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ゴジラ-5.25

札幌・すすきのにオープンして間もない東宝シネマズで、遅ればせながら「ゴジラ-1.0」を観てきた。

ノーマル上映の回と轟音上映の回とが選べたのだが、迷わず「轟音」にした。タッチパネルでチケットを購入する際、近くにいた係の若い女性に、

「シニア割は轟音回にも適用されますか?」

と訊いたのが間違いだった。

「はい、もちろんシニア割で轟音上映もご覧になれますよ。けど……かなりの大音量ですよ? 通常の音量でも十分な迫力かと」

と、かなりの圧で再考を促してくるではないか。こちとらは、メガネの度数「−5.25」のかなりの近眼の上に、緑内障に起因する視野欠損もあるわけで。ここは、重低音マシマシででも足りない分の解像度を補完したいとの切ない思い? 願い? があるのである。200円の「マシマシ」料金を上乗せして払ったのち、なんとか初志貫徹で轟音シアターの客となったのであった。

しかして、「轟音上映」は爆音が唸っているときにも増して、今回、山崎貴監督が効果的に用いた無音、静寂の時間が見事に引き立って素晴らしいことこの上なかった。

でも、なぜ今ごろゴジラなのか? それは、ひょんなことから、アメリカの老若男女が昨年暮れ辺りから立て続けにYouTubeにアップした映画レビューを何ダースかまとめて観てしまった影響が大きい。

実際、「アメリカで異例の大ヒット」とは風の噂に聞こえていたが、興奮ぎみに−1.0の魅力を語り尽くした挙句に、多くの人が「5点中5点」、あるいは、「10点中10点」を付けるではないか。その人気たるや聞きしに勝るとはこのことである。

そこで、向こうの多くの市井の映画評論家が「スポイラー・レビュー」(ネタバレ映画評)も含めて、「ゴジラ−5.25」に……あ、いや、「ゴジラ−1.0」にいかにツボったと語っているかの一端を紹介してみたい(畢竟、以下の文章も大なり小なりネタバレ注意となる。まだ、観ていない向きは即刻読むのをやめて、まずは映画館に走っていただきたい)。

YouTubeに溢れるアメリカ人の感動の一類型として、例えば、「字幕でもこんなにも映画が楽しめるなんて…」という、いわば映画の鑑賞作法そのものに関するものがある。

外国映画を吹き替えなしで観ることに日常的に慣れ親しんでいる我々にはなかなか想像できないのだが、アメリカ人はとにかく字幕付きの外国映画を徹底的に排除する傾向が強い。それが、結果として今回のゴジラで喰わず嫌いの面があったことへの大いなる気づきとなったというわけだ。

もっとも、これは山崎貴脚本・監督の素直なストーリー展開に負う部分が大きい。

実際、同じ東宝製作であっても、前作の「シン・ゴジラ」の場合は、政府の意思決定のプロセスがこれでもかと仔細に描かれた結果、日本のゴジラオタクの拍手喝采とは裏腹に、「なぜそこまでレッドテープ(お役所仕事)に執着するのか」と少なくないアメリカのゴジラ・ファンを困惑させた面が否めない。

今回のゴジラに対するアメリカ人の惜しみない賞賛の要因として、次に、その費用対効果がある。YouTube映画批評家のほぼ全員が「どうして東宝には1500万ドルでつくれて、ハリウッドにはそれができないのか」と口にするのである。僕には「1500万ドル」の根拠が定かではないが、低めに円換算しても20億円以上。東宝自体は製作費を明らかにしていないが、山崎監督自身がXで「10億じゃつくれません」と発言をしておられるので、30億ではないにせよ……そんなとこと考えて当たらずとも遠からじだろう。

いずれにせよ、その10倍の製作費を湯水のように投じながら、「薄っぺらいストーリーテリング」がデフォルトのハリウッド映画全般への批判が喧しいが、待てまて。(仮に)20億円だったとしたら、今回の「世界的ヒット」は予め織り込まれていなかった一邦画製作費としてはなかなかに背伸びした、破格の予算規模ではなかったか。「低予算でも高品質」は日本人の肌感覚とはちょっと(かなり)違う。

加えて、主人公・敷島(神木隆之介)の特攻を忌避したカミカゼ飛行士という人物設定が、「サバイバーズ・ギルト」(生き残りし者の罪悪感)という心理学用語とセットで繰り返しくりかえし触れられる。時計をベトナム戦争にまで巻き戻さなくとも、世界貿易センタービルの同時多発テロからコロンバイン高校の銃乱射事件に至るまで、アメリカには次は自分が犠牲者であったとしてもなんらおかしくない、そんな不条理に満ち満ちている。恥をさらして生きながらえた敷島と、時代を越え、字幕を越えて自己同一化するにさほど時間はかからなかったものと思われる。

ならば、そんなお前さんはどうだったのか、と問われれば、僕とてまずは「5点中の5点」と答えたい。

もちろん、敷島の「罪悪感」はステレオタイプで、かつ描き方も浅い、と批判する人(=日本人)の気分は分からないでもない。

ただ、思い出して欲しい。これは、ゴジラ映画なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。時代設定も、人物配置も、物語性も……すべてはゴジラの登場とその(文字通り)モンスター級の破壊とをもって回収されるべき伏線なのだ。

その意味では、基本を外さない、期待を決して裏切ることのない山崎監督の力量と面白がりようには、素直に大きな拍手を送りたい。

ただ、少なくないアメリカ人批評家が、最後の最後にカメラが典子(浜辺美波)の首に寄ると、そこに不気味なアザを認めては、「(ハッピー・エンディングに水を差す)なんとも意味深の終わり方で、個人的にはいただけない」的なことを述べていて、(一部の)アメリカ人には物語性の余白部分は不要なのだということを再認識して、いまさらながらの発見だった。

もっとも、僕もこの「物語の余白部分」は、山崎監督が東宝の上層部に「次があるんなら、浮気しないで次も僕にフッてね」と茶目っ気たっぷりに売り込んでいるように思えてならない。で、仮にまたオファーが舞い込むようなことになれば、続きはそのときに改めて、真剣に考える、ということなのではないか。すなわち、現行、まだノープランだったりして……とのうがった見方をしている。さてさて。



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