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記憶の旅日記10 シベリア

今回は祖父の話。母方の祖父は僕の生家の隣町、鳴海に住んでいる。今年で98歳になって、酒も煙草も呑まず、毎朝決まった時間に起き、決まった場所に置かれた歯ブラシで歯を磨き、決まったルートを散歩に行き、祖母の仏壇の前で大きな声でお経をあげ朝ごはんを食べる。決まった銘柄の食パンを決まった時間トースターで焼き、マーガリンを4つ角に置き、すっ、すっと4回食パンを回しながらバターを伸ばしていく。茶道のような型がそこにあり、正しく生きることの教科書がそこにある。

祖父は20代前半の頃を中国、当時の満州で過ごした。ある日赤紙が届き、友達と最後の宴をして、皆に見送られながら出征した。向かったのはロシアとの戦線のある満州で、数学が得意だった祖父は大砲の隣で飛距離を素早く計算して砲撃手に伝えるという仕事をやっていたらしい。そんな大砲の隣での生活も終戦が来て終わった。戦友とこれで祖国に帰れる、と皆で列車に乗った。南に行くはずの列車が北に動き出した。ドアは外から鍵がかかっていた。それから線路の上を列車は走り続け、着いた先はシベリアだった。そこで祖父は3年過ごした。その間ロシアの捕虜になり、シベリア鉄道を作っていた。極寒と飢えで多くの人が亡くなった。どうしても喉が渇いて鉄格子の先の雪に手を伸ばしたら友人が撃たれて死んだ。食事はわずかなスープだけで皆栄養失調だった。数ヶ月に一度身体検査があり、お尻の肉をつままれて、戻るようだったら健康、戻らないようだったら不合格。不合格になることがそこから出られる唯一の方法だった。皆栄養失調でお尻の穴が外に出ていたと言っていた。

冬は想像を絶する寒さだったということで、マイナス70度だと言っていた。それを初めて聞いた時に「いや、おじいちゃん、そんな寒さがこの地球にあるはずがないよ」と嗜んだが、後からよくよく考えたらあれほど数字が得意な祖父が適当な数字を言うはずがなく、おそらく本当にそのぐらいの寒さだったのだろう。当時一通だけ、妻である祖母に送ったハガキがアルバムに残っている。「前略、皆様其の後お元気ですか。俺も元気で暮らしているから安心して呉れ。では又後程。左様奈良(注:さようなら)」。それだけ。検閲を抜けるためにそれ以上のことが書けなかったと言っていた。どう言う思いでこの一枚のハガキを書いたのだろう。

シベリアで3年が過ぎ、ついに栄養失調になり抑留所から出されることになった。わずかなお金をもらい、一方方向だったはずの線路を電車で南に向かい、船で日本に向かいようやく日本にたどり着いた。家に着いた時には家族はすでに祖父が死んだものと思っていて大層驚いたらしい。日本に着いた時にはわずかなお金の中から大福を買ってそれがとても美味かったと言っていた。その帰路の道中で死ぬ仲間も多かったと言っていた。家に着き、世界から数年遅れてようやく祖父の戦争が終わった。

70年が経ち、昔のアルバムを見せてくれる祖父はニコニコといつも笑っている。耳が遠くなったのでこちらは顔を近づけて叫ぶが、ニコニコが絶えない。この人がシベリアの極寒の中で飢え死にしていたら、僕は今ここにいないのだろうな、といつも会うたびに思う。祖父の名前は「弘」と一文字で「ひろし」という。祖父の字を一文字もらっていることを、誇りに思う。このアルバルを見せてくれる時に最後に必ず、「戦争はやらんほうがええよ」と、いつもと変わらないニコニコの名古屋弁で言う。

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