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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その三)

ここでは、まず平戸/長崎オランダ商館とタイオワン商館の密接な関係を述べます。オランダ東インド会社にとって、本拠はバタヴィア、今のジャカルタで、主な交易は香辛料。そして、タイオワンと平戸/長崎は、合わせて中国商品の交易を担う支社グループと考えられます。
この海域でのオランダの事業戦略は、端的に言ってマカオの商品ルートを奪い、対中国貿易の利益を手中に収めることにあります。


オランダの事業戦略

このきっかけは、オランダがマカオの交易船に対した働いた海賊行為にあります。オランダはマカオからマニラに向かう交易船を拿捕、ここで手に入れた商品群をオランダ本国に持ち帰り売り捌いたところ、その利益は膨大なものになった。投資額の倍ものリターンを得たそうです。そうして、マカオにおけるポルトガルの台中貿易に目をつけたオランダは、継続的にアジア海域におけるポルトガルの拠点を攻めていきます。
対マラッカの攻撃は1597年と1641年に行われ、ここはオランダの手中に落ちます。対マカオの攻撃は1602年と1623年に行われますが、これはいずれも失敗します。
そして、オランダはタイオワンに拠点を設け、中国/日本間の交易を図ろうと企図します。商品のルートはこの時点では中国に設けられていないので、中国の商人が海外に持ち出すものを買い取るか、海賊を働いて奪い取るしかありません。そして、そのようにして手に入れた商品を日本に売り、日本からは銀を持ち出すというのが彼らの基本的な事業戦略です。

タイオワンと平戸/長崎の人的交流

このように、バタヴィアでの場合と基本的に異なった事業戦略を持っているタイオワンと平戸/長崎のオランダ商館は、密接な関わりを持っていました。そのために江戸幕府への交渉にタイオワンの商館長が派遣されているわけです。
さらに、このタイオワンと平戸/長崎の商館の間では人的交流も盛んです。オランダがタイオワンに商館を持っていた1624年から1662年の38年間に、タイオワンでは12名の行政長官が着任しています。同様の期間に平戸/長崎では28名が交代しています。要塞を設けある程度の土地の支配もしていたので、タイオワン商館の方が支社としては格が上だったのでしょう。それで任期も長くなっています。江戸幕府からは平戸商館長を毎年交代させるようにとの指示もあったそうです。日本のオランダ商館は江戸幕府のコントロール下に置かれ、商館の立場としてはあくまで土地と建物を間借りした一企業でしかありませんので、その権限も限られており、東インド会社内での格付も低かったと思われます。

このようなタイオワンと平戸/長崎商館の関係ですが、タイオワン行政長官と平戸/長崎商館長の間に同じ名前が三名見られます。
下に12代のタイオワン商館長の名前を書き出してみます。そのうち平戸/長崎での業務経験がある場合その記載も加えます。

初代:マーチヌス・ソンク
第二代:ジェラード・ウィッチ
第三代:ピーテル・ノイツ
第四代:ハンス・プットマンス
第五代:ヨハン・ヴァン・ディア・ブルフ
第六代:パウルス・トラウデニウス
第七代:マクシミラン・マイル(第九代平戸オランダ商館長)
第八代:フランソワ・カロン(第八代平戸オランダ商館長)
第九代:ピーテル・アントニウスゾーン・オーフルト
第十代:ニコラス・フェルブルフ
第十一代:コーネリアス・カーサー
第十二代:フレデリック・コイエット(第十六代、二十一代長崎商館長)

この文章でテーマにしているフランソワ・カロンの他に、フレデリック・コイエットという名前があります。この二人は、このように経歴が似ているという他にも、多くの共通点があり僕は注目しているのですが、それはまた後で触れます。

このような関係にあるので、平戸オランダ商館はタイオワン商館の管轄下にあり、指揮系統も明確で、タイオワン行政長官の指示の元で動いていたと考えられます。
そして、このタイオワン商館の行政長官が前代未聞の不祥事を起こしてしまいます。

タイオワン事件

タイオワンにおける関税の徴収問題について、オランダ側と日本の商人たちの見解は解決を見ないままでした。そして、日本において非常に不愉快な経験をしたと感じているピーテル・ノイツが、日本の商人に対して様々な非情な措置を取り始めます。タイオワンにおける商品の積み込みはおろか、船に搭載している武器を全て没収すると言い出したのです。
この時日本船団のキャプテンをしていたのは浜田弥兵衛という、長崎代官末次平蔵配下のリーダーでした。彼は直接談判をするためにゼーランディア城に乗り込みます。そして、部下を引き連れて商館長のオフィスに入りました。

この時、ピーテル・ノイツは浜田弥兵衛に対して机に足を乗せ、とても傲慢な態度であったと多くの本には記載されていますが、僕はこれには脚色が含まれているのではないかと考えています。後にピーテル・ノイツはオランダ東インドによりスケープゴートとされ、江戸幕府に送られます。彼の個人的な問題とされ、それを理由にオランダとの交易が復活するというストーリーになります。その過程で粉飾されたピーテル・ノイツの悪事の一つと僕は考えています。
しかし、この時ピーテル・ノイツが日本人の集団のことをみくびっていたのは確かでしょう。彼は一人でオフィスにいたのか、若干名の護衛がいたのかは定かではありませんが、いずれにしろ彼は浜田弥兵衛の集団に組み伏せられ、人質に取られてしまいます。(カバーに使っているのは、この時の様子を描いたオランダの挿絵です。)
これは、状況的にピーテル・ノイツがあまりに日本人のことを軽視していた。東アジア海域での倭寇の猖獗、戦国時代の日本の武士の戦争、その様なことに関する知識が足りないための油断だったと考えざるを得ません。
翻って考えると、この時点でのタイオワン商館の自衛能力、治安維持能力というのはとても低いものであったとも言えます。何しろ、このようにしてオフィスで捕まえられたピーテル・ノイツは、浜田弥兵衛の脅しに屈し、人質を浜田弥兵衛側に渡し自らは解放されることとします。この時の人質にはノイツの息子とカロンも含まれています。そして彼らは日本に送られてしまうのです。

そして、僕はこの事件の根源的な問題はオランダ東インド会社のバタヴィア本部にあったのだと考えています。
鄭芝龍編で述べてきたように、この東シナ海域でのタイオワン商館の諸政策については、バタヴィアのオランダ東インド会社本部から指示が出ており、現場では基本的にそれに従って対応をしています。軍隊組織と同じように命令違反はできないようになっているのだと思われます。現場からは常にその判断に対して不適切であるという申し立てをしていても、本部の指示が翻ることはなかなかありません。それがために戦争状態になることになっても、勝手には判断できません。
この時のピーテル・ノイツは東アジアでの経験は少なく、現場の状況を理解する十分な時間も得ておらず、ただただバタヴィア本部の指示に従っていた。そして、油断をした隙に浜田弥兵衛に取り押さえられてしまったのだろうと考えています。

平戸オランダ商館、閉鎖

この事態を受けた江戸幕府は、平戸オランダ商館の交易を禁止してしまいました。そして、この状態は1632年まで四年間続くことになります。

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