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続・羨ましい孤独死


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前回、「羨ましい孤独死」の条件として、


・「それまでの生活が孤独でないこと(きずな貯金)」

・「誰にも訪れる死への覚悟があること」


の2つを挙げた。

〈前回分はこちら〉


今回ご紹介するMさんは、まさにその2つを完璧に持たれておられた好例だ。しかも、2つ目の条件である「死への覚悟」がご本人だけでなく遠方のご家族にもあった点は特筆すべきだろう。だからこそ高齢独居で最後の瞬間も一人だったにも関わらず、周囲から「羨ましい」と言われたのである。


鹿児島県の山間部、段々畑が広がるのどかな坂道の途中にぽつんとある十数軒の集落。そのなかにMさんの自宅はあった。

Mさんは隣の集落の生まれ、嫁いで来るまでは看護助手をされていたそう。車の窓から外の風景を見ながら、『看護助手時代に医師と一緒に往診に出てはここでお茶を飲んだ』と、楽しかった若かりし頃の話をするのが常だった。


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鹿児島県の中山間地の集落



Mさんはこの集落で5人の子供を育て上げた。子育て、畑仕事、家のこと、集落のこと、何でもこなすMさんは集落の中でも信頼の篤い存在だった。

成長した子どもたちは全員集落を離れ、都会にでていった。高齢になりご主人も亡くなった。それでもMさんは決して集落を離れなかった。



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Mさんのご自宅と畑


気持ちは元気でも体は老いてゆく、心臓病に膝関節症。それでもいつも外に出て畑をしていていた。次第に物忘れも激しくなった。ついには重度の認知症となった。

山中にぽつんと存在する集落での認知症高齢者の独居。認知症が重度になった時点で、もう集落での独居生活は厳しい、と考えるのが普通だろう。

それでもMさんは集落を離れなかった。



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Mさん。ご自宅の前で。




「病院にも施設にも行かない。この集落から出ない。」


これがMさんの願いだった。


幸い、Mさんはその願いを心から支援してくれる介護施設に巡り会えた。その施設は自宅への訪問介護も施設への通い介護(デイサービス)も、緊急時などのお泊り介護も、全て提供してくれた。

重度の認知症とはいえ、何もかも出来なくなるわけではない。お米を炊くこと、畑仕事、布団の上げ下ろしなど、昔からやり慣れていることは大抵出来る。

介護スタッフは日々独居のMさんの自宅へ行き、食事や掃除など、ご本人が困難になりがちな部分だけをさり気なくサポートした。



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デイサービスに出かけるMさん。



Mさんは、集落の仲間の話をするのが好きだった。集落の仲間たちも、Mさん宅に電気がついているか?新聞は溜まってないか?常に気にしてくれていた。集落で会合があるときも、認知症があろうが、トイレがうまく行かなかろうが関係なく、Mさんを参加させてくれてた。Mさん宅は小さな坂道にあるためデイサービスの送迎車を玄関口までつけられない。少し離れたところで車を降りることになるのだが、そんなときはよく近所の方たちが「あとは私が家まで連れてくから大丈夫」と言っては、Mさんを自宅まで連れて行ってくれた。認知症とか独居とかそういうことに関係なく、Mさんは地域の仲間たちから敬われていた。

Mさんにはこの集落で生活をともにしてきた仲間がたくさんいたのだ。かつては集落のみんなでお金を出して山を整備したりしていたくらい、きずなの強い仲間たちだった。重度の認知症でもMさんが独居を継続できた要因の一つに、この山のような「きずな貯金」があったのはいうまでもないだろう。


集落に雪が積もったある寒い日、Mさんが突然居なくなった。

介護スタッフが訪問した時、自宅がもぬけの殻だったのだ。履物はすべてある。おそらく裸足ででていってしまったのだ。

介護スタッフは周囲を必死に探した。集落の人達もみな進んで探しに出てくれた。Mさんはお墓に居た。雪の積もる寒空のなか、すでに亡くなっているお父さんの姿を求めて外に探しに出たらしい。足元はやはり裸足だった。介護スタッフも近所の方々もホッとしたと同時に、今後の生活に一抹の不安を感じた。


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ある日ご主人(すでに亡くなられている)に残した置き手紙
「デイケアに行きました。後はたのみます。」




それでもMさんは自宅での生活を諦めなかった。介護側も、ご近所の方々もご家族もそれを支えた。周囲から見ればヒヤヒヤものの生活だったが、それがMさんの願いだった。


そんなMさんの生活が一変した。心臓病が悪化し、とうとう病院に入院となってしまったのだ。病院では、医師から『余命1週間あるかないか』と言われた。


病院に入院したMさんの生活は一変した。そして性格も一変した。点滴の管を抜く、ベッド柵も乗り越える、大声で喚く。Mさんは病院で大暴れする問題患者になってしまったのだ。

重度の認知症…それでもそれなりの生活が出来ていたのは、昔から変わらない木造平屋の自宅と近所の仲間に囲まれていたからだったのだろう。病院という医学的管理中心の生活に放り込まれたMさんは、その余命幾ばくもない体にムチを打って、医学的管理と言う拘束から必死に逃れようとした。

常識的な医学を当てはめようとすればするほどMさんは暴れる、病院側は困る。Mさんもそして病院側も、もがけばもがくほど深みにはまる泥沼にはまっていくようだった。

自戒を込めて言うが、そんな、管を抜く・暴れるなどの患者さんの対応に困った場合、また治療に支障が出るような場合、我々がまず考えるのは手足を縛ってベッド柵につないでしまういわゆる「身体拘束」、そして睡眠薬や鎮静剤などの薬剤によって落ち着いて(眠って)もらう「ドラッグロック」だ。Mさんもそのまま入院が長引けば、手足が縛られ、また睡眠薬や鎮静剤で表面的な落ち着きを得、そのまま病院で亡くなっていたことだろう。


しかし、事態は動いた。見るに見かねた介護施設は、ご本人・ご家族・そして病院に『自宅に帰る』ことを提案したのだ。もちろん、自宅でのお看取りまで対応を想定し訪問介護・デイサービスをフルで組み込むことは大前提。またご近所・ご家族の理解と協力も不可欠だった。幸い、遠方のお子さんたちも賛成してくれ、「最期まで本人の好きなように」と口を揃えて言ってくれた。大阪の息子さんは毎朝8時に電話で安否を確認してくれることとなった。もちろんご近所の方々は当然のように理解してくれ、協力も得られた。病院側は当初は消極的だったが、ご家族の同意も得られたことで退院に同意した。

退院してご自宅に戻ると、それまでの豹変ぶりが嘘だったかのように元の穏やかなMさんに戻った。病院での大騒ぎはなんだったのか?余命1週間の診断は何だったのか?もしかしたら夢だったのかも…と思ってしまうほど、以前と何も変わらないMさんだった。朝はデイサービスに行き、デイサービスではご飯を食べ、夕方は自宅に戻る。ご近所の方々も温かく見守ってくださる。足腰の衰えは多少あったものの、にこやかなMさんにはなんの代わりもなかった。


それでも人間は不老不死ではない。やはり最期の時は訪れた。


それは退院1週間後だった。その朝、Mさんはいつもと同じように大阪の息子さんと電話をした。その声の調子はいつもと変わらず、落ち着いた口調だったそうだ。その電話の1時間ほど後、デイサービスのお迎えに介護スタッフが伺った。Mさんは布団の中にいた。呼吸は止まっていた。それは優しい顔だった。


いつも「どこにも行きたくない、集落にいたい。施設も病院も入りたくない」と言っていた。集落であんなに敬われていたし、元気だった。そのMさんが希望通り、集落の中で、自宅で最期まで生活出来たのだ。ご家族も、ご近所さんたちも、介護スタッフも、皆がその最期を笑顔で見送った。


重度の認知症にも関わらず、高齢独居にも関わらず、最期まで自宅での生活を継続できたMさんの人生。最期が一人であったということに、どれほどの意味があるのだろう。僕は思う、もし世間がこれを「孤独死」というのなら、これこそがはまさに「羨ましい孤独死」ではないか、と。


冒頭にも書いたが、Mさんは、「羨ましい孤独死」の要件として僕が考える「それまでの生活が孤独でないこと(きずな貯金)」「誰にも訪れる死への覚悟があること」の両者を完璧に持たれていた。しかも2つ目の「死への覚悟」が本人だけでなく、ご家族にもあった。この、「ご家族の覚悟」は特に注目すべき点だろう。

前回ご紹介した例は逆に「天涯孤独」であったからこそ希望通りの人生を送ることが出来た方だった。高齢者の入院・施設入所という『傍から見た安全・安心の地』への誘いは、現在の日本全体を取り巻く大きな潮流となっている。最期まで自宅で、というご本人の希望にとって、医療従事者やご家族から見た安全・安心の思いはその阻害要因になるのだ。むしろ「天涯孤独」の方がご本人の人生の希望は叶えられるのかもしれない。

僕はいま、在宅医療や高齢者医療などの分野に携わっている。日々の診療の中では、それまで何不自由なく独居していた高齢者のところに突然ご家族が現れて、『心配だから施設に入所を決めました』と言われることがよくある。もちろんそこにはご本人の思いはほとんど斟酌されていない。それなのに、ご本人はそれを受け入れざるを得ない。なぜなら、その方針には1ミリの悪気はなく、その決定に至るまでのすべての過程が善意の塊なのだから。

『最期まで自分らしく、自分の好きなところで気ままに生活したい』という高齢者のささやかな思いは、ご家族や医療従事者など周囲の人たちの善意の計らいによって容易に病院や施設という西洋医学や近代介護的視点の『傍から見た安心・安全の地』へと収容されてしまうのだ。そう、地獄への道は善意で敷き詰められているのだ。


そんな全国的な潮流と今回のケースを比較してみると、『ご家族の理解と覚悟』が強烈に浮かび上がってくるのではないだろうか。中山間地の重度認知症の親、その親の独居、更に独居での看取りまで、ご家族はこれらをすべて許容されたのだ。

ご家族が下した、

「危険かもしれないけど、何かあるかもしれないけど、本人の望みなら独居でも孤独死でも受け入れる」


という覚悟と決断は賞賛に値するものだと僕は思う。

もしその覚悟と決断がなければ、おそらく「安全・安心」の場である高齢者施設や介護施設に入所となっていただろうし、その「安全・安心」の方針が変わらなければ、最終的には安全・安心の聖地=病院で手足を縛られ、強制的に眠らされたまま最期を迎えていた可能性が高いのだから。



(つづく)


(注:個人情報保護のため、患者さんの来歴・背景などは一部改変しています。)


※今回登場した介護施設は、鹿児島県内で複数の施設を展開されている「いろ葉」さんです。全国でも有数のとても素晴らしい介護をされています。




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ぼくの本

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財政破綻・病院閉鎖・高齢化率日本一...様々な苦難に遭遇した夕張市民の軌跡の物語、夕張市立診療所の院長時代のエピソード、様々な奇跡的データ、などを一冊の本にしております。
日本の明るい未来を考える上で多くの皆さんに知っておいてほしいことを凝縮しておりますので、是非お読みいただけますと幸いです。

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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)