「写真で何かを伝えたいすべての人たちへ」を読んだり、ちょっと気になっているすべての人たちへ
別所さんを知ったのは電車の中で会社の後輩から「hirotoさん写真撮られるんですよね?僕この写真家の人がすごく好きで・・・」と教えてもらったことがきっかけだった。ちなみに彼はスポーツ観戦が趣味、写真は撮らない。
そのとき目にしたのはあの千里川の飛行機の写真だった。即TwitterをフォローしてTLを眺めた時の憧れと羨望のないまぜの感情を覚えている。
それから幾星霜。写真と文章というキーワードに魅かれてサロンにも入ったので展示なども経てご本人直接お話しさせていただくことも時々でてきた。
そんな別所さんが単著を出す、ということで早速手にとらせてもらった。
少し大まかにこの本の概要と構造を伝えると、
「はじめに」という前置きから始まり、全30章の幅広い写真に関するテーマを扱う言わば本文とそれとは別にGallery01~04という形で別所氏の写真とそれ絡んだエピソードが間に挟まれる形で進む。
写真の撮り方的な内容は敢えてオミットされており、本文は哲学・写真論・AI・SNSなど多数のトピックに触れながら、現代という文脈における写真とそれを撮る意味について展開されていく。その中でGalleryの写真は本文側のテーマに相互補完的に時々接続される。また、その際にボリュームとしては控えめにコントロールされた形で別所氏の「実体験」もそのテーマに即して語られる作りになっている。
読了してのわたしの印象を誤解を恐れず言えば、別所氏の痛みと再生の物語を写真論・表現論の中に巧みに織り込んだ一冊と言ってよいのではないかと思う。(もちろん、シンプルに写真論・表現論としてのみ読んだとしても十ニ分に成立しているのがミソで、本来は正しい読み方だとは思う。)
こう捉えたのは、本文とGallery/別所氏の写真作品が接続されたときの描写されるストーリーはAround the Lakeを除けば、著者が受けた傷と痛みに由来する、という共通点があるからだ。飛行機は叔父と、琵琶湖の花火は両親と、桜は転校先のクラスメイトと、そして終章では大きな喪失と。
何より自己療養の試みは氏の敬愛する村上春樹のテーマでもある。
※桜についてのより詳細はこちらでも↓
「おわりに」を読み終わった瞬間、琵琶湖疎水が京都に注ぎ込まれるように涙腺から水分が流れ落ちたのは私だけではないだろう。翌日から旅行だというのに頭の中で内容を何度も反芻し続けたところ、私にとっては自己療養の試み、という表現がしっくりきた。あれ?私が読んでいたのは一体何だったのだっけ?と混乱すらしていた気がする。
また、「除けば」と上述したAround the lakeのテーマ設定の出発点については自身でも不可抗力的、後付け的であったことを曝け出す内省的なアプローチで認めることからスタートしているからこそ、その後の3つの傷の話と「おわりに」が心の真なる思いから発露したものであることが逆説的に強化されているようにも思えるのだ。
傷、と痛みについて少し触れよう。
ここで言う傷はそれを隔てて加害者と被害者に分けるものではない、傷とは自己の存在であり、それをつけた他者の存在の証明でもある。傷には痛みが伴い、痛みは癒しを求める。痛みは喜びと同様に生きていることそのものだ。痛みによって人は自己の存在を認識する。
端的に言えば傷と痛みは自らの実存と他人の存在を同時に示すものでもある。
傷ついたことを開示する、という行為についてどうしても構えてしまうのは昨今それを行う際に、攻撃的被害者ポジションを取る人々がSNSで悪目立ちしやすいからかもしれない。「こんなことをされて傷ついた!」「酷いことをされた!」と日々見かけるポストをきっかけに、本書で言うところの正義の棍棒が振り下ろされ、本人の手を離れて思わぬ方向へ暴走していく。
一方この本の中ではそんな喧噪からは大きく距離を置きつつ、別所氏は傷の自己開示と振り返りを本論に織り込みながら、作品に昇華されたものとして丁寧に語っていく。
「僕は正しく傷つくべきだった」
村上春樹原作の映画「ドライブ・マイ・カー」で演じる主人公はそう結論を出す。頑なに自分で運転していた愛車を他人の運転に委ねざるを得ない状況になり、主人公は初めて自分の傷と向き合うことになる。
一時期、後進に道を譲り自らは表現の一線を退こうとしていた別所氏の姿が運転を他人に委ねたドライブ・マイ・カーの主人公の姿と重なると言ったら言い過ぎだろうか?
一度表現者というドライバーのポジションから離れて考えるプロセスがあったから、改めて「自分にとっての表現とはなんだったのか?」という立脚点から今回の「迷う」という方向性にたどり着いたようにも感じるのだ。
もしかすると氏の愛車の自動運転を使っていたかもしれないけれど。
正しさが溢れる時代だというのに、現代の正しく傷つくことの難しさと言ったらない。正しく傷つくと言うのはその痛みに対して迷ってないふりをせず、ただ迷うこと、痛むことだ。ゆっくりとそこに自分なりのベクトルを付加することで表現をする人は行き場のないエネルギーの方向づけをし、作品へと吹き込み、また語り直していけるようになる。
本著読み進めるにつれて、
何かを表現したい全ての人たちへ
というタイトルは
傷つき迷った全ての人たちへ
と読み換えてもよいのではないか、という印象すら抱き始めた。
読了の翌日から長崎にきたが遠藤周作も斯く記している。
迷うことの肯定というテーマ自体がまさに表現者にとっての福音であることを別所氏の著書では伝えようとしている。
生きるというのは一見段階的な獲得の物語に見えてその実、どこかで必ず喪失の物語に逆転ないしは接続するからだ。その時に迷わずいられる人は少ない。
この喪失からくる傷と迷いに抗う数少ない手段の一つが記録をイメージとして残すことができる、写真だと私は信じている。記録として残すだけでなく、語り直すことで思いを残す。それが本書にも刻まれている。
写真の著作権はシャッターを押した者にこそ宿る。そしてあなたがいなければシャッターは切られなかった。写真は残らなかった。
これこそ写真撮影という行為が持つ、最も根源的で実存主義的な人間存在の礼賛であると思うのだ。あなたがいた、フレーミングを決めた、シャッターを押した、というシンプルな自身の存在証明だ。撮影するという行為そのものがすでに自己肯定を内包している、と私は思う。
もちろん、正直に言えば撮るときにはいちいちそんな事を考えることはなく、
ライカで撮るの楽し〜♪パシャパシャ
とやっているけれども(3歳児)。
別所さんはご家族を大切にされる方、という印象だ。それ故なのか各SNSのTLでは家族の存在をあまり匂わせない。家族の扱いは人によって異なるが、大切にしているからこそ軽々しく個別具体にはSNSでは語らない、と言うのが別所さんのスタンスなのだと思う。2度Spaceを聴いたがその際もあくまで「表紙の写真が自分にとってある大切な思いを込めた一枚である」ということだけが触れられていた。それを感覚的に理解していたからかもしれないが「おわりに」で始めて触れられた瞬間の驚きは大きかった。
この秘められた物語の強度が「丁寧に紡がれた現代の写真との向き合い方についての本」という枠組みを超えて最後の最後に心にズシンと響く。
この時代に先を生きる方からの、我々への餞の著と受け取った。
未読の方は、ぜひ手にとって見てもらえると嬉しい。いつかきっと傷と痛みに寄り添ってくれる一冊となることを約束しよう。
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