弟を助けに行かんばならんとです〉
 両方から腕を掴まれ、身動きできない兄を憲兵は容赦なく殴りつける。
〈貴様、恥を知れ、おめおめと生きて帰った上に、今度は脱走か!〉
〈違うのであります。弟が助けを呼ぶのであります。弟を助けにいかんと〉
〈弟?弟がどこにいる?〉
〈確かにこの近くから聞こえたとです、弟の声が〉
〈貴様、気でも触れたか。ここは鹿屋だ、貴様の弟がいるはずがない〉
〈いえ、確かに声が聞こえたとです〉
 良平はまた兄の名前を呼んだ。
〈輝夫兄さん!〉
〈ほら、聴こえるであります。弟が私を呼びよっとです。早く助けに行ってやらんと〉
 兄は憲兵の腕を振り解き、こちらに向かって駆け出した。
 しかし、後ろから追いついた憲兵に組み伏せられ、殴られ、後ろ手に締め上げられてしまった。
〈兄さん、もういいから。新型爆弾に焼かれたけど、諫早にもうすぐ帰り着くよ。ぼくは一人で大丈夫だ。でも、ごめんよ。兄さんから預かった鞄が、ボロボロになってしもうた〉

 兄にひと目逢いたかった。
 良平の言葉は嗚咽と涙に変わり、言葉は闇に吸い込まれていった。
〈脱走兵がどんな処分を受けるか、貴様、分っているのか〉
〈後生であります。弟を、良平を助けてやってください。新型爆弾に焼かれ、瀕死の重傷を負っております。ほら、良平が泣いとります。良平、今助けに行くぞ〉
〈こいつ、気が触れたとしか思えん。今日の出撃はとても無理だ。他の者たちに影響する。独房に入れておけ〉
 車の後部座席に押し込めようとする憲兵になおも兄は抵抗し、逃げようとした。
 するとまた、あのけたたましい笛が吹かれた。
 闇に反響する笛の音とともに、兄の姿は闇の彼方に消え去った。


 

(六) 諫 早 の 空


 遠ざかる笛の音が汽車の汽笛に変わって、意識が少しずつ戻ってきた。
 汽車は再びトンネルに入り、渦巻く蒸気が身体に沁み込んで来た。意識がはっきり覚醒した。もうすぐ諫早駅だった。
 トンネルを抜けると、機関車は一息つくように地の底に大量の蒸気を吐き出した。
 汽車はゆっくり大きく揺れを繰り返しながら、諫早駅に滑り込んだ。

  駆け寄る人たちが必死で何かを叫んでいる。
 諫早の匂いがした。水の匂いだった。
 嬉しかった。やっと帰って来たと思った。
「水を、水を……」
 しかし、ただれカラカラに渇いた喉と口からわずかに発した良平の言葉は、雑踏にかき消されてしまった。
 号令の笛とともに、慌ただしく無数の靴音が近づき、次々と負傷者を汽車から運び出していく。
 幾人かの後、良平も戸板に乗せられ、駅前広場まで運び出された。目を開けようとしてが、開かなかった。
 かろうじて動く左手で瞼を押し開いた。諫早の青い空があった。
 視線を横にずらすと、本明川沿いの裏山の青々とした緑豊かな森が川風に揺れていた。
 本明川の清冽な水の流れと、清楚とした野朝顔の花が思われた。
〈水を、水が飲みたい……本明川の水を〉
 良平の意識は遠ざかり、また蘇り、朦朧として混沌とした。
 陽はようやく陰りはじめていたが、肉体に降り注ぐ夏の日差しの痛さだけは感じることができた。


 黒いキノコ雲は、偏西風に流され諫早の上空を覆いつくし、焼き焦げた紙片などともにどす黒い黒い雨を降らせたが、午後三時前には元の夏の陽ざしを取り戻し、防空壕に避難していた静子たちもめいめいに家に戻っていた。
 長崎から救援列車が諫早駅に到着するとの話が伝わってきた。近隣の町内会に炊出しと救護の要請があった。
 母は炊出しを手伝いに行き、静子は諫早駅に救護に行くことになった。
 非常時だった。下腹部に鈍い痛みを抱えながらも、静子は諫早駅に急いだ。
 駅前の広場は、救援列車で運ばれてきた負傷者であふれ返っていた。
 重傷者はすでに駅北の海軍病院諫早分院に大方は運ばれた後で、歩ける者や比較的軽症と判断された者が近くの教員養成所や諫早中学校などに運ばれていた。
 駅前にはすでに、諫早高女からも大勢の生徒たちが駆けつけていた。
 静子もすぐに救護隊に合流したが、なにをどうしたらいいのか皆目見当がつかなかった。 
 周りを見渡すと、負傷者を運んでいる者のほとんどが年寄りか学生、女たちだった。

「静ちゃん」
 肩を叩かれ振り向くと、多恵子が立っていた。
「どお、痛みは、少しは治まった?」
 多恵子が心配そうに尋ねた。
「まだ。でも非常時だから、私だけ休んでいられないもの」
「この怪我の人たちを見たらしょうがなかよね。みんなひどい火傷の人ばっかり。ちょっといい?」
 多恵子は静子の手を取って、広場の人気のないところに引っ張って行った。
「静ちゃん、長崎に新型爆弾が落とされたと、兵隊さんたちが話しているのを聞いたよ」
「私もそうだと思った。あのキノコ雲を見た?もう恐ろしくて」
「見たよ、ものすごかったものね。この世の物とは思えんやった。あれは、間違いなく新型爆弾だよ。諫早まで爆発の塵みたいな物が降ってくるようじゃ、長崎は壊滅したかも知れんね」
「長崎の三菱の工場にも、諫早から通っている人が多かけん、心配かね」
「良平さんたち諫早中学の生徒は、大村航空廠の方だから大丈夫だと思うけど」
「うん、今朝、大村の工場に行くと言うとらした」
「それなら大丈夫やね」
「山野さん、石井さん、救護隊は海軍病院に行きますよ。早く来なさい」
 振り向くと、徳田郁子先生が腰に手を当てて二人を睨んでいた。
 二人は慌てて女生徒の隊列に戻り、多恵子が列の一番先頭で号令をかけ、静子は最後尾に加わった。

 駅前の道を線路に沿って北に進み、突き当りを右に折れると海軍病院の門が見えた。
 病院の敷地に入ると、建物内に収容しきれないおびただしい数の負傷者が庭に広げられた茣蓙に寝かされていた。
 静子は目を覆った。まさに、地獄の光景だった。
 苦痛に呻く声が地振動のように溢れ、すすり泣く声や水を求める断末魔の声が至る所から湧き上がっていた。
 全身がただれ焼け残った肌着が皮膚と一体化している人。
 その隣の幼児はやけどで目が潰れ手足をばたつかせているが、声さえでない状態だった。
「お母さん、お母さん」と背中にやけどを負った小さな女の子が母親にすがり付いたが、髪が焼けこげ体に無数のガラス破片を浴びた母親は、無表情に子供を払いのけた。
 腹から腸の一部が出たまま寝かされている人もいた。
 若い女性と思われる人は頭が焼けこげ、右腕がなかった。
 静子は軽いめまいを感じ、その場にしゃがみ込んだ。
「静ちゃん、大丈夫?」
 多恵子が駆け寄って、背中を摩ってくれた。
「静ちゃん、やっぱり今日は帰った方がよかよ」
「少しめまいがしただけ、大丈夫よ。こんなときに働かんと、負傷者の人たちに申し訳なかもん」
「どうしたのですか?」
 徳田が歩み寄ってきた。
「先生、山野さんは、今日は具合が悪くて早退していたんです」
 静子の代わりに多恵子が弁明してくれた。
「じゃあ、しばらく端の方で休んでいなさい」
 静子はゆっくり立ち上がった。
「いえ、先生、もう大丈夫です。手伝わせてください」
 静子の申し出に徳田は満足そうな笑みを浮かべた。
 静子をどうしても駆り立てるものがあった。
 黙って座っていると、重い胸騒ぎが胸から喉元を締め付けた。
 こんなことは初めてだった。なぜなのかは、静子にもわからなかった。

 静子たちは看護婦から黒い液体の薬剤と筆を渡され、それを負傷者のやけどの痕に塗るように指示を受けた。水を飲ませては絶対いけないと厳重な注意があった。
 それぞれ別れて治療に当たった。静子が薬剤を負傷者のやけどの痕に塗ると、途端に呻き出し、場合によっては身体をそり撥ねる人もいた。
 水をくれとせがまれ、服を握って離さない人の指を謝りながら一本一本解いた。静子は黒い液を塗るたびに謝った。
 これほどの苦しみを与えてもなお、この治療を続けなければならないのかと思わずにはいられなかった。
「山野さん、こっちの患者さんを向こうに移しますから手伝ってください」
 静子は呼ばれ、ほっとして徳田のもとに駆けて行った。
 病舎の間の庭に、学生らしい負傷者が寝かされていた。
 背中から腰にかけて酷いやけどを負い、髪は焦げて顔は包帯を巻かれた瀕死の重傷者だった。
 静子は誰かに似ていると直感したが、長崎に思い当たる人はいなかった。
 その負傷者を抱えようとしゃがみ立ち上がろうとしたとき、静子は激しい腹痛に襲われた。
 刺すような激痛に、そのまま座り込んでしまった。

 良平の意識は混濁して暗闇の中を当てどなくさまよっていたが、人の気配を感じ覚睡した。
 数人が分かれて体を持ち上げようとしているのが分かったが、頭の方が持ち上がらなかった。
「何をしているのです!」
 苛立った女性の言葉にやけどの傷口が疼いた。
「はっ、はい」
 女生徒の緊張した返事とともに、その手はただれた肩肉に食い込む。
 身体が浮いたかと思ったが、握られた皮膚がペロリと剥げて、左肩が地面に落下した。
 激痛に、思わず呻いた。

「あっ」思いのほかの出来事だったのか、女学生はちぎれた皮膚を見つめたまま、呆然と立ち尽くしているのが微かに見えた。
 おさげ髪の少女のようだった。諫早高女の制服とわかった。
「山野さん、しっかりなさい」
 先生の叱責に、少女はやっと気を取り戻した。
 少女は左手にこびり付いた皮膚を狂ったように振り落とし、すぐにその手を大きく背中あたりまで差し入れた。
「山野……?」
 良平は苦痛に閉じた眼を無理に見開いた。
〈静さんではないか。確かに静さんだ〉
「静さん……ぼくだ」
 喉が僅かに動いたが、声にはならなかった。
 静子は良平とは全く気づいていない。
 無理もないと思った。閃光に焼かれた身体は皮膚がただれ、欠落し、片目が潰れ、腫れ上がった顔は包帯で巻かれて判別しようもない。

「この学生さん、静ちゃんに何か言おうとさしたみたいやけど」
 側の女学生が静子に言った。
「ごめんなさい!」
 静子は顔を背け、嗚咽を漏らした。
 今日の朝、駅の向こう側、本明川の川岸で別れた。
 静子が川沿いに下り、諫早神社の袂の四面橋を渡ったところで振り向いて手を振った。
 良平はそれを確認してから、本明川の飛び石を渡って諫早駅に向かったのだった。
〈静さん、ぼくだ。なぜ泣くのか。業火に焼かれ、異臭を放ち、ただれた肉の塊と化した人間のおぞましい末路を憐れんでくれるのか〉
 良平は胸ポケットから崩れた月餅を取り出し静子に渡そうとしたが、指の間からぽろぽろと零れ落ちた。
 良平の唇辺りに静子の涙が滴り落ちた。
 良平はその何滴かを嘗めようとした。
 涙はひび割れた唇と乾ききった舌に吸収され、瞬く間に消えた。
 しかし、静子の体液は身体の隅々まで浸透し、良平を癒してくれた。
 良平はそのまま意識を失った。


 諫早高女の生徒は、午後七時をもって解散となった。
 静子はそのまま家に帰りたくなかった。どうしても良平に逢いたいと思った。
 諫早駅には、大村から帰ってきた諫早中学校の生徒が次々と降り立っていた。
 静子は建物の陰に隠れて、駅から出て来る生徒たちの中に良平を探した。
 しかし、良平を見つけることはできなかった。

 静子は駅からの帰り道、少し遠回りだったが良平の家の前を通ってみた。
 期待に反して良平の家に灯は燈っていなかった。圧し掛かってくる不安に、居た堪れない気持ちを抑えることができなかった。
 裏山の観音様のところまで行ってみようと思った。
一番上の弘法様の岩棚まで上がってみたが、良平が居るはずもなかった。
今朝、良平と話したのがもう何年も前のような、そんな気がして胸騒ぎは募るばかりだった。
 静子は弘法様に良平の無事を一心に祈った。 

 

(七) 水 の 匂 い


 水の匂いを感じて、意識が蘇った。
 看護婦がほんの僅かだが、唇を濡らしてくれたらしい。
 堪え難い火傷痕と胸の痛みに苦しみながら、良平はなんという皮肉だろうかと思った。
 静子に新型爆弾が広島を壊滅させたと話したが、まさかその新型爆弾に自分が焼かれるとは微塵も思わなかった。
〈ぼくは心のどこかで、戦争を他人事のように思ってはいなかったか〉
 今から考えると、こうなる運命だったのではないかとさえ思えてきた。
 今日初めてあの鞄を身に着けた。
 静子と会う約束がなかったら、革の鞄をしては行かなかったし、詩集を持っていくこともなかった。
 整列のとき野口教官が鞄に気づかなかったら、長崎に行くことはなかったに違いない。
 トンネル工場で待たされなかったら、既に長崎を離れていた。
 佐田と遇わなければ、詩集を見られなければ、そして、十字架さえ失くさなければ、もう少し新型爆弾から離れて、これほど酷く身体を焼かれることもなかったろうに。
 新型爆弾の投下時刻に向かって、運命の針は確実に刻み続けていたのに、全く気づかなかった。
 死に向かって、抗い難い大きな力が働いていた。
 死は生の対極にあるのではない。死は生の中にそっと忍び込み、生の一部となって密かに死の淵に導いていた。
 意識がまた遠のこうとしたが、胸の苦しさに咽て血を吐いた。

 自分はもはや助からないだろうと覚悟した。
 新型爆弾の投下を命令した者も、実際に爆弾を落としたアメリカ兵も、一瞬で何万人もの人間を殺したという意識はあるのだろうか。
 人を殺したと思うどころか、罪の意識さえ微塵もなく、却って人の殺戮を戦功として誇っているに違いない。
 これでは屠殺される家畜と同じではないか。
 せめて自らの死が殺そうとした相手に、少しでも罪を意識させるものであって欲しかった。
 殺戮の武器や方法は違っても、日本兵も同じことをやっているに違いなかった。

 海軍病院に、夕闇が訪れようとしていた。
 辺りは、喧しいほどの蛙の鳴き声が満ちていた。地の底から湧き上がるような生命の叫び声だった。
 その鳴き声に水の感覚が不意に蘇り、良平の脳裏に清冽な本明川の流れを思い出させた。
 あれは幾つの頃だったか。本明川の淵に遊んでいたときだった。足を滑らせて、深みに落ちた。
 必死に浮かび上がろうともがきながら、水面越しに揺れる青空が見えた。輝夫兄さんが助けてくれた。
 水をずいぶん飲んだが、恐怖感は不思議となかった。それより川の水は甘いのだと知った。あのとき飲んだ水の味は忘れない。
 本明川に行けば水が飲める。病院から川は近い。
 口の奥底、へばり付いた喉と食道を湿らせてやりたいと思った。
 良平は渾身の力で身体を起こし、這いずりながら少しずつ川に近づいて行った。

 夕日の残り火が本明川の向う側、東の丘の上の家並みを仄かに映し出していた。
 良平の家らしき建物もその中に見えた。あの家に帰りたいと思ったが、もはや叶わないことはわかっていた。
 今朝見た父の寂しそうな横顔を思い出した。
 父の問い掛けに、どうして兄は大丈夫だと言ってやらなかったのかと悔やんだ。
 ウメの笑っている顔が浮かんだ。
「良平坊ちゃんにお児が出来たら、このウメがお世話をして差し上げますからね」と、そう言うのが最近の口癖になっていた。
 ウメは静子とのことを知っているのかもしれない。

 大量の血を、また吐いた。
 意識は一定の間隔で遠のき、また戻った。
 良平は這いずり、なおも川に向かった。
 すぐそこに、本明川の土手道がかすんで見えた。
 堤防までやっと辿り着いた。地面は小さな名も知らない野花で埋め尽くされていた。
 ひんやりと柔らかな草花に触れて、傷口が癒されていくようだった。
 ぼやけた視界の先に、一輪の野朝顔をみつけた。

 良平は静子を思った。
 やっとのことで野朝顔を手に取ると、静子の名を呼んだ。
 しかし声はかすれ、咆哮のような音が漏れただけで、激しく咽んで血をまた吐いた。
 鮮紅色の血が辺りの草花を汚した。
 良平は手に触れた野花をむしり取ると、血で汚れた口に含んだ。
 何回か噛むうちに身体の穢れが薄まって行くような気がして、気持ちは不思議と鎮まった。


 静子は本明川沿いの道を、とぼとぼと家路についた。
 川向うの海軍病院越しの西の空は、犠牲者の血で染めたように真っ赤な夕焼けだった。
 海軍病院の方からは、蛙の鳴き声に混じって、負傷者の呻く声が風に乗って切れ切れに聞こえてきた。
 静子は耳を塞いで、しばらく立ち尽くした。
 しかし、はっとして顔を上げ、病院の方を見た。
 名前を呼ばれたような気がした。
 なぜか包帯で顔を巻かれた、あの青年の姿が頭をよぎった。
 静子は皮膚がこびり付いた掌をじっと見つめた。
 あの青年の姿に良平の姿を重ねようとしている自分に気づくと、静子は激しく頭を振った。
 夏の暑い一日が終わろうとしていた。
 足元にも少しずつ暗闇が忍び寄っていた。
 ふと気づくと、道端に野朝顔が咲いていた。
 静子は良平から教えてもらった詩の一篇を思い出した。

「鳥の飛翔の跡を天空にさがすな。夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな。手にふるる野花はそれを摘み、花とみずからを支えつつ歩みを運べ……」
 静子は独り言をつぶやいた。
 何か言わなければ胸が張り裂けそうだった。

 静子は野朝顔の花を幾つか摘むと、それを挟もうと手提げからノートを取り出した。
 頁を捲ると、描きかけの良平のデッサン画が目に留まった。
 良平の悲しそうな眼差しが静子を凝視していた。
 明日は救護隊に選抜されて、長崎に行かなければならなくなった。
 静子は明日の朝早く、良平の家を訪ねてみようと決心した。
 近所の人に見咎がめられるかも知れないが、それでも構わないと思った。
 不安は大きくなるばかりだった。
 どうしても良平の無事を確かめたかった。
 明日の朝、良平に逢ってこの花を見せるのだと思うと、静子の気持ちは少し落ち着いた。


 川原に繁茂した夏草の切れ切れに、一筋の本流が見えた。
 左手上流には大きな水車が軋み、悲鳴ともつかぬ唸り声を上げていた。
 水車を廻した水路の水は良平の眼の前で川原に落ち込み、深みを作り再び本流へと戻っていく。
 堤防の石垣の高さに、良平が一瞬ためらったとき、〈さあ、行こう〉と誰かに呼びかけられた気がした。
 さっきからずっと、誰かがそばにいる気配を感じていた。
 良平は思い切って身体を深みに落とした。
 途端に全身に激痛が走ったが、その痛みもすぐに麻痺し、水はほてった身体をやさしく冷やしてくれた。

 深みの中で一瞬、助けにくる輝夫兄さんの姿を見たような気がしたが、ただれ、ぶよぶよに膨れた身体は、自然に水面に浮き上がった。
〈兄さん、ぼくは大丈夫だ。ただ水が飲みたかっただけ〉
 水路の落ち水が顔の上ではじけた。
 一口飲み込んだ。喉に刺すように痛い。
 水の塊が食道を貫流し、胃に溜まるのがわかった。
 また一口飲み込む。芳しい水苔の匂い。
 微かに甘い味が口に広がった。
 幼いときに飲んだ、本明川の水の味だった。

 水面に漂う身体は本流に辿り着き、ゆっくりと流されていく。
 身体がむせんで、飲んだ水を吐き出してしまった。
 血が混ざった薄い朱色の帯が、川の水に溶け込み、やがて一つの流れに誘われていく。
 次第に、川底に身体が少しずつ沈んでいくのがわかった。

 静子の掌に付けてしまった自分の異臭は、果たして取れるだろうか。
 母のお墓の花は、枯れていないだろうか。
 リウマチの父の身体を、誰が揉むのだろうか。
 兄は…兄は生きて、諫早に戻れるだろうか。
 叔父や叔母は、無事でいてくれるだろうか。

 鮠が良平の周りに群れ集まり、剥き出しの肉片を啄み出した。
〈そうか、旨いか……〉
 良平は幼い日に静子と遊んだ川遊びを思い出した。
 ビン浸けで魚獲りをよくやった。
 透明な瓶の内側に味噌を塗り付け、川に浸けておくと鮠が大量に獲れた。
 魚のいる瓶の中に、味噌を付けた指を入れたことがあった。
 鮠が群がり、良平の指を食べた。あの不思議な感覚が蘇った。
 あの日、獲った鮠を逃がしてくれるよう静子に懇願され、良平は仕方なく逃がしてやった。
 あのとき逃がした魚の幾匹かは、この中にいるだろうか。
 この身体が鮠のえさになるのであれば食べればいい。
 この身体は腐敗し、鮠に食べられながら、いつか有明の海まで辿り着くだろう。

〈やがて海に辿り着いたこの身体は、満ちては引く潟海の水底に静かに沈み、そうして、哀歌に詠われたあの少年たちのように、ぼくもシャッパに化身することができるだろうか……。〉

 良平は握りしめていた掌を解き、野朝顔を放してやった。 
 良平は、静子に別れを告げた。

 (了)


伊 東 静 雄 詩 集 よ り


『 有 明 海 の 思 い 出 』

馬車は遠く光のなかを駆け去り
私はひとり岸辺に残る
既に海波は天の彼方に
最後の一滴までたぎり墜ち了り
沈黙な合唱をかしこにしてゐる
月光の窓の恋人
叢にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は
無限な泥海の輝き返るなかを
縫ひながら
私の岸に辿りつくよすがはない
それらの気配にならぬ歌の
うち顫ひちらちらとする
緑の島のあたりに
遥かにわたしは目を放つ
夢みつつ誘はれつつ
如何にしばしば少年等は
各自の小さい滑板にのり
彼の島を目指して滑り行つただらう
あゝ わが祖父の物語!
泥海ふかく溺れた児らは
透明に 透明に
無数なしやつぱに化身をしたと

註 有明海沿の少年らは、小さい板にのり、八月の限りない干潟を蹴つて遠く滑る。しやつぱは、泥海の底に孔をうがち棲む透明な一種の蝦。


『 そ ん な に 凝 視 め る な 』

そんなに凝視めるな わかい友
自然が与へる暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視めるふかい瞳にはついに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答へであり
堪へる痛みもすでにひとつの睡眠だ
風がつたへる白い稜石の反射を わかい友
そんなに永く凝視めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


『 曠 野 の 歌 』

わが死せむ美しい日のために
連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ 
非時の木の実熟るる 
隠れたる場所を過ぎ 
われの播種く花のしるし
近づく日われ屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ 
あゝかくてわが永久の帰郷を 
高貴なる汝が白き光見送り 
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に 
休らはむもの!


『 河 辺 の 歌 』

私は河辺に横たはる
(ふたたび私は帰つて来た)
曾ていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草よ
昔馴染の意味深長な
と嗤ふなら
多分お前はま違つてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び帰つて来た
ちよつとも傷つけられも
また豊富にもされないで

悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に残つた時間の本性!
孤独の正確さ
その精密な計算で
熾な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
野朝顔の一輪を
私はみつける

かうして此処にね転ぶと
雲の去来の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
山々の相も変らぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼を疾つくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ


※この物語は、『追憶の街』へと受け継がれています。
 是非、ご一読いただければと思います。


 

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