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【明清交代人物録】鄭芝龍(その十一)

鄭芝龍は、北京に送られて実に15年にも及ぶ軟禁生活を送ることになります。これは、福建における鄭家軍が一向に清朝の支配下に入ることをよしとしないからです。順治帝の時代この状態は続きましたが、康熙帝の時代になるとこの福建の反乱軍に対する態度が変わってしまい、鄭芝龍は殺されてしまうことになります。
この人生の最後の段階で鄭芝龍の犯した判断ミスは何なのか、それを自分なりに考えたことがあるのでここで紹介してみます。


息子の反乱

鄭成功は、中国の伝統的な文人教育を受けて王朝の官僚となるべく育てられています。これは、鄭家軍にとっては悲願でもあります。中国の伝統的価値観では、シビリアンコントロール、文人が最終的な決定権を持つ指導的立場にあり、武人はそれに従うものとされています。

そのようなエリートとなるべく教育を受けてきた鄭成功は、また日本人と中国人のハーフでもあり、鄭家軍の中では異端の存在だったのではないでしょうか。日本人の血が混じっているからこそ、より中国人の伝統に沿って振る舞い、より中国人らしい指導者になりたいと考えていたとしても不思議ではありません。彼は二重の意味で鄭家軍の中で特殊な存在であったと考えられます。

そして、これが鄭成功が父親の意見に反して、清朝に寝返ることをよしとしなかった原因だろうと考えています。中国の伝統教育では儒教を基にし、皇帝に忠義を尽くすことが基本的な美徳とされています。これを忠実に実行することこそが、優れた官僚となる素養であると教育されているわけです。

マツが殺される

そして起こった次の誤算、清朝の軍隊が福建に入ってくるという非常に危険なタイミングで、日本の平戸から鄭成功の母親、田川マツが安海にやってきます。
この人物が何故わざわざ日本から中国にやってきたのか。このこともよく考えると不自然なことです。

この時代の日本は既に鎖国の時代に入っており、日本人は基本的に外国に行くことを禁止されています。そのような状況下で殊更に中国に行くことには、何か特別な動機あるのだろうと考えられます。
長崎には鄭成功の弟である田川七左エ衛門という人物が残っています。鄭家軍の日本側の窓口としての役割を担っている。そうであれば田川マツは日本でもそれなりの暮らしができたはずです。

僕はこの田川マツが福建の安海に来た理由は、キリシタンであったからであろうと推測しています。
日本の戦国時代に最もキリスト教が普及していたのは九州、特に貿易港として栄えていた平戸と長崎です。多くの日本人もキリスト教徒になり、宣教師もこの二つの都市を拠点として布教活動を行なっています。
そして、鄭芝龍もクリスチャンでした。マカオで洗礼を受け、Nicolas Gapardoという洗礼名を持っています。このような2人が結ばれて鄭成功が生まれているわけです。
しかし、その後長崎でも平戸でもキリスト教徒は迫害され棄教を迫られます。そのような中、信仰を保ち続ける人々は隠れキリシタンとなり、細々と信仰の火を灯し続けることになります。そのような平戸の歴史的事情から田川マツがキリシタンであり、この時点では隠れキリシタンとして、信仰を保ちつつ、それを表面化できない状態にあったという想像は許されるでしょう。

一方、安海の地ではキリスト教がかなり普及していました。クリスチャンの信仰は認められており、タイオワンのオランダ商館や、マニラの宣教師の記録に安海の信仰の様子が記されています。
後に鄭成功はイタリア人の宣教師ヴィクトリオ・リッチをマニラに派遣して外交交渉を行わせたりしています。キリスト教の宣教師は鄭成功の信任を得ていたということです。
これらのことから、当時の安海ではキリスト教は公認されており、宗教活動も自由に行われていたと推定できます。

田川マツはキリスト教信者であり、自由な宗教生活を求めてわざわざ異国の地に密航してきたのではないか、と僕はこのように想像しています。そして、このことが悲劇を生みます。
清朝の攻撃に際し、家人の様々な説得にも関わらず、田川マツはこの地を去らなかった。そのために清軍の蹂躙を受けて殺されてしまいました。彼女は、わざわざ日本から渡航してきたこのキリスト教の許されている土地、そこから離れたくなかったのでしょう。この様に想像しています。

鄭成功にとって、このことがさらに自己の信念を強化することになってしまいます。自ら明朝に対して忠義を尽くすという、儒教に基づく公的な考えと、日本からやってきた母親を殺されてしまったという私情が重なり、反清復明が妥協の許されない信念として固まってしまいました。

清軍は商売人ではない

また、今回鄭芝龍が交渉する相手が、過去彼が相手としていた、平戸や長崎の商人、オランダ人、海賊たち、福建の官僚と全く異なっていたということも一つの理由であったろうと考えています。

鄭芝龍は東シナ海でかなりシビアな交渉や戦争の局面に立たされています。オランダと明朝の澎湖島での交渉。オランダの船に単身乗り込み、囚われの身になりながらも交渉をまとめたこともあります。
これらの交渉では、彼は常に自ら第一線に乗り込んで当事者になり、話をまとめています。これは商売人の交渉で、お互いに妥協の余地がある。そのために身を危険に晒しても、直接の交渉に臨むことで打開のチャンスが生まれる。虎穴に入らずんば虎子を得ず、このような処世哲学を持っていたのではないかと考えています。

しかし、この時の清軍はそうではなかった。自らに近しい黃熙胤と洪承疇が間に立ってくれてはいたものの、この時の征南軍の責任者はポロという満州貴族です。彼が清朝の最高指導者ドルゴンから得た指令は、問答無用だったのでしょう。
この時期のドルゴンは、ホンタイジの時代から続いていた漢人に対する宥和政策を、満州民族の風俗に従わせるという強行方針に変更しています。弁髪を漢民族に強要し、これに従わない人々を清朝に対する反逆者とみなすわけです。これに対し多くの漢民族は反旗を翻し、清朝の統治に暗雲が立ち込めます。
翻って考えると、この時期のドルゴンには北方では漢族に対してそれほど強い態度で対することができなかったものが、全国を統治できる圧倒的な力を持つことになり、強要的な満州民族第一主義を押し通す自信が生まれていたのでしょう。
鄭芝龍が福建で清軍に内応したのは、ちょうどこのような転換期に当たっています。黃熙胤と洪承疇でさえもこの中央の方向転換になす術がなかったのかもしれません。

鄭成功が福建での反乱をやめない限り、この父親を北京に連れて行き閉じ込めておけ。鄭芝龍の危機の真っ只中に身を投げ出すという判断が、この時は裏目に出てしまいました。そして鄭成功が自らの信念を翻すこともありませんでした。

反満州の機運

先にドルゴンが弁髪を強要する政策に方向転換をしたと書きましたが、このことの影響が広範に出始めます。彼のこの政策は止むに止まれぬものであったのでしょうが、これがもう少し後であれば漢民族による反発はもっと下火だったのではないかと想像されます。
満州族の文化強要政策に反対するモヤモヤとした気分に対し、鄭成功のあげた反清復明の狼煙が核の様になって、それを呼び寄せていくことになります。
この動きは、福建の地をセンターとして、中国の内陸部にも広がりを見せ、その勢いをもって鄭成功の北伐の動きにつながっていきます。

このような経過で、息子を中国伝統の文人として育てたことが、明清交代の混乱期に裏目に出てしまい、それが立て続けに悪い方向に向かってしまった。そして、清朝側の漢民族抑圧政策も合わさって、鄭成功の対清朝の闘争が継続していくことになった。鄭芝龍の判断ミスを、僕はこのように考えています。

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