【明清交代人物録】洪承疇(その六)
洪承疇が新たに対峙することとなった清王朝の軍隊は、彼がこれまで戦ってきた農民反乱軍とは質を異にしています。いずれも明王朝の統治に対して反旗を翻すという点では同じですが、満州民族を核にした、今はやりの言葉でいえばサスティナブルな組織、持続可能な体制を持っているという点が大きな違いです。
この清王朝の物語については、別途人物を選んで描こうと考えていますので、ここでは洪承疇が立ち向かうことになったのはどのような集団であったのかという点に絞って、概略を説明します。
分断される辺境民族
明は、モンゴル民族によって建てられた元王朝を倒して建国された王朝です。そして、この時の元王朝は明によって滅ぼされたわけではなく、モンゴルの故地に追いやられたわけです。万里の長城の北に帰ったという言い方の方が適切かもしれません。
ですので、明朝は常にこの北方の異民族に対して警戒感を保っています。明朝の首都は初めは南京に定められましたが、これが後に永楽帝により北京に移されています。これも、北方に対して安全保障上の睨みを効かせるためには、より北側の土地にした方が好ましいと判断したからでしょう。
そのように北のモンゴルを仮想敵国とした明王朝の最大の懸念は、北方民族がもう一度勢力を結集することでした。そうなると勇猛な騎馬戦士に対して、軍事力で対応するのが難しい。そのため、明王朝の北方に対する政策の根幹は、北方の諸民族が大合同しないようにすること。それぞれが小さな勢力のままで、個別に対応することができれば、諸民族、諸部族の力関係を利用して、彼ら自身を敵対関係に置くことができる。そうすれば明王朝は軍事力を行使せず、政治力だけで北からの攻撃を防ぐことができるわけです。
東北の王、李成梁
萬曆帝の時代、東北地方ではとても有能な将軍がこの北方諸民族分断政策を実施していました。彼の名を李成梁と言います。
李成梁は萬曆帝時代の初期に辣腕を振るった首輔大學士、張居正の元で東北の統治を任されていました。その様な立場にある人物の常として、彼も清濁合わせのむ、やり手の政治家であった様です。朝廷の中央で弾劾を受けることもありましたが、政治力を生かしてその立場を守っています。東北の地で、李成梁は実に30年もの間、政治力を発揮していました。
この李成梁は、朝鮮民族系の人物と言われています。後の文禄・慶長の役に、李成梁の息子李如松が明朝から朝鮮に派遣されていますので、この父親も朝鮮から中国東北地方にかけての地理・政治状況に明るい人物だったのでしょう。現在でも朝鮮民族は朝鮮半島にだけ住んでいるわけではなく、中国東北地域にも多く住んでいます。明朝末期のこの時代でも、状況は同じだったのでしょう。
彼の東北地方での統治手法は、非常にオーソドックスなもので、この地方の諸民族を分割して、互いに争い合い、競い合う関係にしておくということです。通常彼は、それぞれの民族集団のトップとは組まず、ナンバー2の部族を引き上げることをしています。そして、トップの勢力を削いでいく。そのナンバー2が力をつけてトップになると、また別の種族に力を与えて、トップを牽制していく。それを続けることで、北方民族をある時は手懐け、ある時は敵とみなす。"夷を以て夷を制す"という政策を実施していきます。そして、それは李成梁の時代、大きな成果を上げ、彼は中国東北地方の重鎮としての位置を保ち続けました。
ヌルハチ、反旗を翻す
満州民族は、ヌルハチが現れるまでは、この様な漢民族の統治手法に踊らされる、分断された民族でした。ヌルハチの前の時代、同じ建州女真から王杲というリーダーが現れ、明朝からの独立を図りますが、建州女真の他部族は明朝側についてしまい、最終的には王杲も征伐され、殺されてしまいます。
ヌルハチは、李成梁麾下の部隊として働いたこともあります。この李成梁麾下で働いているときに、ヌルハチの祖父と父親が明朝の軍隊に間違って殺されるという事故が起こってしまいます。ヌルハチはこのことを決して許すことができず、後に明朝に対して反旗を翻す際の、7つの怨恨の一つに挙げています。ヌルハチは、この事件は事故ではなく、李成梁が故意にこの二人を殺害し、女真部族の反目をさらに強める分断政策であったのだと見ていたようです。
僕は、ヌルハチのことを著した長編小説「努爾哈赤」を読んだことがありますが、著者の林佩芬はこの時期の出来事をとても丁寧に描写しています。ヌルハチはこの李成梁の元で軍務についていたときに、この明朝の対少数民族政策の根本を悟り、満州民族は民族として一致団結することで、ようやくこの恨みに報いることができると、覚悟を定めたと描いています。後の、後金王朝設立の最大のきっかけになっている事件が、李成梁配下で働いているときに起こっているという描写でした。
彼の戦略は明らかでした。女真族、後の満州族を統一すること。それが明朝からの軛を解き放つ第一歩になります。
女真族の統一と、後金の建国
1583年から1613年にかけて、ヌルハチは女真族の各部族と闘い打ちまかし、あるいは支配下に入れることで統一を図っていきます。この間の経過の説明は省きますが、ここでポイントとなるのは、ヌルハチはこの統一の過程で、それぞれの部族を殺害していくのではなく、彼の支配下の軍隊に再配置していくことです。この彼の政策が後に清朝の核となる満州八旗軍を成立させることになります。
彼は、前の時代に同じ建州女真のリーダー王杲が、同じ様に明朝からの独立を図った際、女真部族間の力関係を明朝に利用され、内部抗争の末滅ぼされてしまっている経過をよく知っています。その二の舞を踏まない様、満州族の力を最大限残しつつ自らの力に加えていく、その様な方針を取ります。そして、それは李成梁の元表向き恭順の意を示しつつ力を蓄えていきます。
1589年、ヌルハチは建州女真を統一し、それを他の女真族に広げていきます。1613年には海西女真を配下に納めます。そして1616年に後金を建国します。
李成梁は萬曆四十六年(1618年)に亡くなります。そして、その3年後ヌルハチは7つの怨恨を掲げ、明朝からの独立を宣言します。李成梁という、東北を治めた実力者がいなくなった後で、ヌルハチはタイミングを見計らって反旗を翻すわけです。そして、明朝に対し対等な国と国の関係を求め、東北地方の事態は新たなフェーズに進んでいきます。
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