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「台湾のジャズミュージシャン100年の軌跡をたどって」(その一)

「探尋爵士樂手在台灣的百年足跡」

これは台湾の雑誌「Par」でジャズ特集が組まれた際、台湾ジャズシーンの第一線で活躍しているサックス奏者、楊曉恩老師が寄稿した文章です。楊さんは博士課程で台湾のジャズの歴史を研究しており、その蓄積をまとめてこの文章を書いています。
ここでは、楊さんの了解を得てこの文章を日本語に訳出してみます。

台湾のジャズの歴史は日本とは大きく異なっており、戒厳令が解かれた後にようやく自由にジャズを学ぶことができるようになっています。そのために、僕は台湾のジャズはとても若い音楽である考えています。
この文章では、更にその時間を遡り、日本統治時代にその源流を求めて、台湾のジャズの系譜を説明しています。

1895-1945 日治時期
爵士樂手的定義經常眾說紛紜,諸如有人認為應該以爵士樂手所具備的能力、知識及曲目為標準;也有人說,靠爵士音樂演奏吃飯的人才能叫做爵士樂手;更有人認為,演奏現代爵士樂、具藝術性並且具有創作能力的人,才能叫爵士樂手。然而,如同「爵士樂」的意義與內容,會隨著時代與場域變化,「爵士樂手」(Jazz Musician)也是如此。

在過去100年中,爵士樂從美國傳播到全世界,台灣在各年代,也有許多對爵士音樂充滿興趣、且想要身體力行的實踐者。他們追尋夢想,有的離鄉背井去學習,有的聽唱片模仿。台灣的音樂史,則少不了爵士樂手在台灣的敘事,他們製造出獨特的音景,也穿梭在各式音樂場景中。因此,本文希望在歷史的更迭中,探尋音樂社群的演變,找尋不同世代的爵士樂手,看看他們如何堅持爵士樂的理想,尋找自身定位,並且影響同代與下一代的樂手。

Par 340号

1896-1946 日本統治時代

ジャズミュージシャンとは、どの様に定義したら良いのでしょう?多くの人は、ミュージシャンとしてのテクニックと知識を備えていたらそうであると言います。ある人は、職業として音楽で稼いでいることが、ジャズミュージシャンの条件であると言います。一部の人は、現代のジャズは芸術としてのオリジナリティーを有してなくてはいけないとも言います。「ジャズ」の定義が多様性に富んでいる様に、「ジャズミュージシャン」の定義も簡単ではありません。

過去100年間、ジャズはアメリカで生まれ世界各地に広まっていきました。台湾においても、それぞれの時代に、ジャズに興味を抱き、自身でそれを実践した人々がいました。彼らは理想を追い求め、あるものは故郷を離れ異郷に学び、あるものはレコードを聞いて音楽を模倣しました。台湾の音楽史において、これらのジャズミュージシャンの、台湾における物語を忘れるわけにはいきません。彼らは、様々な音楽シーンの中に独自の足跡を残しています。この小論では、それぞれの時代が動く中で、音楽を演奏するグループがどの様に移り変わっていったのか、彼らがジャズに対してどの様な理想を抱き、自分の立ち位置を見出していったのか、そして後に続くミュージシャンと次の世代に何を残していったのかを見ていきます。

日治時期:台灣爵士樂手的萌芽
當爵士樂隨著留聲機、歌舞娛樂表演、出國旅行及廣播,風靡全球時,日本人也迷上這從美國來的最新娛樂。1920年代中期,陸續有許多舞廳在大阪開幕,也雇用了許多樂隊駐演,而這股風氣,也吹進了台灣。1939年,台灣音樂家高金福在雜誌《台灣藝術新報》上詳細描述了台灣人如何開始演奏爵士樂。他與音樂研究會的同儕,於1930年在大稻埕開始嘗試組成爵士樂隊,一開始由於樂手大部分來自古典音樂的背景,只能聽唱片不斷模仿。經過一番努力,終於1931年於剛成立的舞廳「同聲俱樂部」駐場演出。同聲俱樂部後來於1935年搬遷,並改名為第一舞廳(第一ダンスホール),著名的小號手楊三郎就是因來此擔任電梯員而開始學習音樂的。

儘管受到大家的喜愛,爵士樂與社交舞在日本仍然遭受許多保守派人士的批評與反對,並受到政府的管制,有些樂手因此渡海至上海或東北等地尋求演出機會。台灣的樂手也因殖民政府的管制愈趨嚴格,而在1930年未開始向外發展,例如林禮涵、楊三郎、陳清銀、許戊己、蔡江泉及劉金墻,都曾到日本、東北與上海演出。

Par 340号

日本統治時代:台湾ジャズミュージシャンの萌芽

ジャズという音楽が、レコード、娯楽としてのダンス、海外旅行とラジオ放送を通して世界に広がっていったとき、日本人もこのアメリカからやってきた最新のエンターテイメントに夢中になりました。1920年代中頃、たくさんのダンスホールが大阪でオープンし、そこではハウスバンドを雇って演奏をしていました。このムーブメントは台湾にも伝わりました。1939年、台湾の音楽家高金福が《台灣藝術新報》で台湾人がどの様にジャズの演奏を始めたのかを描写しています。彼と音楽研究会の仲間が一緒になって、1930年に大稻埕でジャズバンドを組織しました。当初、ミュージシャンの多くはクラシック音楽の素養しかなかったので、ただひたすらにレコードを聞いて音楽を真似するだけでした。練習の甲斐あって、ようやく1931年にその頃オープンしたばかりの「同聲俱樂部」で演奏する運びになりました。同聲俱樂部は1935年に別の場所に移り、「第一ダンスホール」と店名を変えています。有名なトランペッター楊三郎は、このホールでエレベータボーイを勤めたことがきっかけで、音楽を学び始めています。

この様にジャズとダンスはとても人気のエンターテイメントとなりましたが、この音楽と活動は日本では保守派の知識人から非難を浴び、反対されるもので、政府から規制を受けたこともあります。何人かのミュージシャンは、そのために上海や満洲国に演奏の機会を求めて移って行きました。台湾のミュージシャンは、植民地政府の規制がだんだんと厳しくなってきたため、海外に活躍の機会を求める様になります。例えば、林禮涵、楊三郎、陳清銀、許戊己、蔡江泉それに劉金墻らは、皆日本、満洲国や上海に演奏に行く様になりました。

除了舞廳的伴奏樂手之外,地方的傳統子弟團也在日治時代分設西樂團,其中松山福安郡便是一個例子。松山福安郡於1917年創立,雖然剛開始以吹奏樂及管絃樂團為主,後來也漸漸學習爵士樂演奏,並且在戰後的台灣音樂界發光發熱,其中包括統一飯店領班鄭萬欉及知名鼓手王裔旺(綽號臭頭仔仙)。

總結日治時代的樂手,因為日本的殖民,而接觸了爵士樂。音樂群體形成的媒介,主要以音樂研會、舞廳、地方的子弟團為主。此外,高金福還提到:爵士樂要進步,必須仰賴個人練習即興演奏及團體的合奏。可見當時的爵士樂手,對爵士樂已經有一定的了解・因為・經過了100年・這仍然是演奏好爵土樂的重點。

Par 340号

ダンスホールでのミュージシャンの仕事以外に、地方の伝統的な若者の楽団も、日本統治時代に洋楽の演奏を始めています。例えば、松山福安郡がその一例です。松山福安郡は1917年に創立され、当初は吹奏楽と管弦楽を主に演奏していました。後にジャズの演奏も学び始め、彼らは戦後の台湾音楽界でとても活躍しています。彼らの中から、統一飯店のリーダー鄭萬欉や、著名なドラマー王裔旺らが現れています。

まとめると、日本統治時代の台湾のミュージシャンは、日本の植民地であることからジャズに触れ始めました。ジャズのグループが成立するのは、音楽研究会、ダンスホール、地方の若者の楽団などが主でした。その他に、高金福はジャズが進歩するためには、個人のインプロヴィゼーシャンの力量とチームでのコラボレーションが大切だと書いています。ですので、この時期のジャズミュージシャンは、既にジャズという音楽に対しての理解をちゃんと持っていたのだと分かります。これは、100年を経た今でも、ジャズという音楽の大切なポイントです。

戰後戒嚴時期:不同身分的樂手共創爵士背景
戰後戒嚴時期,台灣的爵士樂手群體主要可以分為四大類:一是承襲日治時代音樂教育,受日本爵士樂影響的樂手;二是因為國民黨遷台而來台,受戰前上海爵士樂影響的樂手;三是因為美軍駐台,受美國爵士樂影響,並來台演奏的菲律賓樂手。最後,是成長於戰後、於1960年代左右,開始投入演出工作的樂手,他們不但接觸並傳承前兩類的樂手前輩,也與第三類的菲律賓樂手有密切的往來與交流。這四類樂手在戰後戒嚴時期,雖然可能有身分認同上的群體界線,不過音樂卻往往讓他們打破界線,互相交融。因此,台灣戰後戒嚴時期的爵士樂演奏場景,可說就是由這四類樂手共同創造出來的。

Par 340号

戰後戒厳令の時代:様々な出自のミュージシャンが創り出したジャズ

第二次世界大戦後の戒厳令の時代、台湾のジャズミュージシャンは大きく4つのグループに分かれていました。一つ目は日本統治時代の音楽教育を受け、日本のジャズの影響を受けたミュージシャン。二つ目は国民党が台湾にやってくる際に連れてきた、戦前の上海のジャズの影響を受けたミュージシャン。三つ目は台湾駐留の米軍関係のアメリカのジャズの影響を受けたフィリピンのミュージシャン。最後は戦後に育ち、1960年代頃に音楽の仕事を始めた台湾の地元のミュージシャンです。彼らは一つ目と二つ目の先輩の伝統を踏まえた上に、三つ目のフィリピンのジャズミュージシャンと密接な交流を持ちジャズを学びました。この四つのグループのミュージシャンは、アイデンティティの上で異なったグループに属していましたが、音楽を通してその境界を超えて交流を重ねました。ですので、台湾の戦後の戒厳令の時代、ジャズの演奏の現場は、この四つのグループが一緒になって作り出していたのだと言えます。

二戰結束,百廢待興,對日治時代的台灣爵士樂手來說,必須展開另一段音樂生涯。1940年代末期,楊三郎與陳清銀很快地得到在廣播電台現場演出的機會。而隨著美蘇冷戰的開始,美軍顧問團開始駐台,這不僅帶來了美軍,也帶來了爵士樂及演出機會。楊三郎、陳清銀、林禮涵與許茂己皆在1950年代於美軍俱樂部演出,不過他們後來分別有了不同的音樂路。陳清銀曾參與周藍萍的配樂工作,林禮涵則後來重心放在編曲與錄音,作品達一萬首,成為60、70年代唱片重要的幕後工作者•楊三郎除了在台語歌曲創作上獲得肯定外,也在1950年代組織「黑貓歌舞團」巡迴演出,可惜歌舞團在1965年左右沒落,影響楊三郎甚鉅。

Par 340号

第二次世界大戦後、時代は大きく変化し日本統治時代の台湾のジャズミュージシャンは、その音楽家としてのキャリアを新しく展開させていきました。1940年代末期、楊三郎陳清銀は早々にラジオ番組での生出演の機会を得ました。米ソ冷戦が始まると共に、アメリカ軍の顧問団が台湾に駐在する様になりました。彼らは軍隊だけではなく、ジャズも台湾に持ち込み、台湾人が彼らに対しジャズを演奏する機会も増えました。楊三郎陳清銀林禮涵許茂己らは、皆1950年代アメリカン倶楽部で演奏をしています。しかし、彼らのその後の音楽家としての道は、異なったものになりました。陳清銀は、周藍萍の映画音楽の制作に携わりました。林禮涵は音楽の仕事の主軸を編曲と録音におき、その作品数は一万曲に及んでいます。1960年、70年台における、レコード制作の重要な録音技術者です。楊三郎は台湾語の歌謡曲の作曲で名をなした以外に、1950年台には「黑貓歌舞團」を組織し巡回公演をしています。残念なことに、この歌舞團は1965年頃には人気を失ってしまい、楊三郎は苦境に立つことになります。

感想

僕は別のところで、台湾の建築師の変遷についても書いていますが、このジャズミュージシャンの場合と同じ様に、その萌芽は日本統治時代にあるものが、中華民国の時代になり、大きく変革を余儀なくされる。そして中国大陸、アメリカの影響を受けて徐々に台湾独自の文化が育ち始める。この図式はとてもよく似ています。
これは、現在の台湾を観察する場合の、ある程度普遍的な視点なのかもしれません。

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