見出し画像

【明清交代人物録】洪承疇(その十七)

山海關を落とした後、順軍との戦いは洪承疇の予言した通りに進みました。李自成は逃げ足早く北京を離れ、清軍はそれを追いかけて北京に入城することになります。

北京へ

李自成は、山海關での敗戦の後、すぐに北京に戻り順王朝の皇帝として即位式を行いました。そして、紫禁城の財宝を持ち去りました。北京の街は焼かれ、多くの市民は殺されました。李自成は、流賊と呼ばれても仕方のない行いをして北京を後にしたのです。

山海關の戦いで順軍に勝利したドルゴンは、呉三桂を褒め称え清朝に迎え入れました。彼を平西王に任じ、山海關の兵と市民に対し、満州族に習い剃髪をする様命じさせました。そして、すぐに順軍の追撃にかかります。
清軍の先鋒は呉三桂でした。彼の父親と愛妾は北京におり、その安否が彼の最大の関心事でした。そして、その後にドルゴンに率いられた清軍が続きました。

民心を安定させる

ドルゴンは、洪承疇の提案に従い李自成の後を猛追しました。洪承疇は、李自成の農民軍が北京を去るにあたって暴虐無人の挙に出ると考えており、それに対して清軍は北京市民を守る義軍であるという姿勢を徹底させました。これが中華の地で天命を受ける王朝の取るべき姿であると、清軍の進むべき道を示したのです。

清軍はホンタイジの時代、4度に渡り中原への侵攻を行っています。それは、人民と財宝を東北の根拠地に持ち帰り、明朝の国力を奪うという意図によるものでした。しかし、今回は目的が全く異なります。この地を治め、人心を得るための政策が必要になります。清軍は北京に進むにあたり、次の様な布告を行っています。

「此番出師,原欲蘇爾民命,滅流寇而定天下,非如從前虜掠。爾等勿畏我軍,商者商,農者農,各安堵如故。更與諸將誓:若入漢境,勿殺無摹,勿掠財物,勿焚廬舍,不如約者罪之。」

《清世祖実録》順治元年四月二十二日

この戦さは、あなた方一般人の命を守り、流族を滅ぼし天下を定めるために起こしたものである。以前の様な、略奪を目的としたものではない。あなた方は我が軍に兵糧を提供する必要はない。商人は商いを、農民は耕作を、それぞれの生活をそのまま続けていればよい。
我が部隊には次の様に伝える。漢族の土地に入った後、無辜の民を殺してはならない。財宝を盗み取ってはならない。家屋を焼いてはならない。この規則を守れないものは処罰する。

これが、中原の民に向けた清朝指導者からのメッセージでした。

北京入城

李自成の順軍は、財宝を略奪し北京の街を焼き払った後に西に逃亡しました。幸いにして雨により火災はすぐに治りましたが、統治者のいなくなった北京城では、生き残った明朝の古老が街の秩序を取り戻そうと活動を始めていました。

そんな状態の北京に呉三桂が入城してきました。ドルゴンは、満州族の八旗軍はいったん城壁の外に駐屯させ、呉三桂を城内に送りました。満州族の部隊と北京市民の間に無用な衝突が起きるのを避けたのです。

北京市民は、清軍と順軍の戦いの詳細を知らず、明の軍隊が李自成を追い落としたのだと考えていました。これで、崇峻帝の葬儀を行うことができると安心したそうです。
この様な地ならしを行った上で改めて、満州族の入城が行われました。北京市民の目の前に現れたのは、明朝の礼服を身にまとった皇族や文官ではありませんでした。見慣れない満州族の軍服を来た弁髪姿の軍人たちでした。

ドルゴンは北京入城の際、皇帝用の輿には乗らずに入ってきたそうです。自分は摂政に過ぎない、輿に乗るべき皇帝は瀋陽にいると言うわけです。しかし、北京の古老はこの街を救ったのは貴方です。貴方こそこの輿になるのに相応しいと伝えました。ドルゴンは再三に渡る市民からの声に、結局輿に乗って行進をすることにしました。
このエピソードにも"禅譲"と言う漢人くさい処世術の匂いがします。これもきっと漢人の入知恵があって、この様な筋立てが用意されたのでしょう。

遷都

北京を手にしたドルゴンは、この地を新たな清朝の都とすることにしました。これは亡きホンタイジの意思でもありました。ホンタイジは清朝を中国全土を統治する王朝とするべく、様々な施策を考えていました。その中に瀋陽から北京への遷都を目指すことも含まれていたのです。ドルゴンは、この意図に従いました。

1643年8月、フリンは既に瀋陽において清朝の皇帝として即位の儀式を行っています。しかし、この段階では清王朝は中国の東北地方を治める一地方政権という認識でしかありませんでした。
ホンタイジの目指していたのは、明を倒して中国全土を治める中華の王朝となることでした。そのためには、王朝の首都を瀋陽から北京に移さなくてはならないとの遺言があったわけです。
山海關の戦いがあったのが1644年3月、北京入城が5月。そして、同年10月に瀋陽から順治帝を呼び寄せます。

この中原を制した中華王朝としての皇帝即位儀礼は、明朝の典礼様式に準拠して行われました。その様な形式にすることで、清が中国全土を支配する能力を持った王朝であることを、天下に示したわけです。
そして、この様な儀式を司ったのは、范文程、洪承疇ら漢族ブレーンたちでした。彼らのアドバイスによってドルゴンら満州族のリーダーは清王朝の礎を築いたのです。

僕は、この山海關の戦いから北京入城までの事態をこの様に考えています。ドルゴンを始めとする満洲族にとっては、あまりに変化が早すぎた。そのためにドルゴンは自ら政治判断を下す際に、漢族の意見に従わざるを得なかったのだろうと言うことです。

このドルゴンと言うリーダーは、とても忍耐深い人物であるように思います。そもそも、皇帝になれる器であると評されていながら、そうすることはせず摂政の立場でリーダーシップをとっています。そして、ホンタイジ亡き後の政権運営には、漢族ブレーンの意見を最大限に採用している。満州族のリーダーであることは極力抑えながら、中華王朝としての清国を作ることを目指しています。そんな中で洪承疇はドルゴンに非常に重んじられて、政策アドバイザーとして活躍しています。

しかし、この満州族としてのアイデンティティーをどうするのか、漢族の地を支配する中華の王朝になるという目標と、満州民族による政権運営という自らの出自に関わる問題の間に、どのように折り合いをつけるのか。それは、ドルゴンによる政策運営に関わり、この後大きな問題となっていきます。

この記事が参加している募集

#世界史がすき

2,698件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?