見出し画像

【明清交代人物録】鄭芝龍(その一)

歴史小説が好きでしたので、大学のころから司馬遼太郎と陳舜臣の本を読み漁りました。今でこそたくさんの小説家が中国の歴史に関しての物語を書いていますが、そのころは陳舜臣さんの作品群が最も親しみやすいものでした。
氏の小説に、鄭芝龍と鄭成功をテーマにした二部作があります。『風よ雲よ』と『旋風に告げよ』というタイトルで販売されています。このうち鄭成功編の『旋風に告げよ』は比較的史実に忠実に描かれているのですが、鄭芝龍編の『風よ雲よ』は、ほとんど史実とは関係のない伝奇小説の様なものでした。そのため、台湾に住み始めた頃、この鄭芝龍の伝記や研究書を探して読み始めました。そうすると、日本の本では知ることのできなかった様々な史実を知ることができ、それをきっかけにこの17世紀の台湾の歴史にすっかりはまっていきました。


『開啟臺灣第一人鄭芝龍』

台湾に住んで1年が過ぎた1992年になって『開啟臺灣第一人鄭芝龍』という書籍が発売されました。著者は湯錦臺氏、彼は専門の研究者ではありませんが、この時代のことに興味を持って様々な著作に著しています。この本を読んで、鄭芝龍の生涯を史実に沿って詳しく知ることができました。このNoteでは、この著作に従って、自分の見方を加えながら鄭芝龍の生涯を紹介していきます。

石井での青年時代

鄭芝龍の故郷は、福建省泉州市の石井というところになります。この場所には実際に行ったことがありますが、泉州市からは離れた晉江という街の、さらに南のはずれにあたります。この晉江というところは歴史的にも著名な人物を輩出している場所で、泉州ほどの知名度はありませんが、そこそこに勢力のある街でした。しかし、石井というのはそのはずれにあるのでそれほどの街ではありません。鄭家がこの地の出身であったということは、もともとはそれほどの力のある家ではなかったのだと考えられます。

鄭芝龍の母親というのは早く亡くなったそうですが、父親は後妻を娶ります。そして、この継母のことを鄭芝龍は長く敬愛していたという資料があるそうです。また、この女性はオランダ東インド会社の資料にも鄭媽として名前が出てくるほどの重要人物でもあります。

この女性は晉江の豪商である黃家から嫁いできており、鄭芝龍の末の弟である鄭豹を生んでいます。この黄家というのは晉江で現在にも残る橋を残しており、地方の相当な有力な家系でした。のちに鄭芝龍はマカオに行きますが、頼っていくのはこの黄家の叔父にあたる黄程です。

これらのことから、鄭の家が発展していくスタートアップの条件として、晉江の黄家とのタイアップがあったのであろうと考えられます。これを、黄家が鄭芝龍の父親との婚姻をステップボードとして進めていった。そのかすがいとなっていたのがこの黄家から来たお母さんだったということです。

僕は、どちらかというと、黄家の方が新興勢力としての鄭家をパートナーとして選んで利用していったのではないかと考えています。黄家が比較的保守的な判断をするのに対し、鄭家の面々は非常にアグレッシブな活動を展開していった。そのように考えると読み解ける事象が少なからずあります。

『台湾外記』には鄭芝龍は、家でスキャンダルを起こし、父親の逆鱗に触れ逃げるようにしてマカオに行ったという風に描かれていますが、行った先の家がこの黄家の叔父であること、その後も問題なく地元に戻ってきていることなどから、そのようなことはなかったのだと思われます。黄家の事業の新しいパートナーとして、鄭家のホープがマカオに送られ、そこでトレーニングを受けたと考えるのが自然です。

なお、この晉江という街には台湾にたくさんある龍山寺のルーツがあります。台湾の信仰の中心である龍山寺の本山がこの街にあるということは、台湾と晉江という街の関係が浅くないことの一つの例証だと考えています。このページの表紙に使っているのは、その晉江龍山寺の写真です。

マカオからマニラへ

この時代のマカオは中国からの物資を海外に売りさばく貿易の拠点でした。特に大きな商売相手であったのは日本。マカオは東南アジア各国、日本への商品の供給基地として中国で最も大きな港でした。

このマカオで鄭芝龍はNicolas Gaspardという洗礼名を得て、キリスト教徒となっています。これは、のちの彼の挙動から、信仰心からというよりは、商売のための方便であろうと考えられます。

もう一つ、あまり日本では紹介されていませんが、ここで鄭芝龍は陳氏という女性と結婚しており、娘を得ているそうです。この女性はのちにポルトガル人と結婚し、子供も設けているという記録が残っています。鄭芝龍はのちに平戸に行って日本人女性マツと結婚し鄭成功を生むわけですが、それに先立ってこのような女性がいること、またのちに福建で勢力を得ると正妻を設けていること等から考えると、マツは鄭芝龍にとってはたくさんいる妻妾の一人でしかなかったのではないかと僕は考えています。

鄭芝龍はこのマカオから次にマニラに行きます。これも日本ではあまり紹介されていない事績です。このタイミングでマニラに行くということは、マカオの地で李旦の面識を得ていたのでしょう。

李旦はもともとマニラで活躍していいた商人で、スペイン人による華僑虐殺を逃れ日本の平戸に移っています。そしてその後、東シナ海を股にかける大商人となります。それは、スペインの植民地であるマニラ、中国の門戸となっているマカオ、一大消費地となっている日本の交易窓口である平戸の3拠点をそれぞれに理解していたことが大きいと考えられます。この時代、情報が限られている中で、これらの貴重な現地情報を持っていることが商人として活躍していく際に大きなメリットとなっていたのでしょう。この李旦の元で働くことになったことが、のちの鄭芝龍の発展に大きく影響します。李旦の事業を拡大発展させたのが、鄭芝龍の事業と捉えることもできると考えています。

この李旦のことを詳しく調べたのは日本人歴史学者の岩生成一氏で、オランダ東インド会社の記録からAndrea DittisあるいはCaptain Chinaと記されている人物を李旦と特定しています。日本では、この李旦のことを岩生氏の後を継いで研究している人は寡聞にして知りませんが、台湾では初期の台湾の歴史に深く関わる重要人物として、多くの歴史学者や民間の研究者が取り上げています。


そして、この李旦の関係から鄭芝龍は日本の平戸に向かうことになります。

この記事が参加している募集

#世界史がすき

2,702件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?