ショートショート『記念日』
【手紙】
森本哲郎くんへ。
哲郎くんは今何をしていますか?私は相変わらず元気にしているよ。哲郎くんがいなくなってもう数年が経ちましたね。当初私はあまりのショックで食事も喉を通らず5キロも瘦せてしまいました笑
それほど私は本当にあなたの事を愛していました。あの時の行動は全て愛していたが故の行動だと思って、どうか私を許してください。あなたは私にとって初めて恋を教えてくれた男性で、それほどまで大切な存在だったんです。ずっと一緒にいたい、あなたと全てを共有したいという想いが強すぎてあなたを縛り付けていたんだと今ではわかります。
でも、私もあれから色々あったんだよ。仕事も変わり、住んでいる場所も変わりました。だから、あの家に行ってももう誰もいないよ。多分、違う人が住んでるかもね。
それと私ね、今度結婚することになったんだ。とても優しくて私のことを常に考えてくれている素敵な方。
だけど、どうしても私は哲郎くんのことを考えてしまいます。彼には申しわけないと思っていても、ふとあなたとの写真を見てる。もちろん、彼のことは愛しているし、一生共に生きていきたい。それでこの想いを断ち切る為に手紙を書きました。この届くはずの無い手紙を。それで哲郎くんとの想い出を最後にします。
哲郎くん今までありがとう。ごめんなさい。
私は今とても幸せです。
アサクラ キョウコ
【哲郎とキョウコ】
「おまたせ!今日はエビグラタンを作ってみたの。お口に合えばいいけど・・」
そう言うキョウコを哲郎は優しい目で見つめ、熱々のエビグラタンを口いっぱいに頬張った。
「もうそんなに焦って食べなくてもいっぱいあるからね。ヤケドしちゃうよ」
彼は子供のような無邪気な笑みを浮かべ、更に二口目を頬張る。
「はぁ~、幸せだな~」と無意識で溢すと、彼はそれに同調するように「俺も」と呟いた。
今日は同棲を始めてちょうど一ヶ月。この一ヶ月ずっとキョウコは幸せだった。仕事を終えて家に帰ると待っていてくれる人がいる。それだけで嫌な仕事も頑張る事ができた。仕事を終える三十分前には本日の献立の事ばかり考えている。今日のメニューはエビグラタン・ハンバーグ・唐揚げ・サラダ。
「他にもまだまだあるからどんどん食べてね」
いそいそとキッチンへ戻るキョウコをしりめに哲郎は怪訝なようすで聞いた。
「凄い料理だね!今日なにかいい事でもあったの?」
その言葉に驚いた様子のキョウコは今日が“同棲を始めて一ヶ月”である事を告げた。
「そうか、もうそんなに経つんだね。いつもありがとう」
差し出したエビグラタンを更に頬張る。
優しさと笑みを含んだその哲郎の顔は一番好きな顔だった。たくさんの人がいる中で私を見つけてくれてありがとう。そんな事、恥ずかしくて口にはしないが常にキョウコはそう思っている。すると、哲郎の視線に気づき、キョウコは慌てて次の話題へ移った。
「あ、明日の記念日はどこにいこうか?」
「明日?明日ってなにかあったっけ?」
嬉々として答えるキョウコに反して哲郎はどうやら覚えていないらしい。
「もうひどい!明日は私たちが初めて手を繋いだ日じゃない」
そういって怒るキョウコに哲郎は素直に謝った。
しかし、キョウコは思い出したかのように言葉を続けた。
「そういえば、この前も記念日覚えてなかったね?」
キョウコの言うこの前というのは三日前の“映画館初めて行った記念日”の事だ。さらに“プリクラ初めて取った記念日”“初めて海に行った記念日”を覚えていなかったと哲郎を問い詰め始める。
しばらく黙って聞いていた哲郎だったが、ようやく口を開いた。
「あのさ、前から思ってたんだけど・・・記念日多くない?」
キョウコは何を言われているのかわからず固まっている。
「同棲始めてから、ずっと何かしらの記念日ない?」
そこでようやくキョウコは質問の意味を理解した。『どうでもいい記念日が多い』と。
キョウコはその事実にショックを受けながらも平静を装いながら言った。
「哲郎くんってホント女心がわかってない。女の子はね、記念日を大切にするものなの」
女性経験の乏しい哲郎でも聞いたことはあった。『女の子は記念日を大切にする』
しかし、これは付き合った日や誕生日に限ったことだ。これはあまりにも多過ぎた。
「私はこんなにも哲郎君との想い出を大切にしているのに、私だけだったんだ」
悲しむ表情で潤んだ瞳をこちらに向ける。
そんな風に言われると哲郎はただ謝るしかない。おそらくあっちの方が異常な事だと思ってはいてもキョウコの悲しんだ顔は見たくはない。
「私はね、哲郎君との想い出《全部》覚えてるのに」
そこで哲郎に一つの疑問が生まれた。もしかして、365日全てに記念日があるってこと?
もしそうだとしたら、それはより一層不可解な異常行為だ。まず逐一覚えていられない。確かに想い出をいつまでも大切にする人はいるかもしれないが、365日全てに記念日を設けているのは哲郎には到底理解できない。
そこでタガが外れたかのようにキョウコは今までの記念日について語気を強め話始めた。
“六月一日初めて牛丼を食べた日”
“八月十五日哲郎が初めてデートに遅刻した日”
“九月二十日初めて一緒にお酒を飲んだ日”
今までも大なり小なり喧嘩はあったが、今回の喧嘩はわけが違う。365日全ての記念日を覚えるなんて俺にはできない。だが、キョウコは我を忘れて哲郎を叱責した。こうなってくると今のキョウコに何を言っても無駄だろう。そう判断した哲郎は先ほどまで一生懸命回していた頭を止めて、相槌に専念して熱が冷めるのを待った。しかし、キョウコの怒りが冷める気配はない。むしろ先ほどよりもさらに熱を帯びてきている。「そんなに俺が悪いのか?」ふと頭の片隅に浮かんだ疑問は、不意に向けられたキョウコの言葉によって消えていった。
「こんな調子じゃ十月十日もなんの日か覚えていないんでしょうね!!」
「そんなの覚えてないよ!!」
キョウコの勢いについ声を荒げてしまう。そんな哲郎にキョウコは驚き、顔の熱が冷めていくのが見て取れた。いや、この表情は先ほどとはうってかわってひどく冷たく静かな怒りだ。
「十月十日は私たちが付き合った日なんだけど」
そこで初めて哲郎は自分がおかしたミスに気付く。そうだ、“十月十日は俺達の付き合った記念日”だった。後悔する間もなくキョウコの顔が悲しみの表情に満ちていく。しまいにはついに泣き出してしまった。
「なんで・・?覚えていないの・・こんな大切な日・・付き合って三年も経つからもう冷めちゃった?・・・私はこんなに哲郎君との想い出を大切にしているのに・・なんでどうして・・・」
そうやって泣きじゃくるキョウコに対し、哲郎は
【哲郎と今日子】
ひどく後悔した。今日子のこんな悲しい顔が見たいわけじゃないのに。もっと笑顔で楽しい顔でいてほしいのに。365日全て何があったかまでは覚えていないが、哲郎の頭の中は今日子の笑顔の想い出で埋め尽くされている。笑ったときに出るえくぼ、笑ったときに出る八重歯、そんな表情ばかりが頭に浮かぶ。ずっとずっとこの笑顔を見ていたいと思う気持ちとは裏腹に、哲郎は二人の終わりを感じていた。
おそらく哲郎は一年の記念日全てを覚える事は無理だ、いや、不可能だろう。そして、今日子をこんなにも悲しませてしまった。きっと今許されたとしてもまたいつか悲しませてしまうことがある。そうなると余計に今日子を傷つけてしまう。
哲郎はいつもの優しい表情になり「ごめんね・・・」と囁くように謝った。
「俺が全部悪いんだ、今日子は俺との想い出をこんなにも大事にしてくれてるのに俺はそれに応えられなかった」
泣くのをやめてくれない今日子。
「今日子の悲しんでいる顔は見たくないんだよ」
今の哲郎の拙い言葉ではいくら取り繕っても全てが逆効果の様に思えた。
三年も付き合って初めて見えてきた彼女の事。それは良くも悪くも彼女自身そのものなんだ。だから、彼氏である俺がそれを否定してはいけない。
「今日子はそれじゃ納得してくれないと思うけど、俺は記念日全部覚えてるのなんて無理だ」
僅かな静寂。今日子のすすり泣く声がリビングに響いていた。
そして、なるべく明るく哲郎は最後の言葉を切り出す。
「俺達終わりにしようか」
【哲郎と京子】
ひどく怒りを覚えた。それはもちろん京子に対してだ。365日記念日があるなんて異常だし、それを覚えていないなんて怒鳴られるいわれもない。こんな理不尽なことがあっていいのか。それに今泣いているのも意味がわからない。京子がわけのわからない記念日ばかり言ってくるから、少し付き合った日を忘れていただけだ。言ってみれば、これは罠みたいなもの。逆に今まで散々言われていたのを我慢していたのを褒めてほしいくらいだ。
なのに、京子は全てこっちに非があるような口ぶり。なんでこんなに罵倒され我慢して耐えている。こんなに耐える必要があるのか。それほどこいつはいい女なのか。三年も付き合って性格や馬が合うのは認めるが、馬鹿みたいに許しを請うて取り繕ってこれからも同じように付き合っていきたい女か。
そう考えると哲郎は自然と「うるせぇよ」と呟いた。
そして、今度は哲郎が京子に対して怒りの言葉をぶつけ始め、哲郎の熱はヒートアップしていく。
「人が黙って聞いてりゃ記念日なんてどうだっていいだろ!!うぜぇよ!バカじゃねぇの。気持ちわりぃんだよ。なんだよ!映画初めて一緒に見た日って覚えてるわけないだろ!!二度と俺にそんなこと言ってくんな!!」
哲郎も人に感情をぶつけるタイプではない。しかし、この時は自分でも感情のコントロールが出来なくなってしまっていた。言葉の暴力で京子を傷つけ、自分を優位に立とうと更なる暴言を吐き続けた。
「そんな記念日つってこんな不味い飯出してくんなよ!金が勿体ねぇだろ!!殺すぞ」
哲郎は変わってしまった。あんなに美味しそうにご飯を食べてくれた哲郎が。
悲しみのあまりより一層大きな声で泣き続ける京子を哲郎は鬱憤を晴らすように更に責め立てた。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねぇよ。二度と俺に意見してくんな。」
黙って俯いている京子を哲郎は殴りつけた。
「おい、聞いてんのかよ」
静かに頷いた京子を確認し、「寝る」とだけ呟き哲郎は寝室に入っていった。
リビングには京子のすすり泣く声だけが響いている。
「いつまで泣いてんだよ!うるせぇんだよ!!」
そんな声が寝室から聞こえてきた。
すると、京子は口に手をやり涙をグッと堪え、脳内で今までのやり取りを反芻していく。
そして、しばらくするとキッチンにあった包丁を手に取り、寝室に入っていった。
【省吾とキョウコ】
キョウコは哲郎との写真を見ていた。あれから何年が経ったのだろう。そんなセンチメンタルな気持ちになっていた。すると、急に後ろから優しく抱きしめられた。
「なに見てるの?」
その相手は婚約者の佐々木省吾だった。省吾は写真をジッとみていた。
「ごめんね、嫌だった?」
素直に謝ると省吾は首を振った。
「大丈夫だよ。この人が前に言っていた彼氏?」
省吾には哲郎のこと、そして自分が記念日に執着していたこと、全て話をしていた。
あの時以来、恋が出来なくなってしまったキョウコに再び人を好きになる事を教えてくれたのは省吾だ。過去に何があったのか、省吾は親身になって聞いてくれた。そして、いつしか二人は惹かれ合って恋に落ちていた。
省吾は優しくてとても明るい。何よりも常に正直で素直だ。だからこそ省吾の言葉はキョウコにも響いたのかもしれない。
「まだ忘れられない?」
「そんなんじゃないけど・・・」
キョウコはずっとあの時の事を後悔していた。私が未熟で子供だったからあんな別れ方しかできなかった。それだけがキョウコの心残り。でも、今更どうすることをできない。
すると、省吾はキョウコに向き直り
「じゃあ、お手紙書いたら?」
その提案にキョウコは不思議そうな顔をしていた。
「哲郎さんに自分の今の気持ちと後悔している気持ちを手紙に書いて、海に流すの!!そして、全部終わりにしよう!!それならキョウコちゃんも一応謝ったんだし、もう自分を責めないであげて」
「そうだね、いいかも。ありがとう」
そう言って省吾の唇に自分の唇を重ねた。
一月の海はまだまだ寒い。二人は厚手のジャケットを着込み、並んで水平線を眺めていた。
キョウコの手には一通の手紙が入った小瓶が握られている。
「今日は哲郎さんにお手紙記念日だね」
そうやっておどける省吾につられてキョウコも笑ってしまった。
「そうだね」
少し緊張した面持ちでキョウコは冷たい空気を肺いっぱいに入れた。
そして、勢いよく踏み出す助走をつける。
「ありがとう」「ごめんね」そんな様々な感情を胸にキョウコは持っていた瓶を思いっきり海へ放り投げた。
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2ヶ月に一度行なっていた【ごはんマン新ネタライブ「こ」】で来場者プレゼントとしてお配りしたショートショートです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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