感情と思考と行動を結ぶ線
生活というのは、なんでしょうか? こういうとき、辞書というのは便利です。いつでも調べることができます。少なくとも、大学やら言語学の専門家やら、様々な偉い大人の人たちが知恵と知識を集合させて、完成させた見解を。
辞書によると、「生活」とはこうありました。
これは今回の意図に沿ったものだけを、提示しています。他にも生命活動としての意味や、家計のみに焦点を合わせた意味がありますが、今回は省かせていただきます。
要するに生活とは「考え、行動すること」だと言えるでしょう。しかしそこで注意すべき点は、あくまで「社会に順応しつつ」ということです。これは広い意味で捉えておきましょう。僕はいわゆる病気や、働けない人も含め、ほとんどの人が、この「社会に順応しつつ」に当てはまっていると思います。つまり、犯罪を犯すなど、この近代社会で禁忌とされていることを侵さない限りは、国民として生きている限りは、社会に順応しているもの、として考えてます。
なので、基本的には「考え、行動すること」のみに焦点を合わせます。そこから導き出せるのは、やはり僕たち人間が、常に「考える生き物」だということです。
考えるというのは、感情と不可分です。ただ淡々考えるだけというのは、恐らくあり得ません。人は何かしら、感情とともに考えています。喜怒哀楽しかり。もちろん、それ以外の感情でも。
面白がって考えているときもありますし、悲しい気持ちで考えているときもあります。考えるというのは、感情的な行為でもあるんです。そう考えると、もしかしたら感情というものが先に来て、その先に思考(=考える)があるのかもしれません。
カフカはかつてこう言っています。
恐れ、というのは困ったものです。人間の感情の中で、最も厄介かもしれません。僕らは常に、何かを恐れています。それは日々続く幸せが、崩れてしまうことかもしれないし、いま目の前に迫っている借金の返済、ということかもしれません。いずれにしても、感情が動くこと、そしてそれが恐れを引き出すことは、避けることが出来ないのでしょう。
海外ドラマの「グッド・プレイス」で、わるいところのデーモンであるマイケルが、実存的危機に陥ってしまう場面がありました。ちなみに、実存的危機というのは、こういうものですね。
要するに、「死を意識する」ということです。少なくとも「グッド・プレイス」においては、死ぬことのないデーモンは、まったく死を意識せず、自分の存在の不安定さに悩むことはなかったのですが、有るとき、死を意識してしまったことで、「なぜ生きるのか?」「生きる意味はあるのか?」という実存的危機に陥ります。
これぞ、まさに最大の恐れだと言えるでしょう。僕らは実は、少しだけ、心の片隅にずっと、この実存的危機を抱いています。だからこそ、アイデンティティの問題を扱っている作品は、心に響くものがあるのでしょう。僕らは基本的に、不安定です。だから、感情が動いてしまうんです。動いた末に、色んなコトを考え、悩んでしまう。それが実は、僕らの「生活」というものなんです。
「グッド・プレイス」で主人公のエレノアが良いことを言っていました。
そう、漏れ出してくるんです。だからそれを、否定することはできない。僕らは心の片隅に、ほんの少しの悲しみを常に抱いています。大事なのは、それを見つめることです。決して否定はしない。なぜなら、感情を否定すつことはできないからです。感情があるからこそ、僕らは考えている。つまり、生活している。生きている。
こうして、日々を過ごし続けているんです。
恐れ以外にも、もちろん感情はあります。大事なのはそれもまた、自分だと思って、見つめることです。あるいは、発見、という言い方もできるでしょうか。恐れは確かにある。死を意識したことで、僕らは常に実存的危機に陥っている。それでも、喜びもあれば、楽だなって気持ちもある。そういうものも同じように付き合っていけたら、きっと生活は面白くなると思いませんか?
僕であれば、花を飾ること、好きな食器を使うことが、ここ最近の楽しい行為です。そういう行為をしているとき、楽しいって感情が、考えにも影響を及ぼします。
感情があり、思考がある。そして行動していく。この関係が結ぶものが、きっと「生活」と呼ばれるものなんでしょう。
できればこれからも、この結ばれた像を、自分の心地良い形にしていきたいものですね。
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