記憶の旅日記4 ミラノ
ミラノもパリと同じぐらいよく行く、大好きな街だ。ミラノにはデュッセルドルフから飛行機でアルプス山脈を超えていく。僕は乗り物に乗ると途端に睡魔がやってくる。旅券の席番号を見ながらシートにつき、荷物を頭の上の棚に入れ、ベルトを締めた記憶が最後で、その後「着陸しました」というアナウンスがやってきて、その間の記憶がない時がほとんどだ。ある時の出張でミラノに行く時にもそんな調子で早朝の飛行機に乗り飛び立った。途中窓が眩しくて目を覚ましたら、ちょうどアルプスの上空で、雪化粧の山がまるで何度も迫り来る波が波打つように地平線まで広がって、夢から覚めて夢を見ているようだった。朝日に照らされてこの地球上にこんなに美しい景色があるのかと、心から感動しずっと見ていた。
マルペンサ空港について街に出る電車に乗り、30分ぐらいでチェントラーレ(中央駅)に着く。ミラノの中央駅は大理石を積み、神殿のようで壮大で広々としている。ミラノ万博の時に工事されて綺麗になる前は、地下鉄に行く道に怪しいバッグやおもちゃ、雑誌、偽物のブランドバッグなど路上で売っていて、スリも多くて到着すると感動もあったがいつも怖かった。改装後のある日近くのバールでコーヒーを飲んでいると隣のおっさんがパチンと1ユーロをカウンターに置いてエスプレッソを注文し、旅行者の僕を見て「俺は工夫で俺がこのチェントラーレを作ったんだぜ」と工事に関わったことを誇らしげに言ってきた。
ミラノに初めて行った時には、僕は21歳だった。道路で寝ながら野宿で宿無しの旅をしていたらフィレンツエで荷物を全て盗まれて、本当に何にもなくなってしまった。リュックも、お金も、パスポートも、好きだったCDも、スケッチブックも、全部がなくなってしまった。今僕の手元にはその時の警察のA4サイズの調書だけが残っている。その時の話はまた別で詳しく書こうと思うけれど、とにかくミラノについた時には僕はTシャツとズボンと、下駄といういでたちの長髪で、おそらくすごく臭かったと思う。その時に父の知り合いのOさんという家族が僕を助けてくれて、2週間パスポートができるまで泊めてくれた。Oさん(お父さん)がミラノのバス停に迎えにきてくれて、電車で家につきお母さんが迎え入れてくれるなり僕を見て「あら、アナタ、本当に何もないのね」と言って微笑んだ。
夜のフィレンツェで全部盗まれたと分かった時に、足元に穴が空き身体中の血が冷めるような気持ちになり、咄嗟に思ったのが「泣いたらだめだ。泣いたら終わる」と念じて、気持ちを落ち着かせた。Oさんの家に着き、温かいシャワーを浴びて、ご飯をいただき、柔らかいベッドでのなかでようやく初めて涙が出てきた。
パスポートができるまでの間、Oさんの娘さん、Tちゃんが僕を街に誘ってくれてダビンチの最後の晩餐を見に行った。庭が綺麗な小さな教会で、予約の時間に行き、重いドアを2枚超えた暗い部屋の中でキリストと使徒たちが座っていた。静かだった。7月の真夏だったのにこの部屋は涼しかった。15分ぐらいじっくりとその壁を見て、外に出ると、教会の庭が真夏の太陽に照らされて生き生きとしていた。
イタリアの日差しはドイツのそれとは全く違う。日本のとも違う。健康でわっはっはと笑っているような、気持ちの良い太陽という感じ。Tちゃんとブレラ美術館にも行った。入り口の前にマリノ・マリーニの馬に乗る騎手の銅像があった。ぴーんと緊張した姿の黒いブロンズは今にもすくっと立って走り回りそうだった。触ってみたら太陽の熱に照らされて、手が火傷するぐらいに熱かった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?