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【明清交代人物録】洪承疇(その二)

鄭芝龍編では閩南人の海上世界から、カロンとコイエット編ではオランダ人の視点から17世紀初頭の時代を見ましたが、洪承疇は明朝の棟梁となる人材なので、中国の明王朝の視点からこの時代を俯瞰してみましょう。


明朝の皇帝制度

明王朝には、一つ特徴的な制度があります。それは宰相を設けないということです。

「1368年朱元璋は南京において皇帝と称した。彼は建国にあたり、権力を集中させるために胡惟庸と藍玉の二つの事件を利用して功臣の誅殺を行い、皇帝の権力を強化をさせた。宰相と中書省を廃止し、権力を六部に分散させた。全国に13の布政司を置き、布政使、按察司、都指揮使によりそれぞれ民政、司法、軍事を担当させた。」

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この様な方針をとる様になった詳しい理由は説明しませんが、明朝建国時にはそれなりの理由と合理性を持っていたこの政策が、明朝末期には致命的な欠陥としてこの王朝を蝕んでいきます。

一つは皇帝に権力が集中するということは、皇帝に能力があれば良いのですが、そうでない無能な皇帝がトップになると国の政治の歯車がうまく回らなくなってしまうことです。そして、事態はそれだけでは済まず、明朝末期の皇帝はだんだんと傀儡化されてしまい、臣下のためにうまく利用されるだけの存在になっていきます。有意の皇帝が出ても、この傀儡とされてしまうシステムのために、思う様な能力を発揮できない。頑張れば頑張るほど空回りしてしまう。そんな印象を持ちます。

二つ目は、皇帝の外側に有力な権力機構がないため、王朝が私物化されてしまう傾向にあること。後の清朝の皇帝が公的存在として自らを律し、公務に励むというスタイルが見えるのに対し、明朝皇帝は自分の世界に入り込み、まるで政務を見ないという人物が続けて現れます。
これは一面、明朝の政治システムを悪用する、つまり皇帝に権力が集中することを逆手に取り、無能な皇帝を頭に置いておけば、その身近にいる人物が皇帝の名を借り自由自在に政治を操ることができる、その様に事態が発展していきます。ですので、この様な無為の皇帝の時代は逆に長期政権になります。傀儡としての皇帝の元に、その臣下が自由に政治を支配できる様になるわけです。この人物が有意の士であれば、ことは良い方に動きますが、悪意のある人物が支配する時期には、政治は最悪の状況に陥ります。

三つ目に、その様に皇帝の名の下に権力を握る役割として、宦官が大きな力を持っていることです。この宦官による政治の腐敗というのは、歴代の中国王朝の中でも明朝の時代が最悪であると評されています。これは皇帝に権力が集中していることの悪い面が、如実に現れている現象と考えられます。

政治を動かす中枢としての宰相が存在せず、六つの省に権力を分散させている。そして、それを皇帝の内部諮問機関としての内閣大学士が皇帝の命を受けて指導をしている。一方で皇帝の側近である宦官から悪意のある指示が出ると、それを内閣大学士であろうと、外閣の官僚であろうとこれを上手く制御することができない。皇帝の命が絶対的なものになっているため、制度的にそれを軌道修正させることができなくなっています。

明朝の中期から末期にかけて、この皇帝への権力集中という体制の欠陥が明らかになっており、明王朝はだんだんと機能不全を起こしていきます。
以下、代表的な明朝後期の皇帝について概略を説明します。

嘉靖帝の時代

この皇帝は、その前の皇帝の直系ではなく、某系の家系から呼ばれています。それが理由でしょうか、それとも彼自身の資質でしょうか、この時代に明朝が150年を経過したこの時点で制度の刷新を図られます。

この嘉靖帝の新しい政治は、歴史的にも一定の評価を与えられているのですが、この皇帝はその後道教に耽溺し、政治を顧みなくなっていきます。恐らく、この様な皇帝のあり方を臣下が望み、その様に皇帝を仕向けていったのだろうと考えています。

この様な体制下で嘉靖帝の治世は45年に及びます。明朝が安定する要因は、皇帝が政務を怠り、臣下が思いのままに政治を動かすことができる。明朝は、この様な一種変則的な状態になっていきます。

萬曆帝の時代

中国の歴史家によると、明朝の没落はこの萬曆帝の頃から始まるというのが定説になっています。この皇帝の時代に、対外的に豊臣秀吉による朝鮮の役がなど三大戦役があり、巨額の戦費を捻出することになったことが理由と言われています。
そのような外交的な理由以外に、この皇帝も嘉靖帝と同じように長い間朝議に参加しないという引きこもりの状態になっています。萬曆帝の初期は張居正という優秀な大学士の元、中興の時代と呼ばれていますが、その後30年以上に渡り政治の表舞台に出なくなります。朝臣達は皇帝にアクセスする道を断たれ、大学士或いは宦官を通してでないと、皇帝の裁可を得られないという状態が続きます。

天啓帝と魏忠賢

この天啓帝の時代は、宦官が圧倒的に権力の悪用をしています。皇帝は何らなすべきことをせず、紫禁城の後宮で、大工仕事をしている。魏忠賢は皇帝をこのような状態に置くことで、政治の実権を握ります。そして、私腹を肥やすことにのみ力を使い、政治は正常な状態ではなくなっている。このような時代が7年続きます。

崇禎帝の時代

僕はこの皇帝は悲劇の皇帝であると思っています。上に説明した皇帝達は、自ら政治に背を向けるか、宦官にいいように扱われるかしていて、皇帝としての責務を放棄しています。
それに比べると、この崇禎帝は有為の皇帝です。とても積極的に政務に臨んでいる。しかし、既に一世紀に渡り、皇帝を政務から遠ざけることで、政治を動かしていた明朝のシステムでは、この様な皇帝が現れても事態を好転させることができなかった。そのためにやることなすことが裏目に出てしまい、最後は多くの家臣に裏切られ、自ら首を吊ることになってしまった。この様な悲劇的な最期を迎えることになった責任は、崇禎帝個人にあるのではない様に思います。皇帝個人に権力を集中させるという明朝の政治システムが、最後には皇帝個人にこの様な形で落とし前をつけさせることになった。その様な運命的なものを感じます。

末期状態の明王朝

中国の王朝には大体の寿命があると言われています。それは、約300年。長期安定した政権を営んでいる王朝であっても、300年も経つと制度的な硬直化を示すのか、それとも外部環境が変わるのか、自然環境の変化による飢饉が原因という説もあります。
明朝は、洪承疇が科挙に合格した萬曆44年の段階で王朝成立から250年が経過しています。清朝により滅ぼされるまで後25年という時期ですが、そのシステムは大きな問題を抱えています。

現代の企業に比して考えると、巨大な家族経営の企業で、実際の経営を担う実務部隊と、オーナーの家族の間に断絶が起こってしまっている。この企業創業のポリシーとして、オーナー自ら企業の運営を行うと宣言して、当初は上手くやっていたのが、時間を経るに従ってオーナーの秘書であったり雑用係であったものが、このオーナー家族をいいように操るようになっていき、組織として歪な形になっていった。
そして最後には、巨大企業がなすすべもなく崩壊していく。僕は明朝末期の様相について、そのような印象を持っています。

中国の歴史は、このような末期的症状の王朝に対して忠節を尽くす人物に対して大きな評価を与える傾向があります。岳飛とか鄭成功とかですね。
しかし、現実にこのような沈没しかかっている船のような王朝に対して、それを見捨てずに最後を共にするのが正しいことなのか、それは、そう単純な問題ではない様に思います。制度の刷新をするためには、王朝を交代させた方が良い。その様なフェーズに入っている様に思われます。日本における明治維新の様に。

そして、洪承疇はこの末期的な明王朝の最も悲惨な部分に直面させられた人物である様に感じています。

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