【明清交代人物録】洪承疇(その十四)
洪承疇は、清朝に帰順することを決断しました。ホンタイジは、その洪承疇をすぐに戦場に送ることはしませんでした。戦場で傷ついた洪承疇の身体を労わるための配慮だったのかもしれません。
しかし、事態は急速に進展します。1644年、明朝が李自成の順軍の攻撃に遭い、崩壊してしまったのです。清の実質上の総司令官ドルゴンは、洪承疇に対してこの事態にどう対処するべきかを諮問します。洪承疇の能力が必要になる事態はすぐにやってきました。
誤報
明朝は、松錦の戦いが敗北に終わった際、洪承疇は戦場で自死をしたと判断していました。松山で明軍が崩壊した際、実際に多くの将軍たちが死んでいます。そして、洪承疇も当初死ぬという強い意志を持っていました。そのため、状況判断から洪承疇は死んだであろうという推測が挙げられ、それがどこかの時点で既成事実となってしまったのでしょう。
明朝で捕虜になった将軍たちのうち、瀋陽に送られホンタイジによる帰順の説得を受けたのは、洪承疇と祖大樂の2人だけだったそうです。多くの武人がこの戦いで命を失っていたのは事実です。しかし、洪承疇は生きていました。
崇禎帝は自ら洪承疇に対し、戦場に残れという命令を出したからでしょうか、彼の死を悼み洪承疇の家族を呼び、明朝皇帝の名において葬儀を執り行いました。家族はこれに非常に恩義を感じ、改めて崇禎帝に対する忠誠を誓いました。
しかし、暫くしてこの洪承疇の死が誤報であることが北京に伝わりました。このことは、崇禎帝の面子を大きく潰してしまいました。ましてや、立場をなくしてしまったのは、洪承疇の家族たちです。清朝に洪承疇が寝返ってしまったということは、彼らは裏切り者の家族として皆殺しになっても仕方のない立場です。幸にしてその様な仕打ちは受けませんでしたが、北京での彼らの立場は全く無くなってしまいます。このことは、後に清の時代になっても彼らが洪承疇のことを許さないという悲劇に繋がっていきます。
ホンタイジ崩御
一方、清朝では第二代皇帝のホンタイジが崩御してしまいます。松錦の戦いで病をおして戦場に出向いたことが祟ったのでしょうか。
ホンタイジの後継者を定めるにあたって、清朝内部で闘争がありましたが、結果としてホンタイジの息子フリンが皇帝となり、弟のドルゴンが摂政となるという形で決着をみました。これが1643年のことです。
この時の後継者選定の成り行きについては、また別の機会に触れたいと思います。
明朝崩壊
そして、このタイミングで明朝は李自成の率いる順軍のために滅ぼされてしまったのです。ホンタイジは、明と戦う際には李自成の軍とは争わない様にと指示していますので、中国西方での農民反乱についても清朝はある程度の情報を得ていたと考えられます。
しかし、ここで順国の軍勢に先を越されて、北京を占領されてしまった。それは、清朝にとっては驚天動地の事態だったのではないでしょうか。
ドルゴンは、中原制覇のための戦略の立て直しを迫られます。それには、まず李自成の率いる順軍のことを正確に把握しないと、戦略の立てようがありません。
ここで、ドルゴンは洪承疇のことを思い出したのでしょう。范文程もこの事態に対しては洪承疇の意見を聞くべきだと考えたのでしょう。
清朝の正式記録に、この時の洪承疇による提言が記載されています。その部分を訳出してみます。この事態に対する、非常に具体的な考え方が示されています。そして、清のその後の戦略は見事にこの方針の通りに進みます。
我が軍は天下無敵の強さを誇ります。将同士の心が一つになっており、兵も整然としている。盗賊たちの軍勢はひとたまりもない。天下は数日の間に定まるでしょう。今はまず、先遣隊を派遣し王令を布告し、それを実施すべきです。反逆者はこれを取り除き討伐する。反抗するものは徹底的に誅殺する。一般市民には危害を及ぼさず、住居を壊さず、財産を掠め取ることもしない。その意を示します。各地の府州県にこれを周知し、城門を開けて帰順するものは、その官位を上げ、その軍と市民には危害を及ぼさない。我が軍に抵抗し服従しない者に対しては、城を落とした暁に、官吏を誅殺するが、一般市民の安全はこれを保証する。開城するにあたり、内応し協力した者には、破格の報奨金を渡す。このように王法を示し実施することが肝要です。
李自成の流賊の輩は、反乱を起こした当初、弱きに当たればこれを攻め、強きに当たれば逃げています。彼らは今、北京を占領していますが、財宝を掠め取るのに忙しく、驕り高ぶっています。既に何の志もない。一旦、我が軍が北京に迫っていると聞けば、宮殿と政府の倉庫を焼き、西に逃げてしまうでしょう。賊は輜重のための驢馬を30万以上有していると聞いています。日夜兼行で行くと二、三百里の先に逃げてしまいます。財宝は空になり、逆賊を退治もできません。士卒の取り分もなくなってしまい、とても残念なことになります。
ですので、今最も大切なのは時間です。輜重隊は後に残し、精兵を先鋒に送り、敵の不意を撃つ。薊州密雲から北京に疾風の如く迫るのです。賊が逃げればそれを追います。もし北京城に立て籠った場合、これを討伐するのはさらに簡単です。このようにして逆賊を撲滅し、神軍として入城するのです。賊の掠めた財宝はこれを奪い、士卒に配分します。これは効果があるでしょう。国境を守る明朝の部隊は兵も馬も疲れ切っていました。しかし、賊の軍隊は精鋭です。彼らは国境の部隊を蹴散らし、山の隘路を歩兵で占拠するでしょう。これに対し我が国の騎兵は強硬策に出るべきではありません。騎兵の中から歩兵を選び山頂に潜ませます。そして、歩兵を前衛、騎兵を後衛として進軍します。この様にして国境に臨めば、歩兵はそのまま騎兵となることができるので、馬をうまく使うことができます。国境に敵がいなければ、そのまま進軍させます。北京に着いたら、我が軍の兵は城壁の外に駐屯させます。そして、賊軍が完全にいなくなっているかを探索させます。そして、陝西、宣府、大同,真、保との往来を遮断し、敵からの攻撃に備えます。この様に騎馬隊を先鋒として進軍すれば、数日で戦果を上げることができるでしょう。流賊の軍は10数年戦いを続けています。我々の大軍と比較にはなりませんが、これまでの明朝の軍の様だと考え、侮ってはなりません。
僕は、この時期の清朝の摂政ドルゴンは非常に武人肌の人物だったと考えています。戦争の最前線に出て指導するタイプの人物であった。政治的な判断を得意とするタイプではない。そのため、この全く新しい中原に起こった事態に対してどの様に考えるべきか全く想像できなかったでしょう。それは長い間清朝の元で働いてきた范文程も、同じだったでしょう。
しかし、洪承疇はこの事態に対しての見通しを正確に描くことができた。自ら明王朝の将領として長い間この地に働いており、陝西においては李自成の軍隊と戦いを繰り広げてきているのです。それは、まるでホームグラウンドに戻った様なものです。彼は、ここで地理的状況から敵の実力の判断、戦略的なポイントにまで詳しい説明をしています。
一方、敵の李自成の軍では清朝に対しての理解はほぼ皆無だったでしょう。李自成の農民反乱軍は、清朝のような長期的な人材育成をしていません。行き当たりばったりに戦いを繰り広げているのみです。
明王朝がほぼ自壊といった様相で崩壊した後に、満州族による清王朝という強敵が現れるという意識はあったのでしょうか?一方の清王朝には洪承疇がいて、李自成の順軍を侮るべきでないと警鐘を鳴らしています。
孫子の兵法に次のようにあります。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」。敵のことを全く知らない順軍は、この戦争がどのようなものになるか、全く見通しを立てていません。従って、洪承疇の様な戦略的助言者を有していた清王朝は、それだけで大きなアドバンテージを持っていたと考えられます。
そして、洪承疇はこの時から清朝の指導的立場につく様になります。
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