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読めない人

今年度前半に4回予定されていた「国語科授業の真髄を探る」と銘打ったセミナーが終わった。道外からたくさんの模擬授業者立候補があり、かなり広い範囲の若い人たちの模擬授業を見せていただいた。また、道内からもたくさんの立候補者が出て、これまでの提案からの成長が見られた。常に知尋くん、裕章さん、山下くん、宇野さん、大野さん、僕の6人がちゃんと模擬授業提案をし続けたことも大きな特徴だったと思う。

4回のセミナーを通して感じたのは80年代後半以降に生まれた授業者たちが、教材をちゃんと読み込んでいない傾向があること。というよりも、「教材を読む」ということの意味、「教材研究」ということの意味をよくわかっていないのだということ。文章を読むこと以前に指導法を考え始めてしまっているということ。総じて活動はあるのだが、その活動の目的もぶれているし、指導言も曖昧だし、結局はその活動が機能しないという状態に陥ってしまいがちであること。けっこう深刻な問題だと感じた。

教師自身が教材を読んでいないから、発問しても活動させても、子どもたちが自分の経験から思いつき程度のものを発言することが許されてしまう。もちろん発展学習ではそういうこともあるかもしれないが、国語の授業は道徳の授業ではない。教材の言葉を論拠に発言しなければ国語じゃない。発問も活動も子どもたちの目が本文に向かうように展開されなければならない。要するに「地上戦」を展開しなければならない。教材本文という「地」を這うような授業である。ところが、若い人たちの授業は教材から離れて「空中線」が展開されてしまう。それでよしとしてしまう。「空中戦」には派手さはあるが、なんでもありのアナーキーな授業に陥りやすい。

一時、読者論ばやりで「空中戦」傾向が80年代にもあったけれど、現在はあの頃に比べてもっともっと深刻になっている。臨教審以来の「新学力観」「ゆとり教育」に伴う「指導事項の精選」「指導事項の厳選」「詳細な読解の回避」の機運の中で育った教師たちは、「読む」ということ自体を経験せずに教師になってしまったのだろう。やはり、ちょっと深刻だなあ…と感じずにはいられなかった。「勉強不足」とか「経験不足」とかいったこととは別次元の問題があるように思う。

僕には、何と言うのだろう、教材への敬意とか、作品への敬意とか、作者や筆者への敬意とか、そうした僕らが無意識のうちに抱いている「文章が書かれることに対する敬意」「言葉が紡がれていることへの敬意」みたいなものが失われてきているように感じられた。

ただ、じゃあベテランなら読めているのかというとそうでもない。別に国語を専門としない人ならいいのだけれど、「私は国語の専門です」と言っている有名講師にも「読めない人」はいる。そんなの本読みゃわかる。関西のある有名講師も、筑波のある有名講師も、僕には「読めない人」に見える。

「読める」ということには完成形があるわけではない。だから「読める-読めない」はあくまで相対的なものだ。でも、国語を専門と自負するなら最低限ここでしょというラインはある。僕の感覚ではそのラインを越えてる人が現場人では両手以内くらいしか浮かばない。要するにそういう世の中になっているんだということ。そういう意味では、若手教師が「読めない」のは若手教師のせいばかりでもない。

僕の言い分を「古い」と感じる人がいるかもしれない。でも、これは「古い」とか「新しい」の話ではない。国語科という教科の根幹の話である。こうした根幹を不要とするならば、国語科という教科自体を遺物として解体するしかない。

まあ、国は国語科を解体しようとしてるよね。所謂「論理国語」はそれが表に出てきたその第一歩だろう。駐車場の契約書や生徒会規約をいくら読んでも、駐車場の契約書も生徒会規約も読めるようにはならない。全国学テの国語Bの問題をいくら練習しても国語Bの問題を解く以外には役に立たないのと同じだ。「論理国語」の問題点は漱石や芥川をエリート層が読む経験をしなくなるのが問題なのではない。「論理国語」をいくらやっても言葉による論理性なんて身につかないというわかりきっている方向性に舵を切ったことが問題なのだ。「論理」を「論理」だけに閉じ込めてしまっては「論理性」など身につかない。

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