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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その十)

コイエットは最大限の努力をしてゼーランデイア城攻防戦に臨みましたが、衆寡敵せず鄭家軍に降伏することになりました。しかし、オランダ東インド会社はこの事態はコイエットの指導力に問題ありとし、彼を罪人扱いしてしまいます。


ゼーランディア城、開城

鄭家軍はこの段階では既に戦略方針をオランダ人を滅ぼすことにではなく、台湾の土地に根を下ろし、反清復明の基地にすることに置いていたのでしょう、ゼーランディア城の籠城軍に対し非常に寛大な処置をとります。彼らの命を保証するだけではなく、バタヴィアまで帰ることを許します。
この際に鄭家軍とオランダ側との間には、18条に渡る降伏協議書がまとめられており、この時代の鄭家軍が、近代の契約社会に準じる様な、商業主義的社会感覚を持っていたことが分かります。

コイエットは、オランダの籠城軍を率いてバタヴィアに引き返すことになります。ただし、この際の鄭家軍は、この表向きの紳士的な対応の裏でいくつもの残虐行為を行なっていた様です。オランダ人女性が、鄭成功の後宮に入れられたとか、キリスト教の牧師が惨殺されたという記録も残っています。

敗戦の責任を取らされる

しかし、コイエットの受難はバタヴィアに帰ってから始まりました。オランダ東インド会社の中央評議会は、このタイオワン商館とゼーランディア城の放棄という結果は、コイエットの指導力に問題ありとしてしまったのです。そしてコイエットはその責任をとらされ死刑を申し渡されます。
この様な結果になったのは、バタヴィアの幹部から直接オランダの17人委員会に報告が上げられ、何ら審議はなされなかった様です。コイエットは一方的に責任を押し付けられ、弁解の余地もなかったわけです。

僕は、フランソワ・カロン編でコイエットがこの様な立場に陥ったのは、ババを引かされたのではないかと書きましたが、今では彼は自ら進んでこの責任を負ったのだと考えています。
しかし、このゼーランディア城放棄の責任を取らされ、死刑を宣告されるというのは、彼にとっては全く不本意な仕打ちであったと想像しています。何しろ彼は長崎にいる時分から、この鄭家軍によるゼーランデイア城侵攻を警戒し、バタヴィア中央に対し援軍を求め、ゼーランディア城の補強、プロヴィンシア城の要塞化を進言しています。鄭家軍がタイオワンに攻めてくる直前、バタヴィアからの援軍が来た際にはその遺留を求めていますが、それも拒否されています。
彼の立場から見ると、彼は鄭家軍が攻めてくることを早々に想定し、対応策を様々に打っています。それがあるものは実現し、あるものは実現しなかった。そして最終的には、タイオワンを追われることになったとしても、彼はやるべきことは全て行った、そういう自負があったと思われます。

鄭家軍はこのゼーランディア籠城軍に対し敬意を持って対処し、安全にバタヴィアまで帰ることを保障しています。しかし、その帰り着いたバタヴィアでコイエットは死刑を宣告されてしまうのです。

スケープゴートにされたコイエット

僕は、ここでコイエットはスケープゴートにされてしまったのだと考えています。
ゼーランディア城の戦いがこの様な結果になってしまったのは、本質的にはオランダ東インド会社の東シナ海での戦力と、鄭家軍の戦力の差にその理由があると思われますが、詳細にその経過を見ると、オランダ東インドインド会社中央の判断ミスがとても目立ちます。見るべきものを見ていなかった。希望的観測を元に事態の判断をして、ゼーランディア城を孤立させてしまった。責任を取るべきはこの様な判断をしたバタヴィア本部であろうという気がします。

しかし、残念なことに、この時のバタヴィアにはコイエットの立場を弁護する様な人材が、皆いなくなっていました。フランソワ・カロンは会社を離れて、フランス東インド会社のスタートアップに協力していました。直前のタイオワン行政長官で、コイエットの立場を理解していたカエサルは、病気で亡くなっています。
そして、コイエットを敵視するフェルブルフが会社をリードし、自らの判断ミスを棚に上げて、その責任をコイエットに負わせた。スウェーデン人で、オランダ人の同僚から若干距離のあった彼は、この様な形で孤立無縁になってしまい、充分な弁護を受けることもできず、死刑を宣告されてしまった。その様な事態の推移だったのではないかと想像しています。
しかし、フェルブルフを始めとするオランダ人幹部たちは、皆この事、コイエットに罪はなくスケープゴートにされているだけであることを、共通の認識として持っていたのでしょう。コイエットは殺される事はありませんでした。

とは言え、彼は実に8年もの間、バンダ島に幽閉され続けることになります。最終的には、スウェーデン政府からの働きかけもあり、コイエットはバンダ島から解放されます。そして、オランダに戻って暮らすことを許されます。しかし、スウェーデンに帰る事は許されませんでした。オランダ東インド会社は、彼が2人目のカロンになってしまうことを恐れていたのだと言われています。

「閑却されたるフォルモサ」

この本は、オランダ東インド会社がゼーランディア城を失った事件を詳細に描いた歴史一次資料で、オランダで発行されています。著者はC.E.Sと書かれ、匿名となっていますが、これはコイエットのことだと一般的に言われています。
この本で書かれている内容は、概ね僕がここで書いた内容と同様です。ゼーランディア城が鄭家軍に落とされてしまったのは、オランダ東インド会社が十分な戦力を提供しなかったからであると主張しています。

これは、確かにそうであると思うのですが、一方、仮にこの時にバタヴィア本部とゼーランディア城の関係が良好で、十分な対応を受けていたらどうなっていたであろうかと考えると、戦略的に不利な状況は、あまり変わらなかったのではないかと思います。
もし、バタヴィアからの応援船団がゼーランディアに残ったままであったら、どうなっていたか?鄭家軍のタイオワン侵攻のタイミングは遅れたかもしれませんが、同じ様に行われていたでしょう。彼らが中国大陸から追い落とされるのは時間の問題でした。
オランダ側の船が4隻でなく10隻であったらどうであったか?これも大局的には焼け石に水であった様に思われます。

しかし、このために仮に半年、一年という時間稼ぎができていたら、この台湾侵攻というプロジェクトのリーダーであった鄭成功は亡くなっていたかもしれません。そうであれば、台湾の歴史は異なった歩みをしていた可能性はあります。

バルタザール・コイエット

コイエットとスザンヌ・バウデーンの間に生まれた息子はバルタザールと言います。コイエットの2度目の長崎赴任の直前に生まれ、バタヴィアで幼少期を過ごしています。
コイエットがタイオワン行政長官として赴任する際には、母親と同行しています。タイオワンでは母親に死に別れてしまい、2人目の母親に育てられます。そしてゼーランディア城の落城を経験しています。この時バルタザールは12歳。波乱万丈の少年時代です。

その後、父親であるフレデリック・コイエットが幽閉されている状況を憂いて、東インド会社に対して父親の解放を嘆願しています。彼個人の力では如何ともし難いとなると、恐らくおじであるペーテル・ユリウス・コイエットに協力を依頼したのでしょう、スウェーデン王家からの嘆願書を得ることに成功し、父親の解放を実現します。

そして、彼自身もオランダ東インド会社に勤めることを選び、バンダ島の行政長官にまで上り詰めています。これは、恐らく父親の汚名を自らの実力で晴らそうと考えていたのでしょう。この、バルタザールも優秀なコイエット家の血を引き継いでいると言えそうです。

2024年はゼーランディア城築城400年

オランダ東インド会社が、澎湖島から追われ、タイオワンの地にゼーランディア城を築き始めたのは1624年のことです。来年2024年は、それから400年を経るという記念すべき年になります。
台南市は、このゼーランディア城築城を以て台南市の歴史の画期であるとしており、そのため台南市建設400周年記念のイベントを企画しているそうです。

その際に、コイエット家の末裔も呼ばれるという話があります。コイエット家では、祖先がタイオワンで鄭成功に寛大な態度で降伏を受け入れてもらい、無事にバタヴィアに送り返されたことを感謝しているのだそうです。その様なことを伝えていたのは、このバルタザールかもしれません。少年時代に経験したゼーランデイア城陥落という歴史的事件、そして自らと父親の命を救ってくれた異国の英雄に対しての畏敬の念を、家族に伝えていたのかもしれません。

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