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無意識を意識に上げる

先日、妻が企画した『子どもと過ごす宝物の時間』というワークショップが行われたので私も参加してきました。
私がその場に居合わせて感じた、多くの母親が抱えている問題が解決できたらいいなーと思ったので考察してみます。

子育てに限りませんが、人としてはとても重要なテーマ「人は何故怒ってしまうのか?」またその怒っている自分をどうやったら客観的に見ることができるのかについて考えてみます。

人は日々の暮らしのなかで起こる、さまざまな場面で、その状況にあった振る舞いを一つの人格だけではなく、いくつかの人格を無意識に選んで表出させて生きています。
その時々に現れる人格は、たとえば多重人格という言葉で表すなら、2つの人格が同時に現れることはありません。
怒っている自分と、笑っている自分の人格は同時に表出できませんし、心から笑いながら怒ることはできません。
これは脳の仕組みによるもので、その時に感じている臨場感の高い感情が無意識に選ばれて表出しているのですが、これを説明するためにゲシュタルト心理学にある「ルビンの壺」を用いて説明します。
以前にも書いたので内容が重複しますが、とても重要なテーマなので改めて説明したいと思います。




上図にある「ルビンの壺」は、壺の形と2つの顔が同じ図であらわされています。壺を認識すると顔は背景となり、顔を認識すると壺は背景になるように認識されます。
つまり両方の図を同時に脳は認識できないということがとても重要で、人の脳は一つのまとまりしか認識できません。
この図と背景の関係を感情に照らし合わせて考えてみます。

怒りに満ちている自分と何にもとらわれず冷静な自分。
ルビンの壺のように、同時に2つの図を認識できないのと同じように両方の感情も同居することができません。

人の性格は、笑っている時や泣いている時、普通の時など、同じ人間でも、その時の条件でさまざまな性格が現れます。怒っている自分に対して冷静なもう一人の自分が「そんなことで怒るなよ」と止めに入ることは難しく、気分が少し落ち着いてから平常心に変わるタイミングは何となくわかりますが基本的にはどちらかの性格しか表出しないのです。
現れる性格は、その時の臨場感の高い感情によって無意識に選ばれますが、ここで最も重要なことは自分で意識的に選ぶことができず、無意識に、自動的に選ばれているということです。
ですので、感情をコントロールするには客観的な視点を持って自分の行動を意識的に観察することが必要になります。


人は原始の時代では狩猟採取をしていました。
地図も無かった時代では、狩猟をするにせよ植物を採取するにせよ、行き慣れた場所を外れると、どんな危険が待ち受けているのかわかりません。
つまり毎日通い慣れた道から外れて少し冒険をすると、突然見たこともない猛獣に襲われたり、崖から滑り落ちたりする可能性があるので、今の生活が脅かされない限り、昨日までと変わらない生活をすることが自分という個体を存続させることにつながるので過去と同じ変わらない生活=安全といった、昨日と同じ生活をする事で人が安心する条件として認識されています。
この脳に刻まれた行動パターンは、原始の時代では有効でしたが、様々な事が複雑に絡み合った現代では、この原始 的な脳の仕組みが良くない作用をもたらす可能性もあります。

たとえば、子供がしたことに怒ってしまう性格を直したいと思っているとします。しかし、冷静な時はそう思っているのですが、感情的になるとその気持ちを忘れてしまい、なかなか改善する事ができません。
人の脳は、昨日まで生きてこれたので、起こった事に対して無意識に昨日までと同じ反応をしてしまいます。
嫌だと思っていても、自分の行動を変えることができません。しかし、人の脳の癖を知ることと、なりたい自分を明確にする事で、昨日までとは違う反応を意識的に行うことも可能になります。


人は一度見たものを次に見る時は、そのものを見ておらず、以前に見た時の記憶を合成して見ているように認識しています。
何故そのような認識方法をしているかというと、脳は初めて体験をする時には、慣れたことをしているときより多大なエネルギーを消耗します。
一度経験したことを毎回初めてのように全てを脳が認識していたら、ある試算によると、1日に変電所一機分の電気的エネルギーを消費すると考えられており、胃腸は動物と同じなので、エネルギーを使い果たして一瞬で餓死してしまうと考えられています。
そのために人は無意識を作り出し、慣れた動作は無意識にできるようにすることによって、エネルギー消費を抑えることに成功しました。
たとえば車を運転しようとするときに、右手でキーを回しエンジンをかけ、ブレーキを踏みサイドブレーキを外し...なんていちいち考えません。
普段車を運転している人なら、車を走らせようと決めたら、ほぼ自動的に体は動いているはずです。
運転に限らず、ご飯を箸で食べることも、人差し指と親指を開いて腕を少し持ち上げてなどと考えることは、大人は考えたりしません。
毎日行う大体のことは無意識に任せて行なっているのが人間です。
ですので、無意識に行なっていることを観察して、意識的に目的を少しずつ修正しなければ、目の前に起こった現象に対して昨日までと同じ反応を無意識に繰り返す人生を送ることになってしまいます。

普段、無意識に行なっていることを、自分はどんな信念によって毎日そうしているのか、一つ一つ意識に上げてみること、当たり前だと思っていることが、果たして本当にそうなのか?とたまに確認することは大切です。

辛い幼少期を送ってきた人が、自分の親が私に行ってきた嫌な振る舞いを、私も自分の子にしてしまうのではないかと、不安に感じる方もいます。
この事を考察するにあたって、先人が良い言葉を残しています。

「時間は過去から流れているのではなく、未来から流れている」

時間は過去から流れていると、多くの人は考えています。
人は産まれた場所を、物心がついた時に、あたりまえのように認識します。
動物が産まれた時に、最初に見たものを親だと認識するという話がありますが、それと同じように生まれ育った環境が全てだと子供は思っています。
親の言うことは絶対正しいと錯覚しますし、先生の言うことも正しいと認識するでしょう。
そうして気がついたら今の人生を生きていて、幼稚園ではこんな感じ、小学校ではこんな成績でした。
中学校ではこの成績でしたので、高校は、この偏差値の学校だったらなどと過去をベースとした将来を、よく知らない赤の他人が無責任に介入してきたりもします。
誰もが産まれた所を本質的には選べておらず、スタート地点は不平等です。
ただこの不平等をバネにして、考えようによっては飛躍できる可能性もあります。
未来は自分で決める!ことが大事です。幸せな自分を想像する能力が人には備わっています。
想像に難しいと思うのであれば、それはおそらく、何処かで見たネガティブな映像などに不幸の概念を必要以上に刷り込まれている可能性があります。
人は幸せな未来を想像する事ができる能力が備わっている事を再認識してみます。

まずは自分が幸せに。
自分が幸せで無ければ、となりの人を幸せになどできないと思います。
自分優先で良いと思います。
自分が幸せではないのに、誰を幸せにできるのでしょう。
毎日幸せに暮らすことを考えます。
美味しいものを食べたい。
大切な人と何を一緒に食べようか。
食材は何を準備しようか。
今日はあれが食べたいと家族からのリクエスト。
私はパスタが食べたい。
そんなことを想像している時は、未来から時間が流れている。
過去の自分は関係なく、自分の想像力が未来を作ります。
どんな願いでも叶うとしたら、5年後のあなたはどんな暮らしをしていますか?


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