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<エッセイ> 文集を編む

住んでいる町の教育委員会の依頼で、『町民文芸第49号』の発刊に向け、その編集委員の末席を汚させて頂くことになった。 

これまで15年間、帯広市内の文章教室でS先生のご指導を仰ぎながら勉強させていただき、自ら書いた短編小説の幾つかが幸運にも地元の新聞の郷土作家アンソロジーという公募で入選し、紙上掲載されたことがあったからこそ、そうしたお声がかかったのだと、光栄に思うと共に身が引き締まる思いがする。

11月にその最初の会議があり、執筆者37名、作品数52編に及ぶ分厚い原稿コピーを手渡された。私の担当部分は紀行文、記録分、郷土史考、随筆、そして小説で、作品数は39編になり、他の編集委員の方々と共同で校正を行ってゆく。

町民文芸は、総ページ数140、印刷部数250という結構なボリュームの文集で、町の予算で作られる。編集委員は私を含めて六名、皆ボランティアである。すでに著書を二冊出されている方から、十勝において俳句・短歌の重鎮と目されている女性、そして画家や茶道の先生など、以前から町内で文化的な活動を続けて来られた方々だ。

隣町の帯広市民文藝のように、作品が審査されて掲載作品が決まるのではなく、わが町の町民文芸は政治・宗教色の強いもの以外、応募作品は原則すべて載せることが条件となっている。
                                                                                                                                 だからとても文章が上手な人の作品から、初めて随筆を書いたのではと思わせるような誤字脱字の多い原稿や、まるで息切れしながら登山をしている様を思わせる、やたらと読点の多い作品まで、実に様々だ。

 渡された原稿の束を持ち帰り、3週間のうちにそれらすべてに目を通し、校正箇所に印をつけ、付箋を貼る作業を続けた。そして12月初旬にそれを持ち寄って約6時間の確認作業を行い、また2週間後に上がって来た第二稿を皆でチェック。年が明けて1月の中旬に4回目の会議で第三稿を校正し、発刊は2月の初旬となる。

 ところで、この町は人口1万6千人ほどの小さな町だから、原稿を寄せる人達の中には知り合いも複数いる。

「ああ、あの方はこんなことを考えておられるんだ」とか、「へえ、そんなことがあったのか」と、それら知人の作品を読み、その人に対しての印象を新たにするのは楽しいことでもある。

今回編集作業をしていて一番印象に残ったのは、Kさんという方が書かれたこの町の郷土史である。実に多くの文献や資料をもとに書かれた緻密な作品で、自分たちが暮らす町の歴史を勉強することができた。

K氏の著作によると、明治の時代からこの地に入植してきた屯田兵とその子孫を除いて、今の町の基盤を支えている農家の皆さんの殆どが、戦後になってからこの地に移住し、原野を開拓してきた人々だという事を知った。その多くが本州各地で戦災に遭い、家や財産を失い、そうした人々を対象に政府が行った「北海道への農業従事者移住促進事業」によってこの地に入ってきた人々なのだという。

当時東京や大阪で行われた、移住希望者と政府の役人との会話の記録が事細かに書かれている。見知らぬ酷寒の地へ移住する者の不安がそれらの会話の節々に出てきて、実に臨場感がある。

他にも80代後半の女性が書かれた、飼っていた馬との触れあいのエッセイには心を打たれた。とある雪の日に、市街地の学校で映画の上映会があり、それをどうしても見たいのだが、忙しくて一緒に行けない親の代わりに十歳の自分が妹と弟を馬橇に乗せ、自ら馬を操って不安に苛まれながらもやっと上映会に辿り着けた話など、当時の子供たちの逞しさや馬への愛情に胸が熱くなる。

ふとしたきっかけで依頼を受けた編集委員の仕事だが、思ってもいなかった感覚が自分を包み込んでいるのを感じる。それは、この町に住む人々が書いた文集を編むという作業は、単にそれを発刊するためだけの仕事ではいのだということだ。

殆どが不慣れな文章であり、校正箇所もかなり多い原稿用紙たちに向かっていると、文章の端正さや技巧では測れない、どこかごつごつとした熱に満ちた心や生き様を感じてくるのである。そして自分が住む町の長い歴史を客観的に知り、ここで暮らす人々の生活がどんな変遷を辿って来たのか、時代と共に何を感じて生きて来たのかを文字の向こうに見ることができる。

町民文芸の編集という仕事は、その作業を通して、ここで暮らす自分自身がこれからどんな立ち位置で、どうやって生きて行くかという心積りをも、そっと自ら編み込んで行く作業のような気がしている。

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