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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その七)

長崎からバタヴィアに戻ったコイエットは、すぐにタイオワンに副長官として派遣されます。彼も台湾の業務のスペシャリストとしてカエサルの補佐をするようにとの意向だったのでしょう。これは、コイエットとしても臨むところの業務でもあり、バタヴィア本部も彼を適任者として送り出したのだと考えられます。
カエサルは4年間のタイオワン行政長官の業務を終え、バタヴィアにもどります。そしてコイエットは彼の後を継いで、1656年、第12代のタイオワン行政長官に就任します。


内政の矛盾

コイエットの最大の関心事は、鄭家軍の攻撃に対応する準備をすることでした。そのため、漢族に対する税の取り立てをさらに厳しくし、財源を確保しようと考えます。しかし、このことに対する漢族側の怨嗟の声が高まることになり、これはかえって間接的に漢族を鄭家軍の方に追いやることになってしまいます。

また、対中貿易が一向に振るわないことを受けて、鄭家軍に対して貿易再開の要望を出しています。この交渉には何斌が立ちました。結果として、鄭家軍からは好意的な対応を得ることができ、対中貿易は一時的ながら復興しています。それがために、バタヴィアからは何斌に対し感謝状が出されているほどの成功だったそうです。
しかし、その裏で何斌はこの交易の中から勝手に手数料を徴収しています。これは、オランダ東インド会社職員としてはあるまじき行為で、後に何斌は会社を辞めることになってしまいます。

この様に、この時期にコイエットの打つ政策はことごとく裏目に出てしまいます。これは、タイオワンオランダ商館の運営そのものが、環境的に難しくなっている状態にある、その様にも感じられます。

愛妻スザンヌの死、そして再婚

カロンとのよすがを結ぶことになった、スザンヌ・バウデンは、バタヴィアからタイオワンに来ることをそれほど喜んでいなかったのではないかと、ある歴史資料は書いています。バタヴィアにはそれなりにオランダ人の社交界があり、華やかな生活を楽しむことができるのに対し、タイオワンではそもそもその様な社交界は存在せず、スザンヌが1人でファーストレディーとして佇んでいるという状態だからです。
彼女がどの様な心情でタイオワンで暮らしていたかは資料には書かれていません。そして、コイエットにとっては残念なことに、1656年10月スザンヌは亡くなってしまいます。コイエットはタイオワン行政長官着任というまさにそのタイミングで、スザンヌの看病に追われ、その死という結果を迎えることになります。
しかし、息子のバルダザルもまだ小さいこと、タイオワン行政長官としての対面もあったからでしょう、コイエットはすぐに再婚をしています。相手はヘレーナ・デ・ステルケ。タイオワンの地で商務員の妻でしたが、主人の死で未亡人となっていた女性です。

台湾では日本統治時代になっても、風土病による病死者が絶えませんでした。それから300年前のこの時代でも状況は同じだったでしょう。

何斌の裏切り

何斌の私的な手数料徴収がタイオワン商館側に発覚し、彼は取り調べを受けることになりました。彼は、そのことを終始否定し続けましたが、オランダ東インド会社は彼を解雇処分に付し、それまでの税金徴収の権利を剥奪、さらに罰金の支払いも要求します。
結果、彼は会社とオランダ人、漢人に対する巨額の負債を抱え込むことになり、1660年台湾から逃亡、鄭家軍の元に走ることになります。

この際、何斌は鄭成功にゼーランディア城とその海域の詳細な地図を渡し、台湾をオランダ人から取り戻すのは容易なことであると説得したと言われています。
僕はこれに合わせて、何斌がオランダ側の具体的な軍備の状況を詳細に知っていてそれを伝えた。このことが鄭成功の判断に大きな影響を与えていたのではないかと思います。
オランダ側の兵力はゼーランディア城、プロビンシア城を合わせて2,000名程度、保有する船の数は10隻。そして、ゼーランディア側にはこれを指導する立場の軍人がいないということも伝えていたのかもしれません。後にバタヴィアからの艦隊が送られ、タイオワン商館の援護をする様命じられていますが、鄭家軍はこの艦隊が台湾から離れた正にそのタイミングでゼーランディア城の攻撃を始めています。彼らが離れた後で、ゼーランディア城には軍事的な指導者がいないことになると鄭成功は知っていたかの様です。
これら詳細な内部情報を得た鄭成功は、何斌の提案を受け入れて様々な判断をしていたのではないか、僕はそのように考えています。

支援艦隊タイオワンを離れる

コイエットの鄭家軍に対する警戒感は、長崎にいた時分から醸成され、常にバタヴィア本部に報告されています。それは、タイオワン商館長になっても変わらず、更に逼迫度を加えています。
これに対し、バタヴィア本部側では、その緊張感の度合いが違います。これは、東南アジア各国の軍事力と中国の軍事力のレベルの違いを把握していないことが大きな理由でしょう。様々な対応を見ていくと、ゼーランディア城が中国の軍隊に攻め落とされるなどあり得ないと考えている様子が、見てとれます。
そんな中、バタヴィアからタイオワン商館に向けて援護艦隊が送られます。司令官はJan van de Lean。しかし、彼に出された指示は、タイオワン商館を守ることだけではありませんでした。タイオワンに問題がなかったらマカオを攻める様、二方面作戦の指示が出されています。バタヴィアとしては、金のかかるタイオワン援護よりも、大きな収穫を期待できるマカオ攻撃の方が、会社の利益を増やすには、より期待できるという折衷案だったのでしょう。
この時バタヴィアで指揮をとっていた人物にフェルブルフがおり、彼の目には鄭家軍の脅威など郭懷一の乱と大同小異、恐れるに足らずという先入観があったのかもしれません。

コイエットにとってはこの艦隊の存在は、ゼーランディア城を守るにあたり、とても重要な意味を持つものでした。バタヴィアの指示がどうあろうとも、残って欲しいと司令官に懇願しますが、聞き入れてもらえません。
苦肉の策として、鄭家軍にゼーランディア城を攻める意思があるかないかを確かめようということになりましたが、そんな打診に鄭成功が自分の意図を正直に話すわけはなく、回答としては戦争は起こすつもりはないというものでした。
そして、この回答を以てこの支援艦隊はゼーランディア城を離れます。それが1661年の2月。そして、その2ヶ月後に鄭家軍がゼーランディア城への攻撃を開始します。

事実認識の相違

もう一つ、バタヴィア本部の認識が大きく台湾の現状と異なっていたことが分かる事実があります。
バタヴィア本部では、コイエットの度重なる支援要請を受け、彼はタイオワンの行政長官としては相応しくないと考え、次の長官を派遣しています。Herman Klenke van Odessen、彼が第13代タイオワン行政長官として任命され、実際に派遣されています。法学博士であり、財務、法律関係の専門家と目される人物でした。
しかし、彼がゼーランディア城に近づいた時点で、既にこの海域は鄭家軍の支配するところとなっており、戦気に満ち満ちていました。ここで、Odessenは、ゼーランディア城に入ることを諦め、水の補給を名目に長崎に行ってしまいます。文官としてこの地にやってきた彼は、まさに戦闘の真っ只中にあるこの状況に怖気付いてしまったのでしょう。
実は、コイエットも軍事の専門家ではありません。彼も文官として、財務、税務を取り仕切ってきています。そんな彼は、これまで述べてきた様にバタヴィアからの支援が途絶えた中、鄭家軍との戦いに臨むことになります。

思うに、コイエットの現実認識は基本的に正しいのですが、バタヴィア側の理解は常に主観的で希望的観測になっている。それが、様々なボタンのかけ違いに繋がっているという印象です。
それに対して鄭家軍の判断は、ピタッとゼーランディア城の状況を把握している。これでは、コイエットがいくら個人的資質を発揮しても如何ともし難い。

僕は、逆に文官であるコイエットが、何故鄭家軍の猛攻を9ヶ月に渡り凌ぐことができたのか?鄭家軍は10倍の軍事力を以て何故ゼーランディア城を落とせなかったのか、これらのことに興味があります。次回はその様な視点でゼーランディア城攻防戦の説明をしてみます。

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