【小説】キヨメの慈雨 第三十八話(マガジンのリンク付。これまでの話に飛べます)
↑これまでの話をまとめたものです。
「国府西中学から来ました、速見早苗です。よろしくお願いします!」
中学二年の夏休み明け、早苗は天領市に引っ越してきた。天領駅から徒歩10分のところに新しくできたマンションを両親が買い、一家で移り住んだのだ。新しいクラスに拍手で迎えられ、早苗は嬉しくなる。
(良かった、みんな優しそうで。ひどい災害があったからちょっと暗いイメージがあったけど、そんなことなさそう)
一年前の七月にテレビで観た天領市の様子は、想像を絶するものだった。自分が住む街のすぐ隣で起こっていることだとは、とても信じられなかった。この一年間に『天領市から出ていく人が後を絶たない』や『豪雨が与えた青少年への精神的ダメージは計り知れない』などといった冷たいニュースばかりが流れてきて、天領市に引っ越すことが決まったとき、早苗は何となく不安だった。だがそれは杞憂だったようだ。
「あたし、配布物手伝うよ。みんなのこと、早く覚えたいから」
早苗は積極的にクラスメイトと交流した。前の学校でも所属していたテニス部に入り、皆優しく接してくれた。誰も心に傷を負っているようには見えなかった。体育祭や合唱コンクールを経て、早苗はクラスに馴染んでいった。それに連れて、自分が天領市に溶け込んでいっていることを実感した。この街は着実に復興している。早苗はそう確信していた。
学校も楽しかったが、早苗は部活が無い日は足早に家に帰った。マンションの隣の部屋に住んでいる、二つ年下の少女と過ごすのが早苗の楽しみになっていた。
ピンポーン!
チャイムが鳴ってすぐに玄関へ飛んでいき、扉を開けて背の低いツインテールの少女を迎え入れる。
「お待たせ、早苗ちゃん」
「待ってたよ!パンケーキ焼いたんだけど食べるよね?」
ツインテールの少女は小学六年生で、日中は家族がいないらしい。早苗が引っ越してきてすぐに、少女の方から話しかけてきた。家族が帰ってくるまでの間、早苗は自宅で少女と一緒に過ごした。
ある日は、早苗が焼いたパンケーキを二人で食べた。
「おいしいよ、早苗ちゃん天才かも!」
「ホント?お店だったらいくらで出せる?」
「うーん······480円」
「安っ!」
「人件費込み」
「込みなの!?」
早苗が驚愕するとツインテールの少女は声を上げて笑い、
「うそうそ。値段なんかつけられないよ」
「······おいしくなかった?」
「違う。早苗ちゃんが作ってくれたんだから、プライスレスってこと」
ある日は、早苗が好きなアニメを観せて少女を沼に引きずり込もうとした。
「蓬くんのために夢芽ちゃんが浴衣着てくるんだよ!もう!これ!すごくない!?すごいよねホント!尊いよね!?」
「うん、すごい!何かこう、ドキッとした。最初は『早苗ちゃんロボットアニメ観るんだ~』とか思ってたけど、もうこれラブコメじゃん!ラブコメ通り越して純愛じゃん!」
「そうなの。そうなんだよ!あ~あたしも蓬くんみたいな一途で爽やかなイケメンに『迎えに来たんだ』とか言われたいッッッ!!!いやナイトさんでもいいけど。いやナイトさんでもいいけど!」
「わかる、ナイトさんもいいよね。二代目ちゃんをお姫様抱っこしてるとことかすごくいいよね。いつの間にそんな仲良くなったのって感じでとてもいい。そしてまんざらでもなさそうな二代目ちゃんもすごくいい」
「流石。流石すぎるよ!わかってくれると思ってたよ!」
ある日は、ツインテールの少女が好きなガールズグループの動画をテレビで流して二人で真似をした。
「······やっぱ二人じゃ追いつかない!あと七人欲しい。フルメンバー揃えたい!」
「ホントそれ!じゃあ、あたしSARAちゃん担当ね」
「お、早苗ちゃんはSARAちゃん推しなの?」
「うん。みんなかわいくてダンスも歌も上手いんだけど、SARAちゃんは語学堪能だし」
「確かに。なんだっけ?日本語、韓国語、英語、あとポーランド語だよね。お母さんがポーランドの人だったはず」
「やっぱ詳しいね。まあ一番の理由は、SARAちゃんが天領出身ってことかな。何か親近感があって」
「······そっか。早苗ちゃんすっかり天領市民なんだ」
そう言われると照れくさくて、早苗はそそくさと次の曲を流した。
「てかさ、早苗ちゃんがあそこで取ってくれなかったら負けてたよ!」
「それな、MVPは早苗ちゃんで決まりぢゃん」
「ね。早苗ちゃんナイス!」
「そんなことないって。みんなのおかげで勝てたんだよ!」
天領運動公園テニスコートで行われた県大会で、早苗はチームのエースとして活躍した。個人戦こそ高い壁に阻まれたが、団体戦ではベスト8を勝ち獲り、順位決定戦で勝ち上がって県五位にまで上り詰めた。
「早苗ちゃんすごかったし、めちゃくちゃカッコよかったよ!まさにエースって感じ!」
大会が終わって帰ろうとしたとき、ツインテールの少女が駆け寄ってきた。
「ふっふっふ、頼れる女早苗さんに任せなさい。というか、わざわざ観に来てくれてありがとね。一緒に帰ろ」
「······うん」
田んぼの中を突っ切る一本道を自転車で帰りながら、少女は早苗を褒めまくった。早苗もここまで褒められて、素直に嬉しかった。
「わたし、中学生になったらテニス部入ろうかな」
「マジで?ウェルカムだよ、ビシビシ鍛えるから!」
「お手柔らかにお願いします、速見センパイ」
「よーし、楽しみにしといてよ!」
二人は明るく喋りながら自転車を漕いでいたが、マンションに近づいてくるとツインテールの少女の口数が減ってきてしまった。
「············早苗ちゃん」
「何?」
「······今日さ、早苗ちゃんの家に泊まらせてくれないかな」
「いいけど······どうしたの?」
信号待ちのタイミングで、早苗は少女の横顔を見つめる。夕闇に紛れて表情はよく見えないが、その声色はこれまでのものとは明らかに違った。
「······なんと言うか、ちょっと兄とトラブったというか」
「お兄ちゃんとケンカしたんだ。それで家にいづらくって、観に来てくれたってことか」
「······大体そんな感じ」
「そっか。いいよ、落ち着くまでウチにいて。とりあえずお母さんとお父さんには連絡しときなよ。あたしの母さんと父さんはたぶんOKしてくれるから」
「ありがと、早苗ちゃん」
マンションに着き、少女の家を通り過ぎて早苗の家へ入ろうとしたとき、少女の家のドアが開いた。
「やーっと帰ってきたか。どこ行ってたんだよ」
出てきたのは少女の兄だった。切れ長の目に、早苗よりも30センチ以上高い身長。どちらも少女とは全く似ていなかった。複雑な家庭環境であることはうっすらと察していたし、そんな家庭で育つ兄妹のケンカとなればどうなってしまうのかと不安だったが、杞憂だったようだ。兄は明るい口調で少女に歩み寄り、その腕を掴んで引き寄せる。
「······今日、早苗ちゃんの家に泊まるから」
「はあ?何言ってんだよ、ご迷惑だろ」
少女の兄は途端に険しい顔つきになって少女を諫めた。
「いえ、ウチはいつでも大丈夫ですよ」
早苗が言うと少女の兄は手を振って、
「とんでもないです、こんなのが転がり込んだらいけないので」
「······早苗ちゃんもいいって言ってるし」
「帰るぞ」
その一言に、早苗の背筋は凍りついた。早苗にも大学生の兄がいるが、あんなに冷たくて恐ろしい語気で何かを言われたことは無い。
「············うん」
ツインテールの少女は、兄に背中を押されてドアの向こうに消えた。最後に一瞬だけ、早苗と眼を合わせて。
中学二年の修了式の日。早苗は腹痛に呻いて女子トイレに籠っていた。
(いや、学年末の給食にケーキが出てきたらおかわりしたいなーって思うじゃん!?でも誰もおかわりしなくて総取りできちゃったんだから全部食べるしかないじゃん!?食べたら食べるだけ出ていく体質ってだいぶキツい!太るよりマシだけど!)
何だかんだ個室から出ようとしたとき、少女達のおしゃべりが聞こえてきた。複数人でトイレに入ってきたらしい。
「······何かあの子が手挙げてからさ、みんないきづらくなっちゃったよね」
「それな、結局一人でケーキ全部食べてたし。あり得んわ」
「ね。ニコニコしてたけど他人なんか気にしてないんだろうね」
(············あたしのこと?)
そんなことは明らかだった。鍵を開けようとドアノブにかけた手を止める。
「てかさ、早苗ちゃん、何かちょっと違うよね」
「それな、必死さが違うわ。仲良くなろうと頑張ってる感じ、結局無くならなかったよね」
「ね。いい人です感出してるっていうかさ、みんなのことわかってます感あるよね」
(······························え?)
訳がわからなかった。意味がわからなかった。怒りとか悔しさとか悲しさとか、そんなものは感じなかった。ただ、他者がもっている早苗への認識を聞かされることが、自分自身を突きつけられることが、怖かった。
「テニス部でもさ、転校してきていきなりエースだよ。まあ強いからしょうがないけどさ、でもそりゃ当然だと思わない?」
「それな、だってウチら一年の七月から新人戦ぐらいまで練習できなかったぢゃん。というか天領のテニス部の中学生なんて大体そうぢゃね?」
「ね。三か月分の積み重ねの差があるんだから強くて当然だし。みんなのおかげで勝てたって言われてもね~」
なぜ一年の夏にコートを使えなかったのか。理由はわかりきっていた。それが気軽に話題に挙がるほど、天領市民にとっては自分事だった。それが話題に出てきて何も言えなくなるほど、早苗にとっては他人事だった。
「てかさ、あの子が住んでるマンション、広告見たことある?エキ近ガコ近なのに、めっちゃ安いんだよ」
「それな、あれって雨で家が駄目になっちゃった人のために安いんでしょ?それをよそから来た人が買っちゃったんだ」
「ね。あの子、得しかしてないし。わたしなんか目の前で弟が死んだんだけどね」
逃げ出したかった。叫びたかった。動けなかった。息が吸えなかった。だけど、誰も助けてくれなかった。誰も、応えてくれなかった。
そして、突きつけられる。
「やっぱりさ、早苗ちゃんは違うんだよね。あの雨を経験してないのに、みんなと同じみたいな顔してるのが意味わからん」
少女達が去った後、早苗は少しも動けなかった。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声も、音楽室から聞こえる吹奏楽部の音色も、やけに遠かった。トイレから出て、まっすぐ家に帰った。誰にも見つからないよう、全力で走った。
家に着いて、鞄なんか放り投げて、無言でうずくまった。涙を流すのは、ずるい。家族が死んでいないお前が、家が泥に浸かっていないお前が、順当に学校生活が送れているお前が、悲惨な光景をテレビの前で見ていたお前が、誰かに目を背けたくなる事実を告げられたぐらいで、誰も助けてくれなかったぐらいで、泣くなんて卑怯だ。残酷な事実なんて嫌というほど押し寄せてきたのに、誰かが助けてくれるという期待なんて裏切られてきたのに、お前が泣くのはおかしい。誰もがそう言っているような気がした。
ピンポーン!
間抜けな音が自宅の呼び鈴だと気づくのに、かなり時間がかかった。
「早苗ちゃーん、いないのー?」
「············ぁ」
ふらふらと玄関まで歩いて、鍵を開けた。とびきりの作り笑顔を用意して、ツインテールの少女を迎える。
「お待たせ!」
「······早苗ちゃん、それ普通こっちのセリフ」
「あれ、そっか」
笑い合って、部屋へ通す。それでも腰を下ろすなりすぐにツインテールの少女は、
「早苗ちゃん、何かあったの?」
「············実はさ、今日学校で陰口みたいなの言われて」
「何言われても気にしなくていいんだよ。早苗ちゃんかわいいから、妬まれてるのかも」
「そう············だといいけどさ」
誰かにわかってほしかった。あんなことを言われるのは初めてだった。彼女なら、明るく否定してくれると思った。早苗はゆっくりと口を開く。
「······あたしがテニス部でエースなのって、天領の子達が部活できなかった期間に練習してたからだって」
「それは、早苗ちゃんが頑張ったからでしょ」
「······このマンション、豪雨で家が駄目になった人向けなのに、何の被害も受けなかった人が住んでるって」
「別に、被災者向けって訳じゃないと思うよ」
「仲良くなろうとしてる必死さが拭えないって」
「何それ、仲良くなりたいから仲良くなろうとしてるのにね」
早苗の心に突き刺さった言葉を、ツインテールの少女は一本ずつ抜いていってくれた。それだけで胸がいっぱいで、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
「あたしは天領の子達とは違って、あの豪雨を経験してないのにみんなと同じように装ってるのが意味わからないって」
「それは············」
ツインテールの少女は言い淀んだ。早苗に対するあまりに残酷な言葉に、言葉を濁した。
そして、きっぱりと断じる。
「その通りだと思うよ」
「··················え?」
今度こそ、本当に訳がわからなかった。早苗の心を置いてきぼりにしたまま、少女はさらに続ける。
「早苗ちゃんはきっと、わたし達のことを本当には理解してない。早苗ちゃんが天領市民になったつもりでも周りはそうは思わないし、本当の天領市民にはなれない」
「··················なんで?」
「早苗ちゃんが何もなくしてないから」
少女は告げる。
「家族、恋人、友人、同僚······家、財産、思い出、職場、それだけじゃない。この街の人達はもっといろんなものをあの豪雨でなくしてる。なくしたときの痛みは、なくした人しかわからない」
「··················じゃあ、明日海ちゃんは?あたしは、明日海ちゃんのことも、理解できてないの?」
「························うん。早苗ちゃんは、わたしのことも理解してない。わたしのお父さんは豪雨で死んじゃって、一年も経たないうちにお母さんは今の父親と再婚した。兄は今の父親の連れ子だけど、今の父親と兄も血がつながってない。そんなことも、早苗ちゃんは知らないんだよね?」
「······それでも、あたしは明日海ちゃんのことをわかりたいし、この街のことをわかりたい。だって、同じ天領に住んでるんだから」
「同じじゃないって言ってるよね」
明日海の眼は、まっすぐ早苗を見つめていた。
「同じじゃ、ないんだよ。早苗ちゃんはわたしが今何に苦しんでて、何から助けてほしいのかもわからない」
「それは、家族関係、とか······?」
「具体的には?」
「··················」
「ほら、わからないでしょ?わかってくれないでしょ?わたしは早苗ちゃんの好きなものを知ってる。早苗ちゃんはわたしの好きなものを知ってる。でも、もっと根っこの部分では、早苗ちゃんはわたしのこともこの街のこともわからない」
「でも、あたしは」
「早苗ちゃんのエゴだよ」
「············えご」
「そう。何もなくしてない人にはわかったフリして、この街の一員になったつもりになって満足することしかできない。それは、早苗ちゃんのエゴだから」
そう言って、最後に明日海は笑った。悲しそうに、力なく。
「············じゃあね、早苗ちゃん」
立ち上がって玄関から出ていく明日海を、早苗は止めることができなかった。
それ以降、明日海は遊びに来なくなった。
早苗が三年生になって、入学式の日を迎えても、明日海の姿は見えなかった。授業中にパトカーのサイレンがやかましく鳴っているのが何度も聞こえた。
家に帰ると、来客用駐車場にパトカーが何台も停まっていた。市章が貼られたワゴン車も停まっていた。マンションの廊下を歩くと、明日海の家のドアに規制線が張られていた。
(············どういうこと?)
明日海の家の前には、何やら指示を出しているスーツ姿の若い女性と白ジャージに白髪の若い男性がいた。普段なら話しかけづらいが、今回だけは違った。
「······あのー、すみません。あたし、明日海ちゃんの隣の部屋に住んでいるんですけど、何かあったんですか?」
早苗が尋ねると白髪の若者が表情を変えずに、
「成沢明日海の身柄は我々が拘束した」
「拘束?」
「ちょっと日尻さん」
若い女性が諫めるが白髪の男性は動じずに、
「この子は彼女を心配している。できるだけ真実を伝えたい」
「明日海ちゃんが、何かしたんですか?」
早苗が尋ねると白髪の若者はうなずき、
「成沢明日海は実母と継父、そして義兄を殺害したんだ」
〈つづく〉
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