情熱や熱中は美徳?
世のなかに二種類の人間がいる。一方は雲の向こう側を見つめている人。他方は足許のぬかるみばかりを気にしている人。足許ばかり気にしていると人間が小さくなるけれど、雲の向こう側ばかりを見つめても足許がおぼつかない。常に彼岸に思いを馳せながらも、基本的には此岸に神経を注ぐというのがあるべき姿なのだろうとは思う。
教師には情熱が不可欠とされる。子どもも保護者も熱中先生を求める。しかし、長年教師をやっていると、あまりにも空回りする情熱先生や、あまりにも視野の狭い熱中先生を何人も見てきたという実感がある。結果、僕は彼らのせいで、情熱や熱中はほんとうに美徳なのだろうか……とさえ考えるようになってしまった。情熱先生や熱中先生の特徴は、なんといってもその情熱や熱中が外から見ていても感じられるという点にある。つまり、自分の心のなかで情熱を燃やすのではなく、周りから見ていても熱気がムンムンと感じられるのである。考えてみるとそれは道理である。外から見えなければ「情熱がある」と評価されないし、「熱中先生」とも呼ばれないのだから。
しかし、外から見えるほどの「情熱」や「熱中」は、その教師の一つのことに対するあまりにも大きなこだわりから生まれる。学級づくりであろうと、生徒指導であろうと、部活動であろうと、それは変わらない。「子どもたちのために」というテーゼのもと、すべてを投げ出して情熱を注ぎ熱中する……。それが情熱先生、熱中先生の一般的な姿である。新指導要領の具現のために情熱を傾ける先生とか、教育界のためにと授業研究に情熱を傾ける先生とか、勤務校の教育課程をよりよいものにしようと情熱を傾ける先生とかが、「熱中先生」の称号を与えられるのを見たことがない。要するに、「情熱」や「熱中」とは、子どもたちに対して直接的に働きかける教育活動に熱気が感じられたときにのみ与えられる称号なのである。とすれば、情熱先生や熱中先生とは、冒頭に挙げたふた通りの人々のなかで「足許のぬかるみばかりを気にしている人」にしか与えられない称号であることを意味しないか。雲の向こう側を見つめている人、つまりは物事に見通しをもって対処する人や物事を巨視的に見て判断する人には与えられづらい称号であるということだ。僕はこれだけでも、情熱や熱中が真に美徳であるかと会議せざるを得ない。
しかし、僕が情熱先生や熱中先生を悪徳とまでは言わないまでも美徳ではないと断言するのは、彼らが広い視野をもたず、そうと気づかぬままに周りに迷惑をかけることが多いからである。
一つの学年に学級が五つあったとする。一組から五組まであるわけだ。そのうちのひとクラス、例えば三組の担任が熱中先生だったとしよう。朝・帰りのホームルームでは先生がギターをつま弾く。それに合わせて子どもたちが歌う。やんちゃな子に対しては人としての生き方を語り、不登校傾向を示す子には学校がいかに楽しいかを語る。学級内での揉め事は、担任が熱意をもってすべて解決する。生徒指導では自分の学級の子どもの側に立って、ときには他学級や他学年の子どもたちを責める。行事では必ず集団で某を創り上げることこそが至上であるとし、その価値を疑問を持たずに信じ込んでいる。「子どもたちのため」ならば真夜中の電話連絡にも対応し、深夜の残業も厭わない。それが三組だ。
こんな三組を横目に見ながら、二組の担任は大学を出たばかりの新卒教師だったとする。四組の担任は我が子がまだ小さくて、それでも教職が大好きで、我が子を保育所に送り迎えをしながら教壇に立っていたとする。もちろんこの二人は熱中先生のような動き方はできない。新卒さんは人生の妙を語る言葉を持たず、学級内の揉め事を解決することもできない。お母さん先生は勤務時間ギリギリに出勤し、勤務時間終了とともに退勤せざるを得ない。二人とも周りに迷惑をかけないようにと一生懸命にやっているのだが、なかなか事態は好転しない。この好転しないことに、熱中先生の三組は影響を与えていないだろうか。二組や三組の子どもたちに、必要以上に「隣の芝生」を青く見せてはいないだろうか。「どうしてうちの担任は熱中先生のようにやってくれないのか」と子どもたちに呟かせ、「ウチのクラスはハズレだわ」と保護者たちに愚痴らせてはいないか。そして、その構造に熱中先生はまったく気づいていないのではあるまいか。
学級経営は相対的に評価される。一つのクラスだけが幸せで、その他はそのクラスの成功の裏で悪影響を感受せざるを得ない。そういう構造は、学級経営を超えて学年経営や学校経営の視点に至ったとき、初めて見えてくる。熱中先生が新卒先生やお母さん先生に合わせるべきだと逝っているのではない。熱中先生は視野を広くもって、二組や三組の子をも幸せにする視点をもたねばならないのではないかと言っているだけである。
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