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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その一)

仕事柄、複数の国或いは文化圏で、利害の調整のためにもがき続けた人物に興味があります。鄭芝龍にもそういった面があります。

今回は、江戸時代初期の東インド会社で、最も下詰みの料理人から、タイオワン商館長まで上り詰めた伝奇的人物フランソワ・カロンを取り上げます。


17世紀のオランダ

中国の歴史家黃仁宇に「資本主義與二十一世紀」という著作があります。これは現代の資本主義社会の源流を中世のベネツィアに求め、その系譜を17世紀のオランダ、18,19世紀のイギリス、20世紀のアメリカと連ねて述べた、経済に主眼を置いた歴史書です。
この本を読むまでは、江戸時代初期にオランダが日本にやってきて、平戸と長崎で貿易を行ったということは知っていましたが、その時のオランダが世界を牛耳る覇権国家であり、世界に先駆けて資本主義的な社会制度を実現した国であることは知りませんでした。

オランダ独立戦争

このような先進的商業地域であったオランダは、スペインのくびきから離れようと、長期に渡る独立戦争を実施中でした。1568年から1648年というので、日本の状況を見ると織田信長が京都に入った年から、江戸時代の鎖国政策が確定したその後の安定した時代までになっています。
この長期的なスペインに対する戦争状態の中で、オランダは世界的な覇権国家に成長し、東南アジアの各地域を貿易拠点として占領していきます。この時代のオランダは、世界に先駆けた資本主義的なソフトウェアと、世界でも最も優れた船舶建造技術というハードウェアを有した先進的な国家だったのでしょう。

ウィリアム・アダムズ

オランダ東インド会社がアジアにやってくるに先駆けて、世界周遊を目指したオランダ船リーフデ号が日本に漂着しています。そして、この船に乗っていたイギリス人航海長ウィリアム・ヒアダムズが、徳川家康の外交顧問に抜擢されています。これは、豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけて、カトリックのキリスト宣教に非常に敏感になっていたという状況から、カトリックに対するカウンターパートとしてちょうど良い人物であると評価されたのでしょう。
そして、このウィリアム・アダムズの手引きでオランダ東インド会社が日本にやってくることになります。

オランダ東インド会社

オランダ東インド会社は、1602年にオランダの各商社の利害を統制し、オランダの国としての利益の最大化を図るために設立されました。世界初の株式会社と呼ばれています。
この組織は、中世の宗教を中心的理念にしたものと異なり、商業的な利益の確保と維持を目的にしています。その合目的性をコアにして様々な商業活動、軍事活動を繰り広げていきます。17世紀に世界中に拡がった彼らのネットワークは、アフリカ・アジア・アメリカ・太平洋と世界中に存在します。

最も主要な取引となっているのは東南アジアの香辛料です。この確保のために、会社の拠点はバタヴィア、現在のジャカルタに置かれ、インドネシア全域をコントロールしていきます。
そして、マカオにおけるポルトガルの対中交易を手中に収めるべく、東アジア海域にも触手を伸ばしていきます。

平戸オランダ商館

オランダ東インド会社の根拠地はバタヴィア、現在のジャカルタに定められ、ここから日本に艦隊が派遣されてきます。そして1609年に江戸幕府の許可を得て、平戸に商館を建てます。
この経緯には先のウィリアム・アダムズと、平戸の藩主松浦隆信の力が大きく働いていたのでしょう。この時期の江戸幕府は統制貿易を行うという意思を持っておらず、平戸藩に外国船が来ることを認めていました。後にイギリス商館も設立されることになります。
このオランダの商館というのは、実に世界的なネットワークを持っていたものであり、日本の平戸オランダ商館はその一つでしかありません。この時点では、オランダはポルトガルの跡を追ってマラッカ、マカオとポルトガルの拠点を攻めてきていますので、日本が貿易上有望な土地であると認識はしていたでしょう。取り掛かりとしてのリエゾンオフィスをようやく構えたというところです。しかし、具体的なアクションはこれからということになります。

ジャックス・スペックス

この平戸のオランダ商館で初めの時期に活躍したのはジャックス・スペックスです。第一代と第三代の商館長を務め、オランダと日本の関係性を築く足掛かりを作っています。

フランソワ・カロンはこのヤックス・スペックスが2回目の商館長を務めている時期に、平戸にやってきます。そして、ややもすると幕府により商館の閉鎖を命じられるかもしれないという危機に直面しつつ危ない舵取りをしていくことになります。

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