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さぼる人ほど優しい?

人に優しく──だれもがそう思う。

他人を肯定的に見たい──だれもがそう思う。

しかし、なかなかできることではない。ついつい他人を批判してしまう。ダメだなあと思いながら反省する。ときには軋轢に落ち込む。僕らはいつもそんなことを繰り返している。

他人を批判する悪癖はどこから生まれるか。それはおそらく、自分のやっていることは正しい、自分たちのやっていることは確かに正しい、間違っているはずがない、そういう揺るぎない自己肯定から生まれる。自分を正しいと肯定しているから、他人の小さな正しくなさが目につく。因果関係はそういうことだ。

例えば、自分にも面倒な仕事から逃げたい、難しい仕事は避けたいという気持ちが確かにある。でも逃げたり避けたりするのは正しい行いではないからと頑張って取り組む。こういう心持ちをもつ人は、面倒な仕事からちょっとだけ仕事から逃げたり困難な仕事をちょっとだけ避けたりした人に必要以上に怒りを覚える。自分は自分を殺してちゃんとやったのにあの人はなんなのだ!というわけである。自分が頑張っていれば頑張っているほど、延いては自分が正しいと思えていればいるほど、人は他人の小さな不正を許容できなくなる。この国では、自分は毎日遅くまで残業しているのに、毎日定時に退勤するあの人はなんなのだ!というのがその代表である。

実は、人に優しく接することができるようになるにはコツがある。僕の経験から言って間違いなく効果的な方法である。それはごくごく簡単に言えば、「頑張らないこと」だ。頑張らないことと言っては言い過ぎかもしれない。「頑張りすぎないこと」と言う方が的確かもしれない。

だれもが自分のなかにさぼりたいという気持ちがある。でも、日本人はなかなかさぼれない。さぼることを得意としていない。いざ「さぼろう」と決意しても、なかなかうまくさぼれない。長年の勤勉生活でもはや実直とか誠実とかがDNAに組み込まれてしまった。

でも、たまに思い切ってさぼってみるのだ。五つの仕事があったら、二つくらいは手を抜いてみる。休みが欲しいなら、思い切って年に五日くらいは用事もないのに年休を取ってみる。きっと自分のなかに革命的な変化が起きるはずだ。自分はすべてに手を抜かないから他人の手抜き仕事に腹が立つのである。自分は休まずに働き続けているから休みを取る人間に腹を立てるのである。自分が適度にさぼる人間になってしまえば、他人の適度のさぼりについては「お互い様だな…」という気持ちになる。他人の明かな手抜き仕事に接しても、「ははは…。ちょっと気分が乗らなかったんだな。オレにもそういうときおるもんな。しゃーねえ。ちょっくらフォローしてやっか。」ってな気持ちになれる。だって「お互い様」だもの。他人の自習監督に入ったり補講に入ったりするのも「お互い様」になる。「お互い様」だからとイライラしないで他人の教室に入ると、意外にも自分になかった発想がそのクラスの子どもたちや教室環境のつくり方から学べたりして……。おやおや勉強になっちまった……なんてことも少なくない。イライラしながらやってると、こういう意外な発見には出逢えないものである。

数年前、親父が脳梗塞で倒れたことがある。半身に麻痺が残り、退院はしたけれど生活はままならない。年老いたお袋も少しだけ認知症がかってきていてうまく介護が成り立たない。共働きの我が家では両親を引き取ることもできない。そのうち親父の体調が悪化し出す。入退院を繰り返しながら、結局、両親共に施設に入ったのが数年後。その間、僕の仕事はぼろぼろである。とにかく、いつ病院や施設から呼び出されるかわからない。そんな生活が続いた。あるとき、僕はもう両親を優先して休まなければならないときは休み、早退しなければならないときは早退することにした。一週間、午前中に授業だけして午後はまるまんまいない、なんてこともあった。

いま、親父はもうこの世にいない。残念ながら親父は他界してしまったけれど、僕にとってこの経験、つまり職場の同僚たちに大きな子迷惑をかけながらも親父をみとることができたという経験はとても大きいものになった。それ以来、家庭の事情によってやむを得ず欠勤したり遅刻早退したりする同僚に優しくなれるようになったのだ。職員室には介護が必要な親をもつ先生、小さい子どもの保育所の送り迎えをしている先生、自分の体調が悪くて病院通いをしている先生……さまざまな先生がいる。みんな働けるものなら働きたいのに、心ならずも欠勤しているのである。

「いいから休みな。仕事はみんなでなんとかするから。みんなそういう時期があるんだから。」

僕はいま、口癖のように周りにそう言うようになっている。

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