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木に感謝し木を削る木地師が住む場所。どう生きていきたいのかを自分に問いながら今日を生きる。


長野県南部の山奥。
谷底から山へ向かって上っていった峠の集落に‘’木地師‘’という職人達が住んでいます。
轆轤(ろくろ)という機械に丸い木材をはめ込み、機械を回しながら彫刻刀のようなもので木材をくり抜いていくと、こね鉢やお盆のような木製品が出来上がります。
こうして書くのは簡単ですが、実際は子供の時から親に付いて習った職人がほとんどで、そのくらいとても難しいものなのです。

実は、縁あって‘’木地師の里‘’と呼ばれるこの集落で働いたことがあります。
店主は、木地師歴60年にもなり数々の賞を受賞された木地師で、正式に伝統工芸士として認められていた方です。残念ながらもうだいぶ前に亡くなられましたが、この方の技術を間近で見られたことは幸運だったのだと、年を取るごとに実感しています。

普段はゆるキャラのような雰囲気でしたが、ひとたび轆轤の前に座ると途端に目つきも顔つきも変わり、長年の感覚によって微調整される刃先が見事な曲線を掘り出していくのです。

私がここで買った桜の木の茶筒。
湿気によって蓋がきつかったりゆるかったりしたのですが、「ちょっと貸してごらん」と木地師が轆轤で一回しすると、茶筒に蓋を乗せただけでスーッと落ちていくのです。

重力のみです。


本物の木と本物の技術で作られたこの茶筒は今もうちの戸棚でお茶っ葉を保管してくれていますが、今でも蓋は重力のみで落ちていきます。
それを見るたび、それに触れるたび、感動と愛情を感じるのです。
本物の木地師の技術と木に対する愛情です。

今、現役で活躍されている木地師は昔に比べたらはるかに少ないかもしれませんが、木を切り出し、木に感謝し、木を削り漆を塗る。それを何度も何度も繰り返し長い時間をかけて私達に‘’本物‘’と出会わせてくれる職人達がまだまだいらっしゃいます。



本物を見たり聞いたり食べたりし続けていると、それ以外の物に出会った時に違和感を感じるようになります。
高いけどこれがどうしても欲しい、高いけどどうしてもこれを体験したい。そういう気持ちに従うことは、金額以上の豊かさをもたらしてくれるのだと思います。

子供の時から本物に触れておくことはとても大切だともいいます。
私が子供の頃はバブル期。
物が溢れてそれを手に入れる環境もあった時代です。
その代わり、実態が何なのか分からない魔法の粉や偽物が多く出回り、そんな状況に浮かれて飛びつくような流れだったとも言えます。
きっと、いや確実に、我が家はあの頃から‘’本物‘’とは程遠い物に囲まれ、原材料不明の魔法のインスタント食品も多く摂取してきたに違いありません。

だからといってその時代に生きた親世代を責めても何も始まりません。その新しさが当時の‘’感動‘’だったはずなのです。
それに、きっとそこにあった愛情は親なりの本物の愛情だったに違いないのだから。

だから、だからこそ個人の価値観や判断をしっかりと持ち続けたい。
自分のできる範囲でいい。
自分の出会える範囲でいい。
自分だけの価値基準でいい。

そばに置いて共に年月を重ねていきたいもの、身体に入れてあげたいもの、感性に訴えかけたいもの。
自分で選べる今、自分の選択が我が子にも大きな影響を与えるのだと自覚して毎日を感動して生きていきたい。


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タツノオトシゴ
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