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【明清交代人物録】洪承疇(その十五)

明朝から清朝に王朝が交代する際、山海關における吳三桂の動向が戦況に大きな影響を与えます。この吳三桂の決断には、陳圓圓という芸妓が大きな影響を与えているというのが、巷でよく言われているストーリーです。しかし、事態の推移を見ていると、李自成の順軍が人心を得ることに対して十分な配慮をしていなかった。それに比して清朝はその点に細心の注意を払って中原への進攻を行っていた。それが故に、李自成が吳三桂への対応を誤ったのだと、その様に見えます。

順軍による北京攻略

李自成の農民反乱軍は、北京攻略の2年前、1642年の時点で、拠点の陝西から山西、湖北に攻め上り、中国の西方を勢力下に収めています。また四川方面では張獻忠が明王朝に圧迫を加えています。ですので、明王朝は既にこの時点で、内部から自らの領土を少なからず農民軍に侵食されていた状態になっています。そして一歩一歩、北京攻略に向けて歩を進められている。

明王朝はモンゴルの軍勢を北に押し戻し、北京を首都と定め、万里の長城を修復した政権です。北方に対する防御を優先して安全保障を考えている。そして万里の長城の東の果てに位置しているのが山海關です。その様な防御体制に対して東北満州族の清王朝はチャレンジをしています。
この北方に対する防御システムと比べると、南方に対しては自分の庭という意識なのでしょう、万里の長城の様な構造物はありません。鳳城で旗揚げをし、王朝成立当初、南京を首都としていた明朝にとって、万里の長城以南は漢民族による自らの勢力範囲と考えられていたのでしょう。
そして、明朝の安全保障システムがその様なものであったがために、李自成の農民反乱軍が勢力を増し、北京に向かって進軍を始めた時、これを食い止める効果的なバリアーが存在しないことになってしまいました。

1644年1月、李自成は西安で順王朝の成立を宣言します。同年2月には河南省開封を攻略、3月には山西省太原に到達。このスピードは明朝側に何ら抵抗する勢力がいなかったことを示しています。
そして、3月半ばに北京を囲み、その月末には崇禎帝が自決をし、明王朝が崩壊してしまいました。

山海關

この様な順軍の進撃スピードと比べて、清王朝が北京に進軍する状況は全く異なっています。この1644年の時点で、崇禎帝の関心は農民軍の反乱から、対清王朝との戦いに移っており、明の主要な軍隊を東北地方に向けて配してしたからです。

清朝は、ホンタイジの時代から山海關を攻めあぐねており、これまでの中原への戦闘は常に山海關を避けて迂回路をとっていました。

順治元年、1644年の時点で、順治帝が西方の農民反乱軍に対して書いた資料が残っています。恐らくドルゴンが、洪承疇或いは范文程の提言を受けて書いたものでしょう。
この時点でさえ、清朝は明に対して正面攻撃は無理なので、農民軍と協力することで事態を打開しようと考えています。

「大清國皇帝致書於西據明地之諸帥:朕與公等山河遠隔,但聞戰勝攻取之名,不能悉知稱號,故書中不及,幸毋以此而介意也。茲者致書,欲與諸公協謀同力,並取中原。倘混一區宇,富貴共之矣!不知尊意何如耳?惟速馳書使,傾懷以告,是誠至願也。順治元年正月二十六日」

【明清史料】

大清国皇帝より、明の西の地に割拠する将軍たちに書を送る。朕とあなた方は山河により遠く隔てられている。しかし、あなた方の戦勝の知らせは私達のところにも届いている。あなた方をどう呼べば良いか分からないので、この書で名については触れないが、そのことはお許しいただきたい。私がこの書を認めたのは、諸君と協力して中原を勝ち取りたいと考えているからである。この地を一緒に治めて、共に富を得ようではないか。あなた方の考え方は分からないが、先にこちらから書を送る。謹んで我々の意を伝える。順治元年正月二十六日。

吳三桂

呉三桂は松錦の戦いに参加しており、この時明軍が戦機を逸したことをいち早く感じ取り、撤退に成功した将軍です。元々遼東の生まれで、この地で成人し軍歴を重ねています。

1644年3月、呉三桂は北京の崇禎帝から山海關を離れ、北京防衛の任に就くことを命ぜられます。しかし、そのような指示が送られてきたとほぼ同時に、北京城が陥落してしまいます。
この様な事態の推移は、東北で対峙していた明朝、清朝の双方にとって驚天動地の出来事だったでしょう。

李自成側も、山海關の呉三桂の軍事力を重視し、北京入場後に既に順軍に投降していた居庸關の守将唐通を通して、呉三桂の説得をさせます。その際、唐通は呉三桂を説得するための財宝と、北京にいた呉三桂の父、吳蘘の書を持参していました。
呉三桂は、順軍からのこの使節の説得を受け、明朝の他の将軍達も既に順軍に降っていることなどから、山海關を順軍に明け渡し、李自成の元に降ることをいったん決意します。そして、北京に向かい始めました。

李自成はこの知らせを聞き、これで天下の大勢は定まったと安心し、油断してしまいました。この油断が、小さなボタンをかけ間違えさせることになります。呉三桂の家族の取り扱いが粗雑になってしまったのです。父吳蘘は勾留され、愛妾陳圓圓は陵辱されてしまいました。
北京に向かう途中、玉田縣で呉三桂はこの知らせを聞きます。そして、呉三桂は、李自成が自分を殺すつもりだと判断してしまったのです。そして北京への歩みを止めてしまいました。

この呉三桂の変心には、彼の背景を考えるといくつもの理由が考えられます。

  1. 呉三桂は元々遼寧に土地を有する名家の出身であり、北京ではなく東北の地に多くの資産を持っていた。

  2. 既に清朝との戦いで多くの明朝の軍人が、清朝に降っており、その中には元の上官、同僚なども含まれている。

  3. 清朝側の明朝の降臣に対する対応はとても良心的で、降った後の待遇は信頼できると考えられる。

呉三桂が農民軍による順と満州族による清を比べた時に、清朝にシンパシーを感じるという理由がとても多い。もし、李自成が呉三桂の父親や愛妾を無碍に取り扱わなかったら、事態はこの様には進まなかったかもしれません。

一方、この時の清朝の政策ブレーンは范文程と洪承疇であり、中原に進むための政策の大きな枠組みを次の様に定めています。

  1. 明の臣民を殺してはならない。

  2. 占領地の土地、家屋を略奪してはならない。

  3. 占領地の役人が下った場合は、そのままその役職につける。民はそのまま生業に就かせる。

この様に、清王朝は天により王朝変革の資格を与えられた義軍である。略奪にきた反乱軍ではないという姿勢を徹底させます。そして、これに反した将兵は徹底的に処罰しました。

北京へ進むことを止めた呉三桂は、清軍との交渉を始めます。呉三桂から清軍に当ててこの様な親書が送られています。

「三桂受國厚恩,憫斯民之罹難,拒守邊門,欲興師以慰人心,奈京東地小兵力未集,特泣血來助。況流賊所聚金帛子女不可勝數,義兵一至,皆為王有,…..念亡國孤臣忠義之言,速選精兵,直入中協,西協,三桂自率所部,合兵以抵都門,滅流寇於官廷,………則我朝之報北朝者,豈財帛,將裂地以酬,不敢食言。」

【東華錄】

私、呉三桂は明朝の厚い恩義を受け、王朝の民が戦乱に苦しんでいるのを憐れみ、山海關を守ってきた。軍を起こすことで、人心の安定を図ってきた。しかし、この東北の地では兵力が足りない。そのため、決死の精神でなんとか持ち堪えている。今流賊の輩は数え切れないほどの金銀財宝、無辜の子女を略奪している。あなた方の義兵に援助していただければ、王に任ずることができよう。これは亡国孤高の臣の言葉である。速やかに精兵を集め、喜峰口と龍井關から関内に入っていただきたい。私、呉三桂は自軍を率いて山海關の城門を守る。そして、北京で共に彼ら流賊を滅さん。我が明朝のためにご助力いただければ、財宝と土地を以て報いる所存である。この言葉に嘘はない。

この書の内容では、呉三桂が自らの立場をまだ十分に理解していないことが読み取れます。明朝という後ろ盾が消滅してしまった今、彼は順軍と清軍の間に挟まれて、何れに着くかを選ばなくてはならない。そのことがまだ自覚されていません。ましてや、明の土地財宝を以て清朝と交渉する、その様なことを書いています。彼はどの様な資格を持ってこの文章を書いたのでしょうか?根拠なしに、いい加減なことを書いている様に読み取れます。

一方で、書の中では長城の関を開け清軍の行軍を歓迎するということも書いています。軍事的には、自らの軍勢だけでは順軍に立ち向かうことはできないことを自覚し、清朝と組むことを選んでいます。しかし、あくまでも明の軍隊としてという前提の考えの様です。

これは、急転した事態に対する、混乱した反応だったのでしょう。そして、この様な書の内容では、清軍は呉三桂に対して何らの援軍を出すこともしませんでした。

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