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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その八)

ゼーランディア城の攻防戦は1661年3月に始まり、翌1662年2月にオランダ軍の降伏により終了します。この間、コイエットは悲観的な状況ながら、鄭家軍の攻撃に耐え続けます。しかし、最後は自主的に開城して降伏、名誉ある撤退をすることになります。
今回はこの戦いについて説明してみます。

Wikipediaによる説明

中国語による説明は、とても詳細なものになっています。


制海権の奪取

この戦いを描写する場合、鄭家軍の鹿耳門への侵入から始める場合が多いですが、僕はこの海域の制海権を握ることが、まず鄭家軍の基本的な戦略になっていると考えています。
この戦い以降、清朝が台湾を収めるための20年後の戦い、日清戦争後の日本軍による台湾摂取の戦い、そのいずれも、戦闘の狼煙はまず澎湖島で上がっています。台湾本島に上陸する前に、その玄関口にあたる澎湖島を抑えて、この海域の制海権を握ってしまう。これは歴史のどの時点においても普遍的な、台湾攻略の戦略になります。

澎湖島は、そもそもオランダ軍が追い落とされている地であり、明朝が管轄していました。とすれば、この時点では鄭家軍が自由に使える島であったということです。そして、鄭家軍の軍船は一挙にここに集結し、台江內海を目指すことになります。
これは翻って言えば、オランダ軍にとってはゼーランデイア城がバタヴィアから切り離されてしまう状況に陥ってます。鄭家軍の軍船はそもそもオランダの船と比べると、戦闘力と防御力に劣り、一対一では敵わないわけです。しかし、鄭家軍の軍船が密集する海域に乗り込んで、それを蹴散らしながら戦闘をするのは、オランダ側には危険が大きすぎます。接近戦に持ち込まれると、火攻めにあって木造の船は焼かれてしまいます。20年前の料羅灣の戦いで、オランダ船は鄭芝竜の軍隊のこの捨て身の戦法により主力の船を焼かれて、戦闘に負けています。同じ轍は踏まないでしょう。

しかし、そうなるとバタヴィアからの支援が来たとしても、オランダの船団はゼーランデイア城には辿り着けないわけです。実際にオランダからの支援部隊はこの海域に来るわけですが、ゼーランデイア城には行くことができません。それは指揮官が臆病風に吹かれてと書いてあることが多いですが、実際にその海域に入ってみると、敵船が自らの10倍以上いるという中に、危険を冒して突進するというのは無謀な戦いであろうという気がします。

この第一段階の戦闘は、オランダ側にはなす術もなく、鄭家軍に牛耳られてしまいます。

鄭家軍の侵攻ルート

鹿耳門からの攻撃

鄭家軍は、まず台南と澎湖島を結ぶ海域で制海権を握り、ゼーランデイア城の孤立を図ります。そして、次のステップとして、陸上での他の陣地との連携を断ち切り陸の孤島とする様、戦闘を進めます。

この際に有名なのが、台江內海に侵入するのにゼーランデイア城から遠く離れた鹿耳門を使ったことです。僕は実際にこの鹿耳門に行ったことがありますが、ゼーランデイア城、今の安平古堡から見るととても遠い場所にあります。10キロほど離れているでしょうか。これはゼーランデイア城を守っていたオランダ軍にとっては肉眼で見える距離ではありません。

鄭家軍は、この水道についての情報を何斌から受けており、潮の満ち引きによっては、この鹿耳門において船の航行が可能だと知っていたと多くの本に書いてあります。しかし、この情報は恐らく多くの漢人が共有していたものであり、殊更何斌が教えなくても知っていたことでしょう。
しかし、この鹿耳門から内海に入る際、何斌はその陣頭指揮を取っていたそうです。鄭家軍の中枢にパイプを持っていた彼ならではのパフォーマンスの様に思います。

僕はこの鹿耳門のゼーランデイア城からの距離、オランダの戦力の不足から、オランダ側にとってはこの鹿耳門は守れないというのは既定の戦略だったのだろうと考えています。戦力をゼーランデイア城に集中させる。コイエットの採れる戦略はこれしかなかったでしょう。

鹿耳門から台江內海へ

プロヴィンシア城陥落

オランダ軍にとって寝耳に水とは言え、この際の鄭家軍の戦闘は電光石火の速さでした。鹿耳門を突破した船団は、すぐに対岸に上陸、戦闘準備を始めます。
オランダ側はこの事態をすぐに把握して、ゼーランデイア城とプロヴィンシア城は警戒体制に入ります。鄭家軍が鹿耳門を通過したのが4月30日、そして5月5日には早々にプロヴィンシア城は降伏してしまいます。

コイエットは、タイオワン行政長官に就任して早々に、プロヴィンシア城に対して防備を強化しています。しかし、それは焼け石に水の対応でしかなかったということです。鄭家軍の圧倒的な戦力の前に、プロヴィンシア城はひとたまりもありませんでした。
ここで鄭家軍はオランダ軍の降伏と、名誉ある退陣を受け入れています。これは後のゼーランディア城降伏の際にも起こったことで、この戦いでの特徴の一つです。
そして、オランダ軍はゼーランディア城に閉じこもります。

この様に1週間足らずでプロヴィンシア城を開城させた鄭家軍でしたが、ゼーランディア城はそのようにはいきませんでした。ゼーランディア城を開城させるのには実に9か月を要しています。


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