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【小説】イエローローズ



〈本編2,133文字〉



 月光に洗われた濡羽色の長い髪が、川面を撫でる夜風と遊んでいた。その光景を見て少年はようやく足を止め、そして少女へ引き寄せられる。
 ひどく大きくて閑散とした深夜の鉄橋を進んでも、半ばに佇む少女は果てしなく遠くにいるように感じられて、少年は思わず走り出していた。昼間とは真逆に冷めきった空気が肺を乾かし、滲む汗が肌を湿らせていた。
 少女は歩道の外側、柵の向こう側に立っていた。あとほんの一歩間違えば、20メートル下の水面へ叩きつけられるだろう。先刻までの雨によって川は闇の中で濁り、轟音が少年の吐息を塗りつぶした。
「来てくれたんだ」
 呟く少女は月を見上げていた。雨上がりの澄んだ空に咲いた黄色い月だ。
「うん……迎えに来た。君の家族も、友だちも、みんな心配してる。だから帰ろう」
 少年の声は荒い息と汚い流水音を搔い潜った。
 けれども、少女には届かない。
「わたしに家族はいないよ」
 言葉とは裏腹に、少女の声色は否定や悲観を含んでいなかった。むしろその色は、自らの言葉への肯定と諦観だった。
「家族も、友だちも、心配してくれる人もいない。帰る家だってわたしには無いよ。親のフリをしてる人と、お姉ちゃんのフリをしてる人と、友だちのフリをしてる人。たったそれだけ。わたしの心配をしてるんじゃなくて、こんだけめんどくさくてウザくて誰からも必要とされてないわたしを心配できる人でありたいってだけ」
「……それは」
「否定しなくていいよ。君は嘘が下手だから」
 少女の髪は絶えず風に流され、そのままどこかへいなくなってしまいそうだった。
「でも」
 少女は滑落することも恐れず、バレリーナのターンのように軽やかに体の向きを変えて笑ってみせた。
「君がいる。君しかいないとも言えるけどさ」
 その言葉が風に乗って届き、少年はわずかに息を吞んだ。それから腕を少女に伸ばし、少しずつ歩み寄る。
「帰ろう」
「それなのにさ」
 少女の声に小さな無数の棘を見て、少年は足を止めた。
「君にはわたししかいない訳じゃなかった。君はたくさんの人に囲まれて、きらきらして、わたしなんかが一緒にいていい人じゃなかった」
「そんなことはないよ。俺はずっと、君がいてくれなくなったのが寂しかった。だから、そんなことはない」
 少年は少女の眼を見て、少女は少年から眼を逸らした。
「……嘘が下手だと、相手を困らせるんだよ」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない。君が謝る必要は無いし、君が変わる必要も、悔いる必要も無い。ただ、わたしがどうしようもないってだけだから。君が人気者なのも、わたしがそれを僻むのも、全部どうしようもない」
 少女の髪は相変わらず風を浴び、少年の方へと揺らいでいた。

「でもやっぱり、君が悪いのかも」

 棘が刺さった瞬間、少年の目は少女の手に引き寄せられた。少女は固く拳を握り、その中に白いハンカチを閉じ込めていた。
「それは……」
「そうだよ。君がくれたやつ。何年前だろ、こども会のクリスマス交換でくれたよね。あの頃はまだ小さかった」
「……まだ持っててくれたんだ」
「うん。バカだよね。君はとっくにわたしなんか見てないのに、ずっと持ってるんだから」
 少女は拳からこぼれたハンカチを引っ張り、少年に見せつける。白い生地は月光を吸い込み、淡く黄色に香っていた。
「君が教えてくれたんだよ。『手で詰めるとバラみたいだよ』って。わたしがバラ好きだって言ったら、バラのハンカチをくれたでしょ」
 少年は何かを答えようとした。何かを答える前に少女は目を細め、手を離す。ハンカチは風に乗って月光を振り切り、少年とすれ違っていなくなった。夜闇に溶けたのか、濁流に呑まれたのか、ただ少女を見つめる少年には確認のしようが無かった。
「どうしてわたしがバラが好きなのか、覚えてる?」
「……うん」
 少年が頷くと、少女は笑った。
「君がくれたハンカチの刺繍のバラ、何色だったかは?」
「覚えてる」
 少年の真剣な眼差しを、少女はまたも笑顔で受けた。
 風が止んだ。
「バラが好きなのは、色によって意味が違うからだよ。わたしと一緒で気まぐれなの」
 乱れきった濡羽色の長い髪は、まっすぐに月光を浴びていた。
「今は黄色いバラが好き。君がくれたのは、赤いバラだったのにね」
 言い終えて、少女は片足を半歩後退させる。それで終わりだなんて、少年は嫌だった。
「まだ一緒にいたい」
 咄嗟に口をついた言葉はそれだった。少年はそれしか言えなかったし、それ以上の言葉なんて無かった。
 だから、少女はもう一度眼を逸らした。
「嘘が下手だと、やっぱり困っちゃうよ」
 少女はもう片方の足も後退させ、その体が傾ぐ。押し留める風はもう吹いていない。
「一緒にいたいのに、一緒にいるとつらいんだ。君を失う恐怖に怯えて暮らすなら、君の中でトラウマとして死に続けたい」
 少女は眼を閉じなかった。最後の最期まで、眼を合わせようとした。
 ふわり、と。
 少女が夜闇に溶けたのか、濁流に呑まれたのか、少年にはわからなかった。そのどちらでも、厳然とわかりきっていることがあった。
 少年は立ち尽くし、立ち尽くし、立ち尽くした。
 黄色い月は枯れること無く光を注ぎ、少年はようやく歩きだした。二度とは会えない少女に引き寄せられて。



〈おわり〉

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