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教師の仕事は感動的?

教師の毎日には感動がある。そう思われているフシがある。確かに中村雅俊演じる教師にも武田鉄矢演じる教師にも毎回感動があった。でも、それはあくまでドラマでのこと。一般的な社会人の毎日がルーティンワークに明け暮れているように、教師の毎日だって感動も涙もない膨大な子どもたちのやりとりでできている。もっと言うなら、教職なんていうのは子どもたちに、ただ淡々と、普通の、日常的な学校生活をつくっていくことにこそ本質がある。

教師が仕事に感動を求めてしまうと、感動と親和性の高い子どもにばかり目が向いてしまう。やんちゃ、不登校、孤独傾向の子、特別な支援を要する子、学級リーダー、こういう形容のつく子が教師の働きかけに応えてくれたとき、教師は感動しやすい。でも、子どもたちの多くは教師の働きかけに対する応え方もにぶく、普段は授業や特別活動をこなしているようにしか見えない普通の子たちである。よく通知表をつくる段になって書くことがないと言われる子たち、感動を求める教師は毎日の教育活動においてこの子たちを蔑ろにしやすい。教職感動主義にこうした悪弊があることはもっと意識されて良い。

僕らは感動したい生き物である。ちょっとしたことにときめいたり、ちょっとしたことに腹を立てたり、ちょっとだけ距離ができたことを寂しく感じたり、予想外の成果にこのうえないハッピーに包まれたり、そういう毎日を送りたいと思っている。しかし、自分の感動を優先し、自分の感動を期待するあまり、結果的に目立つ子どもたちばかりに目が向くというのでは僕らは「職責を全うしていない」と指摘されても文句は言えない。

目立たない子どもたち、自分から先生に声をかけられない子どもたち、先生になんて関心ないよという素振りを見せる子どもたちだって、学級全体の感動に埋もれるばかりでなく、教師との個人的なやりとりのなかで感動したいと思っているのである。それを意識せぬままにその機会をつくることを怠っているとすれば、それは教師の責任と言われて然るべきである。

教師は自分の視点以上に子どもの視点を大切にしなければならない職業である。なのに自分の視点ばかりに囚われ、自分の思いばかりに拘泥し、自分にしか通じない理屈で自己満足している教師が少なくない。もちろん、他者の視点でものを考えることは難しいことである。しかし、そのり指向性をもつことは容易だ。日常的な心掛け次第である。そしてそうした心掛けをもっていることは必ず子どもたちにも伝わる。人間関係とはそういうものだ。

コツはたった一つだ。自分の世界観に囚われすぎないこと。常に別の見方があることを意識すること。それができるようにならない限り、いま現在の閉塞感を脱し得ない。逆に言えば、この構えを持ちさえすれば、いまの閉塞感は霧が晴れるように消えていく。この境地に立てば、自分の世界観自体が変わっていく。広く、深いものへと転換する。

同じような質のことが教師の世界にはたくさんある。校務分掌を雑務だと感じる傾向はその最たるものだ。教師の仕事の中心は学級づくりや授業づくりである。それはいい。しかし、校務分掌の仕事は雑務ではない。学校運営上欠かせない仕事をみんなで分担しているのが校務分掌である。学級づくりや授業づくりは自分の学級だけを動かす営みだが、校務分掌の仕事は学校全体を動かす営みである。誤解を怖れずに言えば、たった四十人に対する学級づくりや授業づくりよりも全校児童・生徒を対象とする校務分掌の方が優先順位は高い。

教委から求められる各種報告書等の事務仕事にも同様のことが言える。僕らがつくっている報告書の一つ一つが集められ、そのデータが元となって地方公共団体の教育政策が決まる。一部のデータは国家によって全国データとして集計され、国家の文教政策を決めるためのデータとなる。その政策が僕らの仕事として降りてくる。巨視的に見ればそういうサイクルがある。いいかげんにやって良い仕事ではないし、嫌々やるべき仕事でもない。

教師が仕事に感動を求めてはいけないと言っているのではない。求めすぎてはいけないと言っているだけだ。求めすぎると、子どもたちに偏った接し方をしかねない。求めすぎると、僕らが学校運営に参画していることを忘れがちになる。求めすぎると、僕らが教育政策を政策を支える立場にあることに目が向かない。そう言っているだけだ。

コツはたった一つだ。自分の世界観に囚われすぎないこと。仕事をするとき、常にこの仕事はなぜあるのかと考えること。その仕事の目的がわかれば、つまらない仕事のなかにさえ、案外感動的な要素が見つかるしれない。

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