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台湾の神様に助けられた話(その三)

僕は芝浦工業大学の学部卒です。大学の4年間建築意匠を専門に研究するクラブ活動に参加していて、学業の方がお粗末になり、落第ギリギリで卒業したという,余り出来の良くない学生でした。
しかし、幸運なことに設計事務所を転々とする中で、様々なビッグプロジェクトに参加することができました。

運命を変えた台湾での留学と就職

大学を卒業して務めた設計事務所では、設計業務の基礎をトレーニングしました。その際に台湾への留学をして中国語をマスターするキッカケを作り、30代に入ると実際に台湾で建築設計業務を行う様になりました。林鎮鯤建築師事務所では台湾人に混じって設計業務をする能力を培いました。
このようなことが、僕のキャリアの基礎となり、その後の大きな設計事務所での仕事につながることになりました。

丹下事務所での設計業務

以前に説明した様に、丹下事務所で仕事をしていた際僕は3つの大きなプロジェクトに参画することができました。これは設計事務所をいくつも転職している人間としては誠に幸運なことでした。そもそもこの事務所では、沢山の実現しないプロジェクトを設計することが多いのです。同じ時期に中国から来ていたスタッフは僕より長い期間勤めていても、実現したプロジェクトはありませんでした。それに比べて、台湾で3つの建物が実際に着工し、その監理のために現地に派遣されるというのは、今考えてもとてもラッキーな事だったと思います。
この事務所は、建築設計の学校の様なところで、多くのスタッフが、デザインの修行と自らが独立するときに箔をつけるために努めています。そのためにある期間を経ると自分で事務所を構えたり、ステップアップしていく人がほとんどでした。
そんな中、僕は余り野心的な人間ではないので、自分の能力が事務所の役に立てば良いというスタンスで仕事をしていました。そうしたところ、この様なチャンスを与えられたわけです。

6年間勤めたうちに、前半は実現するプロジェクトはありませんでしたが、後半はこの3つのプロジェクトの設計と現場監理に関わって、充実した日々を過ごしました。

佐藤総合計画での設計業務

佐藤総合計画では、設計業務に10年以上関わりました。前半は中国大陸のもの、後半は日本国内のものでした。それも、丹下事務所での経歴があったからこそだったと思います。40を過ぎた歳での転職でしたが、この様な仕事を任せてもらえることができました。

台湾のディベロッパーでの仕事

10年近く台湾の仕事からは離れていましたが、あらためて自分の能力を活かす仕事をと考え、建設コンサルタントの会社に移り、日系ディベロッパーの元で働くことになりました。
ここでの仕事は、建築家というセルフプロデュースの必要な仕事には不向きな僕にとっては、持てる能力をちょうどうまい具合に発揮できる、理想の職場でした。

台湾にとても縁のある建築士

台湾で建築関係の仕事をしている日本人はとても沢山いると思います。ゼネコンの現地法人、様々な建材メーカー、日本の設計事務所から仕事で派遣されてきている人もいるでしょう。しかし、僕の様な経歴を持っている人は、日本人としてはとても珍しいと思います。
設計という立場で、日本人と台湾人の間の建設業務に関わる橋渡しをするというのは、なかなか経験のいる難しい仕事ですが、その分自分ならではの能力を活かせる貴重な業務であると思います。
この様な業務を行う日本人が、将来現れてくるかもしれない。そのときに何らかの参考になる記録を残しておきたい、そう思ってこのnoteの文章を書いています。

そして、僕はやはり台湾の神様に気に入られているのだと思います。この国で建築設計の仕事をして運命が開け、日本での仕事が行き詰まったときに、また台湾に帰ってきて天職の様な仕事に従事している。僕がここで仕事をしていることを、日本人も台湾人も歓迎してくれている。

この様に幸せに仕事をさせてくれる、台湾という世界にとても感謝しています。

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