見出し画像

無意識の信頼で成り立っている日常

「信号を守る」

ルールとしては当たり前だけど、皆、無意識に「このルールは守られる」という常識の上で生活している。

でなければ、車の運転も歩道を歩くことも、子どもたちが横断歩道を渡ることも何もできない。

人は人に危害を加えない、と無意識に周囲を信頼しているから、公共の乗り物に乗り、道を歩き、店舗を構えたりそのお店を利用したりする。

そういった類の「無意識の信頼」は日常生活の中に山ほどある。

そして残念ながら、決して少なくない確率でその信頼をぶち壊すような事故や事件が起き被害者や遺族が生まれ、人々の意識とルールが急に変わり「日常」が変わっていく。

そしてその変わった意識とルールは時間の経過と共に少しずつ戻され、結局わずかな意識とルールの変化だけが残っていく。(自分や親しい地人が直接の被害者になっていない一般大衆の話)

それを何度も何度も繰り返して、何年か何十年か経ったときに大きな変化が結果として生まれているのだろう。

駅員や乗務員が防弾チョッキのようなものを着用しているところや、タクシーの運転席が隔離されているのを見れば、過去の忌まわしい事件が思い出される。

それは私が、そうでなかった過去も知っているからで、現状から社会の様々な仕組みを見ている子どもたちからすればその変化後の今がゼロ地点になる。

警備や警戒が少しずつ一つずつ強化されていくであろうこれからの日本。子どもたちに注意喚起をすることと恐怖を植え付けるこのとの狭間で日々悩むことがある。無防備に人を信頼しこの地球を楽しんでいる子どもたちに、私達大人ができることはなんだろうと。

知らない人に付いて行ってはいけないけれど、声をかけてくる人みんなが悪い人でもないし悪いことをしようとしている人でもない。

事実を知り用心を覚えることはとても大切だが、それら全てが「人や社会を信頼するな」というところだけに辿り着いてしまう人間を育てることはしたくないと思っている。

今日も保育園で先生やお友達を、その外の世界をも無意識に信頼して楽しく過ごしている娘の日常と心をどう守ってあげられるのか、瞬間瞬間の「大人力」が試されている気がする。


読んでくださりありがとうございます! 書くことが好きで居続けられることを何より大切にしています。 ぜひよろしくお願いいたします! 書くこと、読むことを楽しめる世の中でありますように。