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LGBTQ当事者の僕が考える差別と偏見の正体 #31

「差別」や「偏見」

みなさんはこの言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか。
どういう状況や状態、場面を想像するでしょうか。



僕はゲイです。


異性愛者を多数派とするなら、僕は少数派に分類されます。


異性愛者からすれば、同性愛に関して気持ちが悪いとか、男が男を好きになるなんておかしいとか


わからない価値観って、なんとなく受け入れがたいですよね。


それが差別と偏見の正体なのかなと思います。




「僕はゲイだけど、普通に生きる権利がある。」


「僕はゲイだけど、誰からも差別されずに偏見を持たれずに、自然に受け入れられる存在であるべきだ。」




僕は、そんなふうには思ったことはありません。

そんなふうに思えたことがないと言ったほうがしっくりくるかもしれません。


僕はゲイで、少数派で
家族や友人たちにもこのセクシャリティを隠して生活しています。

犯罪を犯しているわけでもない。
悪いことをしているわけでもない。
誰かに迷惑をかけているわけでもない。

それなのになぜ隠さないといけないのか。

それは、世の中に偏見があるからです。


でも、偏見があることってそんなに悪いことなのでしょうか。




僕は障がいを持った人を見かけると「怖い」と思っていました。

具体的になにか危害を加えられたわけではないです。迷惑なことをされたわけでもありません。

ただ漠然とした「怖さ」という感情がありました。

怖さだけでなく、漠然とした嫌悪感もあったかもしれません。

しかし、それは僕の中でごく普通の感情で
それがおかしい価値観だとは思っていなかったですし
自分以外の周囲の人たちも、僕と同じような感情を抱いているのだと疑ってもみませんでした。


そんな僕の考え方を変えるきっかけくれた人がいました。


高校3年生のときの担任の先生でした。

彼女は、当時の年齢で30代前半くらい
頭の切れる理系の先生でした。
とてもサバサバした性格で情にも厚く、男女問わず生徒から慕われる素敵な先生でした。


(この投稿に少しだけ担任の先生のことを載せています)


彼女は、僕の人生を変えてくれるような関わりをしてくださった先生でした。

たくさん感謝もしていますし、とても大好きな先生でした。

僕は彼女のことをとても信頼していたし、慕っていました。



高校3年生の卒業の日。
最後に彼女は教壇に立って、自分の家族の話しをしました。


「私の息子は、障害者です。自閉症という障害です。」


「息子の障害は目に見えません。親の愛が足りないとも言われました。」


「息子と一緒に外を歩くと、公園にいくと、スーパーに買い物に行くと視線を感じて外に出ることが怖くなったこともありました。」


僕の知っている強い先生は、ポロポロと涙を流していました。


そして最後にこう締めくくりました。


「私は、この子を産んで幸せです。産まなくてよかったなんて一回も思ったことはないし、不幸だなんて思ったこともありません。誰に何を言われたってかまいません。私は息子のお母さんで幸せです。」



僕は、このときに初めて自分自身の中にある差別や偏見の存在に気づきました。


そして、それと同時に僕は
僕自身の持っているこの差別や偏見が
僕の大好きな、僕の人生の道標をくれた大切な人を知らず知らずのうちに傷つけていたことに気づかされました。

自分の愚かさに腹が立ちました。
自分の偏った価値観が大事な人を知らないうちに傷つけていた事実が悲しかったし
これからもこの偏った価値観で、大事な誰かを傷つけてしまうかもしれないと思うと怖くなりました。

彼女に対する申し訳無さや自分の愚かさ
彼女の強さや、その堅い決意への感銘


様々な感情でぐじゃぐじゃになり涙が止まりませんでした。


僕は、彼女のカミングアウトに心を動かされました。


差別や偏見のない僕になりたいと、そう思いました。




僕は、この出来事をきっかけに
大学生になってから障がいを持った人たちのコミュニティに入り
大学四年間を通して、障がいを持った当事者の人たちと関わる体験をしました。
(長くなるので詳細については割愛します。機会があればまた書きたいと思います。)



実際に当事者と関わることで、話すことで、一緒にいることで分かることがたくさんありました。


僕は障がい者ではありません。
その当事者でないから、当事者の抱える悩みや気持ちはわかりません。



でもその人たちを知ることで、僕は障がいを持った人たちのことを
僕の気持ちの中で受け入れることができるようになりました。

全く差別や偏見の気持ちがないというと嘘になってしまうかもしれません。

そんな中でも、一つ確実に言えることは
高校生までの僕が、当時抱えていた攻撃的・否定的な差別や偏見の気持ちは今の僕の中にはありません。



話が長くなりましたが、僕が伝えたかったことをまとめます。

知らないこと、わからないことに対して肯定的な感情を抱くことってとても困難なことだと思います。

じゃあ、世の中から全ての差別や偏見をなくすために
知ることや、わかることを強要するのも違うと思います。


知りたくないことを知る必要もないし、わかりたくないことをわかろうとする必要もないのだと思います。


だからこそ、僕は僕自身のセクシャリティを誰かに認めてもらえることが自然なことだとは思いません。


知らないこと、わからないことを否定したくなる気持ちもわかります。


その「否定したい」という価値観を誰かと共有したい気持ちもわかります。


気持ちがわかるからこそ、それを否定したくない気持ちもあります。


だって考え方は人それぞれですもん。


だけど、僕は僕の大事な人に傷ついてほしくないです。
そして僕自身も傷つきたくないです。

僕が傷ついている姿を見て、僕の大事な人が傷つくことも嫌です。


人の数だけ、考え方はあると思います。
大事にしたいものは、その数だけあると思います。
誰に何を言われても変えられないこと、曲げられないものがあると思います。


それらを、たとえ認められなかったとしても
受け入れられなかったとしても


「そういう考え方もある」


「そういう人もいる」


ただ、自分と違う人がそこにいる
自分と違う考えの人がいる

ただ、それだけのこと。


そんなふうに、みんながそう思えたら楽でいいのになと


思いました。



僕自身も、誰かにとっての大事な人を傷つけてしまわないように


自分の発する言葉、書き起こす文字


それらに思いやりはあるのか


日々、誰かにとって思いやりに欠けた行動を選択していないか


自分自身の行動を顧みたくなりました。

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