見出し画像

記憶の旅日記6 ニューヨーク

初めてニューヨークに行ったときには、脛ぐらいまである大雪だった。伊勢丹がニューヨークでポップアップを開くということになり、アシスタントバイヤーだったEさんが僕らを誘ってくれて出展することになった。NIPPONISTAという名前のポップアップで、ソーホーの一角にあるギャラリースペースで開催されることになっていた。

弟が日本から、僕はドイツから行くことになり、現地で合流した。会場に着いたら全く準備が終わっていなかった。明日がオープニングだというのに、このままではオープンどころか人を入れることもできないだろうという印象だった。ちょっと会場を見に行く程度だったのだが、その現場を見て手伝わなくちゃということになり、一緒に壁にペンキを塗ったりした。会場の外で作業着でスプレーをしているおじさんがいたのだが、後で知ったが伊勢丹の偉い広報部長さんだった。壁に釘を打っているのは商品部長さんだったりとか、とにかくみんなが必死だった。

バイヤーの人たちが深い雪の中をホームセンターに道具を買いに行っていた。文化祭のようで、それはそれで楽しかった。結局次の日の夜には無事に会場が(なんとなく)出来上がって、たくさんの人が来てくれた。山本寛斎さんが来てくれて、僕らの仕事を褒めてくれたのは嬉しかった。僕らのストールは好評で完売になった。日本に帰ってから、伊勢丹の人たちとそれがきっかけでとても仲良しになった。一緒に大変な思いをすると、人は仲良しになれるということを知った。

2回目にニューヨークに行った時は一人で行き、JFK空港についた。直前まで様々な準備をしていてクタクタで、(これはほとんどの旅の前の時がそう)飛行機の中で熟睡していた。アメリカの入国審査でもとても長い列ができてうんざりしていて、もう疲れ切っていた。早くゆっくりベッドで寝たかった。空港の外に出たらタクシーの前に行列ができていて、またうんざりした。そしたらプライベートでタクシーをやっているからどうだ、という男が声をかけてきてついていき、彼の車で街に向かった。高速道路に入ったら最初話をしていた料金の10倍ぐらいの値段を言ってきた。「俺はそんな金はないよ」と言ったら「じゃあボスのところに行こうか。帰ってこれないだろうけれどね」と言い出した。財布には少しはお金はあったけれど、「本当にお金がない」ということを伝えて値段を値切る交渉をした。でかい体の黒人の男で、インロックされた車の後部座席で本当は一人ですごく怖かった。ドイツだったらまだしも、アメリカだったら撃たれる可能性もあるから。結局高速道路を抜けて目的地まで連れて行ってくれて、値段もかなり折れてくれて落ち着いた。車が止まって、まず外に荷物を下ろしてもらい、まず外から車のドアを開け、足を外に出して、それからお金を払う、と言い、彼はその通りにした。車の外に出て彼にお金を払い、「クソッタレのアジア人だぜ」と言って彼は走り去った。撃たれなくて本当に良かった。

同僚のCが僕のためにAir B’Bでブックした宿がブルックリンの先のあまり治安の良くない場所で、ホストは黒人の家族だった。子供が3人いる家族で、僕はその2階に泊めさせてもらうことになっていた。僕が道中の事情を説明すると「本当に申し訳ないですね。怖かったでしょう。」と言って宿代を2泊安くしてくれた。裕福な家族ではなさそうだったけれど、怖い思いをした後のその家族の優しさが、心底嬉しかった。帰る時に子供達に街でチョコレートを買ってプレゼントしたらとても喜んでくれた。3日目の朝家を出たら数軒先の家にニュースキャスターと警察がたくさんいた。発砲事件で誰かが撃たれたと言っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?