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洗練についての断章

洗練という言葉について
よく考える
一般的には
褒め言葉であるが
それはなぜかというところから考えよう
「洗練されていますね」
という時
それを伝える相手に対する羨望がある
むしろ羨望を伝える
讃えるための
意味合いが強い
私は洗練されています
とはなかなか言いにくい
客観評価であるし
社会的評価であるから
貧しく、生きることもやっとな人間が洗練された生活をするのは難しいと一般的には考える
つまり 余裕があり 高い立場であること(自分よりも あるいは 自分を謙って)
を認め ある種の恭順の意思を示す時
洗練という言葉は使われる
よって
権力、権威のヒエラルキーが前提にある
運動として捉えると
減らすということが
エネルギーを減らすこと
つまり死に向かうことである
「わび さび」という茶の湯の美学がある
正確には文学的なものであると思うが
千利休は文人ではないが
文学よりむしろ「わび さび」を体現したということに異をとなえる人はあまりいないと思う
茶の湯は生活様式であり、
作法の積み重ねであるが、
中国から伝わってきた時には華美な贅沢さを競うような部分があった茶道を引き算しつくし、ミニマリズムの極地まで「洗練」させたと言っても過言ではないだろう
これも歴史的な事実であるから反論はあまりないと思う
では千利休が初めから貧乏で、権力者のそばにいなかったら
この洗練はなしえたであろうか
おそらく無理だろう
信長秀吉に支え
彼らの権力の下で
日本に存在するあらゆる高価なものをある程度自由にできたことから
その引き算の優雅さが極めたのである
つまり、洗練とはまず過剰があり、そこから極限まで引き算をしていくことで生まれるものなのだ
そして最後は死にいたる
だからこそ美しい
ダンディズムも
ミニマリストも同じである
このように
洗練には死を前提とした
極少へ向かう潔い美しさがある
真っ白な部屋に
一枚のモノクロの写真があれば
人はそこに洗練を感じる(雪舟や長谷川等伯や杉本博司のような)
それはある種 死にいたる何かを表していて 
人はどうしようもなくそれに惹かれる
それは近代の病なのか
人類が元々持っているのかわからないが
(フロイトのタナトスのような)
完全な白
完全な四角形
窓はなく
天井は高い
そこに長くいればうつ病になるかも知らないが
傷ついた若者は
ずっといられるかも知れない
傷という過剰を
癒すため
空間に印をつける
洗練は
死を纏っている
そして
王冠と関係している


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