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四十代は先が見えてくる

1 社会の中心に軸足を置くか、社会の周辺で適当に楽しむか

四十代は先が見えてくる。

自分はここまでだなという〈仕事上の限界値〉が意識されるようになる。三十代までのようにただ子どもたちとあれこれ試行錯誤するのが楽しいとだけは思っていられない。出世についても良くてこのあたり、悪ければこのあたりというのが見えてくる。

教師生活は約四十年。前半の二十年を往路、後半の二十年を復路と考えれば、四十代前半あたりが往路と復路の折り返し地点である。しかも復路の二十年は現実的にさまざまな規制がある。管理職試験を受ければ管理職の言うことは絶対になるし、若手教師やメンタル的に弱い教師のフォローに時間と労力を費やさねばならないということも出てくる。結局、教師生活の復路は教師生活の往路でどれだけスキルや人間的魅力を貯蓄し得たかで決まると言っても過言ではない。多くの教師にとって教師生活の復路は多かれ少なかれ、往路の貯金を切り崩しながら、なんとかその場その場でバランスを取っていくという仕事の仕方になるのが現実だ。それなりの貯蓄があればバランス感覚の発揮、貯蓄がなければ辻褄合わせ、それが教師生活の復路である。
そんな復路の生き方において、世の中にはふた通りの過ごし方がある。

一つは、社会の中心にしっかりと軸足を据えて、つまりは仕事上の組織の中にしっかりと身を置いて、職務を機能させたり降りかかった火の粉を振り払ったりしながら過ごす生き方である。なにか不祥事があったときに記者会見で謝罪したり弁明したりしている教育行政の人たちや校長を見ていると、組織に軸足を置くことは良いこともあるがあのような責任もあるということを痛感させられる。

もう一つは、社会の端っこの方で適度な適当さをもって楽しく過ごす生き方だ。出世も考えなければ金儲けも考えない。家族が大事、趣味が大事、自分自身が大事などなど、なにを大事にするかは人それぞれだが、仕事や組織に自分を掠め取られることを忌避する人たちである。所属する組織を優先順位の一位に置かない人たちと言っても良い。ちなみに僕は既に二十代の頃から、組織に掠め取られることだけはいやだと思ってきたタチで、明らかに後者の人生を歩んでいる。

四十代の半ばから後半にかけて、人は前者と後者のどちらの道を選ぶのかを決めなくてはならない。どっちつかずだとどちらも中途半端になる。揺れ動くことこそが人の本質ではあるが、中心で生きていくならちゃんとその覚悟をもって生きる方が自分の人生を肯定できるはずだし、周辺で楽しむことを選ぶなら迷いなくちゃんと楽しんだ方が自らの人生を充実させられるはずである。

どちらを選ぶかは人それぞれだ。趣味・嗜好の範疇である。ただ、本書を買うような読者なら、僕や多賀さんのような実践研究生活のようなものに興味を抱いている方々が多いのだろうと想像するので、一つだけ可能性として伝えておきたいことがある。

読者諸氏は本書のライターの一人である多賀一郎氏はもちろんご存知だろう。そしておそらく、野中信行氏もご存知だろうと思う。実は、このおふた方が処女作を上梓したのは五十代の半ばである。いまやおふた方ともさまざまな学習会やセミナー、行政の研修講座や学校の公開研究会の講師として引っ張りだこだが、五十代半ばまでは少なくとも全国的には無名だった。僕もいまでこそおふた方と親しくお付き合いさせていただいているが、十年前にはおふた方とも存じ上げなかった。

僕が言いたいのは、社会の中心で生きるにはさまざまな段階で年齢制限があり定年もあるが、社会の周辺側で楽しむ自由な生き方の方には年齢制限も定年もないのだということである。もちろん、だから中心ではなく周辺を選ぶべきだと言っているわけではない。ただ僕は多賀さんも野中さんもご自身の人生をまったく後悔していないように思えるものだから、こうしたことが人生の選択のヒントの一つになるだろうと思って申し上げているだけだ。そもそも、社会の中心に軸足を置くタイプの教師たちは、だれ一人本書を手に取らないだろう。わざわざ僕ごときがそういう人たちになにかを申し上げる必要はないわけだ(笑)。

2 無意識に情報に制限をかけるか、新しい情報を得て思考を活性化するか

四十代は先が見えてくる。

人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えていく。なにを当たり前のことを…と思われる向きもあるだろうが、人は年齢を重ねるとこの当然の原理を忘れてしまう。城重幸やロスジェネ論者に見られるような「若者被害者論」が出て、初めて年長者は「うるせえなあ」「めんどくせえなあ」と重い腰を上げ始める。この国に巣くうメンタリティの最悪の構図の一つである。

人は年上の人間を尊重し年下の人間をなめてかかる。教師ばかりでなく、子どもたちを見ていてもその傾向があるから、これはおそらく世代を超えた普遍的な構造である。しかし、必ずしも年長者が後続の人たちよりも優れているわけではない。これも同じように普遍的な構造である。どの世代にも東大生がいて、どの世代からも総理大臣が出るように、どの世代にも優秀な教師は出現するし、どの世代にも優秀でない教師は存在する。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の音楽好きだったとしよう。中学生・高校生の頃はなにか新しいミュージシャンがいないかとアンテナを張り巡らしていたはずだ。しかし、三十代になり四十代になったいま、青春期に好きだったミュージシャンの新譜は追うものの、若い世代のミュージシャンを追うことはもはやない。そんなふうになっていないだろうか。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の小説好きだったとしよう。高校・大学、二十代あたりまでは芥川賞作品は必ず目を通すことにしていた。でも、三十代になった頃からどうも芥川賞作品に共感できないことが多くなってきた。そんなふうになってはいないか。具体的な例を挙げるなら、あたなは二○○四年に芥川賞を獲った綿谷りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を本気で読んだだろうか。僕は綿谷りさの『インストール』という作品を文学史に残る名作だと考えている。

もう一つ例を挙げよう。宮台真司という社会学者がいる。九○年代に大活躍した、読者に社会学という学問にフィールドワークのイメージを植え付けた社会学者だ。『制服少女たちの選択』(講談社)を初めとする著作で援助交際ブームを巻き起こしたあの社会学者である。オウム真理教事件を契機に時代の機運を分析した『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)は時代のキーワードにもなった。現在の四十代は割と夢中になって読んだ方が多いはずである。しかし、鈴木謙介はどうだろうか。二○○五年に三十そこそこで『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)という傑作を著した社会学者だ。古市憲寿はどうだろう。二○一一年に『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)で各社の成人の日の社説を批判し、二○一二年の成人の日の社説の論調を変えさせてしまった気鋭である。彼は一九八五年生まれだから、『絶望の国の…』は二十代半ばの著作である。僕は『カーニヴァル化する社会』も『絶望の国の幸福な若者たち』も、少なくとも出版時においては教師にとっては必読書であったと確信する。

そろそろ僕の言いたいことがおわかりだろうか。確かに人は年齢を重ねるとともに年上が減り年下が増える。しかし、年長者にはそれとともに目を通す論者の数も減っていく傾向があるのだ。僕ら教師は時代の風を胸いっぱいに浴びている子どもたちを毎日相手にしているにもかかわらず、その時代の風を受けて登場した若手論者の見解に興味を抱かない傾向があるのだ。これは果たして、より良い教師の姿勢と言えるだろうか。

教師は若い世代の論者からこそ意識的に学ぶべき職業なのである。次々に現れる後続世代から学び続けなければ、実は子ども理解などできないのだ。同じような世代の論者、自分よりも年上の論者の著作ばかりを読んで「なるほどいまはそういう時代だ」とほくそ笑む視線にはかなりのバイアスがかかっていると自覚しなければならない。四十代になると人はどんどん視野が狭くなる。その自覚をもつことこそが必要なのだ。四十代になって先が見えてきているように思うのは、決して年齢が上がったことばかりが原因なのではない。無意識のうちに情報に制限をかけ、若いときのような思考を活性化させる新たな情報に触れていないことが大きな原因なのである。

3 自分の生きる時代だけを想定するか、その先まで想像できるか

四十代は先が見えてくる。

しかし、その見えてきている「先」とは、いったいどのくらい先のことなのだろうか。

現在、若い世代(さすがに二十代はあまりいないが)の著作が次々に刊行されている。大型書店の教育書コーナーに行くと若い世代の著作であふれている。僕もそのなかの何割かには目を通しているが、正直、玉石混交の感は否めない。

しかし、文学や芸術、学術とは異なり、教育実践者の論理には「時代を語る」という視点は欠落しているのが一般的である。学校教育における時代認識というのは教育史と密接に関係しており、若い世代(これは四十代も含めて)には書きにくいという特徴がある。その意味では、若い世代の書き手から年長者が何かを学ぼうとする場合、教育書においては目的的な観点が必要になる。

前節において、僕は「人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増える」と述べたが、実は年齢を重ねることにはもう一つ、見過ごしてならない大きな特徴がある。それは年齢を重ねるとともに未来が減って過去が多くなるということだ。これまたなにを当然のことを…と思われるかもしれない。しかし、この視点はものを考えるときにはかなり有効な視点なのである。「未来」という言葉を使うとき、四十代は教育を論じるなら今後二十年を、人生を論じるなら今後四十年をしか考えない。しかし、二十代なら教育を論じるなら今後四十年を、人生を論じるなら今後六十年を想定するのだ。この違いには計り知れないものがある。

例えば、二○六○年という年はここ五年ほど、子どもの将来を論じるうえで一つの鍵として機能する年になっている。国立社会保障・人口問題研究所が今後の出生率の変容予測をもとに二○六○年までの人口分布の予測を発表したことによる。それを見ると、二○六○年の日本の人口は八六○○万人、うち三五○○万人が六十五歳以上の高齢者になると推計されている。現在は二○一○年のデータで総人口が一億二八○五万六千人、高齢者が二九四八万四千人ですから、パーセンテージ比較すると高齢者は現在の二三・○パーセントから四○・七パーセントまで上昇するわけだ。ちなみに二○六○年の六十五歳は二○一五年現在二十歳の人たちである。

僕は一九六六年生まれだから、二○六○年の日本について我が事として真剣に考えようとは思わない。自分がこの年まで生きている可能性はゼロである。しかし、現在の二十代、三十代にとってはまだまだ生きている可能性の高い年だ。自分が老齢になったとき、この国はどんなカタチをしているのか、少しでも社会に興味を抱いている人ならばそのくらいのことは考えるはずである。僕だって二○五○年なら少しは考えなくはない。

さて、若い世代の著作を読んでまず注目すべきは、その世代の人たちがこれからの学校教育の在り方を、或いは子どもたちの将来像をどのように見ているかということである。僕は本屋に行ったとき、立ち読みしながらこの学校教育の将来像、子どもたちの未来像を論述の軸に据えている若手の著作は買うことにしている。それがどれだけ奇想天外であったとしても、少なくとも本を著す程度の教師が自分の持てる能力を駆使して描いた未来像であるわけだから、それは「読む価値があり」と判断する。そこには僕の世代では思いもつかないような予測が述べられているかもしれないからだ。しかし、現在の実践のなかからちょっとした思いつきを並べているに過ぎないと見れば、そこに千数百円を支払うことは惜しむ。それが買うか買わないかの判断基準だ。

要するに僕は、若い世代の「ものの見方」を学ぼうとしているのであって、教育手法を学ぼうとは思っていないわけだ。しかし、新世代の「ものの見方」を学ぶことを、僕は旧世代(自分よりも年長の論者たち)の「ものの見方」を学ぶことよりも優先順位としては高く位置づけている。それは前節で述べたのと同じように、その世代よりも更に若い世代を相手に仕事をしている身としては当然ことだと考えているからなのである。

先が見えてきたなと嘆いている四十代諸君に敢えて言おう。先が見えてきたなどと思うのはなにも考えていないからなのだ。あなたは単なる勉強不足なのだ。反省しなさい(笑)。

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