大学教授と旧姓使用
先の自民党総裁選で、「選択的夫婦別姓制度」を真っ先に議論の俎上に載せたのは、小泉進次郎元環境相でした。今回の選挙ではネット民からけちょんけちょんに叩かれた挙句、決戦投票にも残れずじまいだったいいとこなしの進次郎候補にとって、この問題提起は数少ないクリーンヒットでありました。結婚後も希望に応じて夫婦それぞれが旧姓を継続使用することに法的根拠を与えよう、というものです。
もっとも、本テーマの「大学教員による旧姓使用」などがその最たるものですが、ここ日本では通称名使用はずっと以前から、市民生活のさまざまな場面で弾力的かつおおらかに認められてきた歴史的経緯があるのもまた事実。例えば、もう40年近くも前のことになりますが、前職のテレビ局のとある番組の制作現場で、こんなことがありました。
ナベさん(渡辺さん)という男性放送作家が、ガス子(菅原さん)というスタッフの女性と恋に落ち、その後、二人は結婚しました。
当時、僕を含め、ガス子と同年代の下っ端の連中はこのことをみんな知っていたのですが、二人は結婚した事実を番組のプロデューサーやディレクターなどの上司には内緒にしていたわけです。イジリのネタにされるのが嫌だったのか、あるいは、単になんとなく言いそびれたのか……いずれにせよ、ガス子は結婚後も旧姓の「菅原」姓のままで通していたのでした。
そんなある日、ガス子のお父上が亡くなります。スタッフみんなして一緒にお葬式に参列したのですが、なぜかナベさん、先に斎場にいて、しかも菅原家親族のシマに座っているではないですか。
ま、我々若いスタッフには、改めて「なるほどな、そうだよな」の指差し確認事項に過ぎなかったのですが、プロデューサーにしてみれば、「なんだ、渡辺の野郎……今日は来ないのかと思えば、一人抜けがけか? しかも(間違って)ちゃっかり親族の席に座ってやがる」となったのも無理もありません。
「ナベちゃん、こっちだ! そこは違う。お前はこっちだ、ナベちゃん、こっちこっち!」
プロデューサーの、控えめながらも、執拗な野太い声の呼び掛けがずっと斎場に轟き渡っていたのを、ふとした拍子に思い出したが最後、40年が経ったいまも笑いを堪えることができません。
もちろん、大学教員も「ガス子」と同じかもっと古くから通称名使用をフツーのこととして来ましたし、多くの大学も——簡単な届出こそ求めることはしても——基本、これを容認してきたことはよく知られるところです。特に女性教員を念頭に置き、彼女らが婚姻によって苗字が変わり、結果、過去の研究業績との連続性を失ってしまうなどの不都合を回避することを考えれば、それは極々自然の流れでした。
もっとも、通称名使用が利益をもたらすのは、なにも女性教員に限ったことではありません。
例えば、身近なところでは、元同僚の川谷茂樹さん(倫理学・哲学)は、京都大学を卒業後、いったんは郷里・北九州市の市役所に就職を果たすのですが、学究への思い断ち難く、役所を辞めて、大学院生として再び学生に戻りました。収入を断たれた川谷さんの長い院生時代を物心両面で支えたのは、役所で知り合い、その後、結婚することとなる現在の奥様。結婚を機に、川谷さんの方が奥様の「高宮」籍に入ったのは、奥様の方の連れ子さんたちの名前の一貫性を重視したということもあったのかも? もっとも、川谷さんにとって戸籍名は単なる記号に過ぎず、合理的な選択をなしただけかもしれません。——この辺のこと、もはや本人に直接訊くことは叶わないのですが……(2018年2月に50歳の若さで永眠)。
現在、俳優や音楽家などとして活躍するお子さんたちは、ほんとに子煩悩で教育熱心だった高宮家の父の思い出と、いまも「川谷茂樹」名で手繰ることのできる、一人の研究者の思索の道程との両方を、折に触れ誇らしく思い起こすことができるのです。素敵なことだと思います。
もっとも、教員のみんながみんな、結婚後も旧姓使用を希望するわけではないことは、ユーミンに同じ。ユーミンは、その輝かしい音楽活動キャリアのわりと早い段階で、結婚を機に、それまでの荒井由実から松任谷由実にアーティスト名を変えました。当時は、ウーマンリブをはじめ、男性社会からの女性の自立と解放がまだまだかまびすしく議論されていた時代のこと、ユーミンの、いわば逆張りぶりが高校生であった僕にも、なにか鮮烈な出来事のように感じられたものでした。
もっとも、誰もが認めるようにユーミンは言葉の魔術師。「荒井由実」で風穴を開けることのできた当時の音楽シーンで、さらなる高みを目指すのには新たな表象としての「松任谷由実」の持つ違和感や刷新感が必要と考えたのかも。このことについては、ユーミン自身が過去のインタビューなどで答えているのかもしれませんが、そうでないなら、何かの機会を捉えて直接うかがってみたいものです。
ただ、用心しないといけないのは、高橋洋一さん(嘉悦大学教授)などの保守の論客が、アカデミアでは旧姓使用が古くから慣行としてあったことをして、法制化の必要なし、とにべもない態度を取っていること。これらはイエ制度の解体と真剣に向き合うことを回避しているに過ぎません。進次郎さんには、総裁選に落ちたぐらいではめげずに、その「空気読めない力」をいかんなく発揮して、頑迷な極右の暴走老人たちと毅然と対峙していただきたいものです。
その昔、勤務先大学で国際交流委員のような役回りをあてがわれたことがあります。協定先のカナダの大学から、交換教授を我が大学に受け容れるに当たって、「往復の航空券」の費用負担のことが問題になりました。
本学の旅費規定では、カナダ・日本間の旅費は「本人およびその配偶者に限って本学負担」だったのですが、その先生と「奥様」は事実婚で、お二人は苗字も違っていたわけです。国際交流事務の担当者に、
「ここんところはどうしても曲げられませんから、先生、事実婚の場合は旅費は本人分しか出ない旨、ひるまずきっぱり(カナダの先生に)説明してくださいね」
と、僕の日和見主義なんかとっくに見透かされている様子。仕方なく、渋々国際電話をかけて、教授本人に直接説明したものでした。
僕の話を最後まで聞き終わるか終わらないかで、先方の先生、
「オーケイ! ならすぐにも(正式に)結婚する。結婚次第、証明書を送るから(妻の旅費精算の方も)よろしく!」
とのたまうではないですか。それは、あたかもネトフリかアマプラのサブスクにでも入るかの気安さです。
「選択的夫婦別姓とは、苗字が一緒であろうがなかろうが、仲の良い夫婦は仲の良い夫婦、仲の悪い夫婦は仲の悪い夫婦ということなのだ」
当時はまだ「進次郎構文」なる言葉は世の中に存在しませんでしたが、その入籍動機の気軽さ、シンプルさは、ほんとに目からウロコでした。
荒井由実時代の大ヒット曲ではありませんが、So, you don’t have to worry, worry、あなたの論文はいかなる通称名でも守って、上げられます。
※本note上、「大学教授と——」シリーズの既存の記事には以下もあります。よろしければ。