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明清交代人物録

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台湾に関わりを持つようになってから、言葉の勉強を兼ねて中国語による台湾の歴史の本を読むようになりました。その中で特に興味を持ったのは歴史家曹永和氏の著作です。17世紀の台湾の歴史…
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#オランダ

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その十)

コイエットは最大限の努力をしてゼーランデイア城攻防戦に臨みましたが、衆寡敵せず鄭家軍に降…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その九)

コイエットがゼーランディア城に籠って9か月を耐え忍べたのは、この城の構造に理由があると考…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その八)

ゼーランディア城の攻防戦は1661年3月に始まり、翌1662年2月にオランダ軍の降伏により終了しま…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その六)

コイエットの直前のタイオワン行政長官に、コーネリアス・カエサルが就任しています。フェルブ…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その五)

1652年4月、コイエットは長崎オランダ商館長として再び任命されます。この時は、すでにタイオ…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その四)

1652年、オランダ東インド会社タイオワン商館における最大の漢民族反乱事件、郭懷一の乱がおこ…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その三)

コイエットは、バタヴィアに戻った後すぐにタイオワン商館に副長官として派遣されます。これはタイオワンと長崎の業務が関連していることから、双方の仕事に通暁するようにという、バタヴィア本部の配慮なのでしょう。 ここで、コイエットはタイオワンのオランダ商館の現実に直面することになります。それは、中国大陸の鄭家軍、台湾の漢民族の移民、そしてオランダ東インド会社の内部組織の全てに関わる問題であり、後に彼が最後のタイオワンオランダ商館長となる運命に直接つながっていきます。 商館長フェルブ

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(そのニ)

コイエットは、1947年から1948年にかけて一度目の長崎オランダ商館勤務につきました。この初め…

【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その一)

フレデリック・コイエットの家系は、そもそも南ネーデルラントから出ています。資料にはブラバ…

【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その八)

フランソワ・カロン編の最後に、彼と少なからず共通点を持っている人物、フレデリック・コイエ…

【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その六)

平戸でオランダ東インド会社で料理見習いの下働きから、商館長というトップにまで上り詰めたカ…

【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その五)

フランソワ・カロンは日本に関する名著をものしています。日本語訳では「日本大王国志」と訳さ…

【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その四)

このピーテル・ノイツとタイオワン問題について、カロンがどの様に関わっていったのかを説明し…

【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その三)

ここでは、まず平戸/長崎オランダ商館とタイオワン商館の密接な関係を述べます。オランダ東インド会社にとって、本拠はバタヴィア、今のジャカルタで、主な交易は香辛料。そして、タイオワンと平戸/長崎は、合わせて中国商品の交易を担う支社グループと考えられます。 この海域でのオランダの事業戦略は、端的に言ってマカオの商品ルートを奪い、対中国貿易の利益を手中に収めることにあります。 オランダの事業戦略 このきっかけは、オランダがマカオの交易船に対した働いた海賊行為にあります。オランダは