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家族が老いていく時に

 義父・キヨシ92歳、近頃ボケが進んでいる。もともと気立て優しく気性は穏やか、真面目で仕事熱心、手先が器用で工夫上手、料理から洗濯、掃除など家事全般をこなす人だった。3年前、自宅近所を自転車で走行中、ふらついて転んで道路脇のブロックベイで頭部を打ち、硬膜下血腫を発症して外科手術をした。どうもこの事故を境に変化が進んだように思う。

「あの事故さえなければ」と夫も言う。

背は低いが骨格はがっしりしている義父キヨシ。とはいえ90を越えた体である。筋力、とくに脚力の衰えは進み、補助がなければ歩行はおぼつかない。

「足は健康寿命の要」とよく言うが、まさにその通り、足が弱ると下から上へと全身が衰えていく。現在キヨシは寝たきりではないが、油断すればあっという間にベッド生活になりかねない。

 認知機能障害の症状や進み方には個人差があるが、キヨシの場合は比較的緩やかで、本人に自覚があるのが特徴的だ。

 義父キヨシと義母トクコは毎週火曜と土曜にデイサービスへ行く。キヨシはそのスケジュールを忘れてしまうので、毎日のように確認する。行くのは何曜日で、何時に行って、その手段はどうするのか、何を持っていけばいいのか、帰宅は何時になるのか。マメな性格。

 1度目の電話でもろもろ説明すれば納得してくれて電話を切るのだが、切った途端に再びベルが鳴る。忍耐強い夫も仕事中に3度4度となると「この話はもう終わり!終わりにしよう!」と声を荒げ、その後の電話はスルー。

 また時には不安な声で「あのさぁ、私はここにこの先もいてもいいのかな?」というキヨシ。電話の向こうでトクコが叫ぶ。「あんた、なに言ってんの!ここは自分の家でしょうが、いいも悪いもあるものか!」

 絡んだ糸を解くように、私はキヨシの思いを探っていく。

「パパ、今どこにいるの?」

「ここ、たぶん私の家なんだがね…」

「うん、パパの家だよね、今までずっとそこに住んでたおうちだよね、これからも住むよ」

「でも、いいのかな?」

「誰かダメだって?」

「いやそういうわけじゃないけど」

「そのおうちで一番偉いのはパパなんだから、パパが住みたければずっと住んでいいに決まってるよ」

「そうなの? なんか私、最近よくわかんなくなってしまって」

 ここまで話すと、この話題で電話が繰り返しかかってくることはない。数日後、もしくは半日後に同じ会話を繰り返すこともあるにはあるが。

 失われていく記憶、思い出せない過去、現在、未来…。考えれば考えるほど不安に包まれ、いてもたってもいられなくなり、電話のボタンを押すのだろう。

 どんなに不安で恐ろしいだろう。つかもうとしても手の中からするりと逃げていく記憶。まるで霞のような、姿形がないだけに捉えようのないもどかしさ。どうか、義父の不安が、悲しみに変わらないよう願うばかりだ。

「お父さんは忘れてしまってもいいんだよ、代わりに僕が覚えているから」と夫。

 そう、みんながあなたを覚えています。だから大丈夫、安心してボケてください、とは言えないけれど。


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