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【提言】「もし魚がいなかったら…」と海へ飛び込むことを躊躇するペンギンはいない

決断力がない人

「リスクを取る」とはどういう意味なのかと考えたとき、私は、“将来における何かしらの利益を得るために、答えがまだ見えないあるいは見えにくいところへ勇気を持って飛び込むこと”だと考えています。このとき、行動を起こそうとする時点では、結果がどうなるかわからない状況にあるということです。

どんなに優れた人物でも未来を正確に予測することは不可能です。そうであれば、もし失敗した際にどこまでのリスクを受け入れられるのかを見極めた上で、後は決断できるかできないかだけの話になります。天気予報でも受験でも恋愛でも“絶対”ということはなく、皆が日々不確定の中で暮らしているはずです。

傘を持たずに雨が降ったとしても濡れるだけです。志望校に落ちても好きな相手に振られたとしても、割り切って他へ移ればいいだけです。起業や事業承継などのビジネスにおいては、もし多額の借金を負ったとしても日本では命まで取られることはありません。裁判所に認めてもらえれば自己破産もできるので法律上ほぼすべての借金の返済義務が免除されるのです。

ということは、どんなに酷い結果になったとしてもゼロになるだけのことでマイナスにはなりません。また、そのリスクは起業してからの情報収集(量・質)、経験、人間関係の構築などによって減らすことができます。起業当初と同じリスクがそのまま存在するわけではなく、努力次第でリスクはコントロールが可能なのです。

要するに、リスクを取れない人というのは「決断力がない人」ということになります。

失われた判断力・決断力

なぜ決断力がないのか考えてみたとき、私は親や学校教育にその要因があるのではと推察します。「大学へ進みなさい」「塾へ通いなさい」「友達をつくりなさい」など、多くの人は親や教師から手取り足取り面倒を見られてきたのではないでしょうか。社会に出ても、「何時までにあれをやりなさい」と時間までマネジメントされてしまいます。

以前に驚いたことがあります。私たちに関係する一人の若者の親御さんが見学をしに来たのですが、その親御さんの様子は楽しみに来たというよりも、あやしい団体ではないか見定めに来たという感じで、挨拶しても非常に素っ気ない態度でした。おそらく、自分の子供が何をしているのか不安になって訪れたのだと思います。また、これは知人の会社の話ですが、新卒で入社したばかりの社員がお母さんを会社まで連れてきて社内を見学させていたそうです。

「子供が親を連れてきて何が悪いんだ」と言われそうですが、私は、小学生や中学生ならまだしも二十歳前後の大きくなった子供に対して、親がむやみに子供の世界に顔を突っ込むのはどうかと思っています。子供はいつまでも親のいる世界で生きていくわけではないので、さっさと子離れして子供を一人の人間として扱うべきです。子供の方もいつまでも親に甘えているようでは話になりません。

子供に対して過保護にしていては、その子の判断力・決断力は損なわれてしまい、そのような力がないと何かあったときに責任を他人に転嫁しようとしてしまいます。物事の内容やあり方、価値などを自分で見比べ、自分で決める力がなくて、人はどうやって生きていけばよいのでしょうか。誰しも自分の人生は自分が責任を負わなくてはならないのです。

自信のない人たち

親が子供を過保護にするのは、親の自信のなさの表れだと考えます。自分自身で答えがない状況に飛び込んだことがなく、自分で判断して自分で決断してこなかったから自信が持てないのです。自分を信じてこれなかったために、子供も信じきれずに手取り足取り面倒を見てしまいます。彼らは、「他の人もそうしていて、自分もそうしてきたから」と誰かと同じ答えを持っていないと怖くなり、それが正解だと信じ込んでしまうのです。

従来の企業においても同様のことが起きています。部下を信じて任せることができないから、時間や行動まで管理するようになってしまったのです。コロナ禍のテレワークで自宅で仕事をしているかどうか、いちいちチェックしないと我慢ならないのは自分に自信がないからです。そのような人たちは、人の評価ばかりしており、人の評価ばかり気にしています。

小中学校においては、年齢や地域など同じ属性の人としか関わらないので多様性からは程遠い状況です。その上、与えられた問題を解くことしかやらない教育を真面目に受けてきた人は、人と異なる生き方や答えのない状況に身を置くことは地獄でしかないのかもしれません。皆と同じ正社員という立場や毎月決まった日に与えられる給料を失うことが怖く、自分を支えてくれるのはそれらしかないと考えているからです。

みんな一緒でみんな仲良く、波風は立てないようにと日本人がぬるま湯に浸かってきてしまった数十年の間に、世界は急速にグローバル化が進み、そのチャンスに乗り遅れまいと世界の多くの若者がリスクを取ってチャレンジをしていきました。この差はあまりにも大きく、すでに埋めることができないものになってしまったのではないかと私は不安な気持ちでいます。

独りあがいてみる

いざ社会に出てみると、答えがあることの方が圧倒的に少なく、そもそも誰かが問題を与えてくれるわけでもありません。同じような能力の人がたくさんいるなら給与は必然と下がっていきます。それでも未だに学校は答えのある問題を与え続け、皆と一緒であることを評価します。

これからその教育を変えたとしても、結果が出るのは20年後です。その間も、失われた40年・50年などと言っているつもりかどうかはわかりませんが、私たちはこのまま衰退していく様子を眺めることしかできないのでしょうか。すでに大人になってしまった人たちはどうしていけばよいのでしょうか。

私は、みんな一緒はもうやめて独りになることを勧めます。それは「孤独が判断力・決断力を養ってくれる」と考えているからです。経営者は孤独だとよく言いますが、私も孤独は成長に必要不可欠な要素だと自分の経験からそう思っています。己の悩みや課題に対し、まずは一人で向き合いあがいてみないことには、精神的に強くはなれません。判断力・決断力を養うという意味で孤独はとても重要な時間なのです。

転んだことがない人は歩いたり走ったりすることを極度に怖れるのでしょうが、何度も転んだことがある人は立ち上がり方を知っているし、大きな怪我をしないような転び方も知っているのです。それらの力は独りであがいてみないと培われないのです。友達や同僚と集まって不平不満を吐き出していても、そこには何の意味もなく時間も無駄で、当然ながら成長はまったくありません。

失敗や変化を怖れない

大人になっても何も決断できなく、「このままの人生で良いのだろうか…」と不安になっているような人には、必死にあがいた経験はおそらくないと思われます。それまでに失敗すらしていなければ自分自身の答えなんか出しようがありません。もし何者かになりたいと考えるなら、それなりのリスクを取らないと何者にもなれませんし、何も得られません。

人生の終わりに「あのとき何でやらなかったのだろう…」と後悔しても遅く、やらないリスクもあることを忘れてはなりません。人生は皆一度切りで、答えは人それぞれにしか出せないということを知るべきです。列から外れたくないと横並びのことをしていても自分の答えは見つからず、そのとき「答えが違う」と誰かに責任転嫁しても何も解決しません。

そして、これは若者だけに限った話ではありません。現代は高度経済成長期の頃とは異なり、学生時代に取得した資格や20代の頃の下積みだけで定年まで過ごせるわけがありません。甘い目論みは今すぐに捨て、年配者であってもスキルアップや新しいことに挑戦するマインドは必要であり、「もう年だから…」などと言い訳すること自体、まわりに悪影響を与えていると自覚するべきです。

イチローのような超一流選手でも、結局は小さなことの積み重ねの結果だと言います。最初から大きなことをする必要はなく、小さく始め少しずつ大きくしていけば良いのです。自分の人生は自分自身でつくるしかなく、失敗や変化を怖れていては何一つ変わりません。時には勢いやその場のノリで動くことも大事ですし、失敗や変化を楽しめるようになったら人生はもっと楽しくなるものだと私は確信しています。


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