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丸テーブルの魔法

断捨離もこんまりも大いに共感しますしわりと得意ですが、捨てられないものはやはりあります。

例えば、それが服ならば、Paul Smithの黒のジャケット。素材はコットンだったり、カシミヤだったりと色々ですが、襟元が擦り切れたような古いものでも捨てるに捨てられないでいます。

また、それが家具なら、さしずめ丸テーブル。我が家には現在、大2、小1の合計3つの丸テーブルがあるのですが、購入金額の多寡に拘らず、いずれ劣らず捨て難いわけです。ただ、迫り来る多拠点生活の終焉を見越せば、少なくとも食卓としての「大2」はひとつで十分。有り体にいえば、20万したカリモクと4万のニトリなら残すべきは自明の気もしますが、これがどうして甲乙つけ難く、断捨離もこんまりも簡単ではありません(「こんまり」的には、両方ともときめいてしまうのです)。

さて、僕はなぜかくも深い愛着を丸テーブルに抱くのか。もちろん、テーブルごとにさまざまなストーリーがあるにはあるのですが、それにも増してかたち、すなわち、丸テーブルが丸いことに起因しているのではないかと思うのです。

なんと言っても、丸テーブルをみんなで囲む、なんとも平和なあの感じ、あれが好きです。しかも、四角いのと違って、2人だろうが、3人だろうが、6人だろうが……最大で8人くらいまでならなんとか座れてしまいます。しかも、それぞれの距離感、関係性が面白いくらい対等で、しかもインタラクティブとでもいうのか……誰とでも縦横無尽に繋がれる感じ? あれはまさに丸テーブルの魔法です。

と同時に、丸テーブルの輪の中にいれば、しばし黙して語らないのも、これもまた自由。語らない人を炙り出さないというか、辺境に追いやらないというか。例えて言えば、四角いリングの上でコーナーに追い込まれたボクサーはそれこそ窮地も窮地。多くの場合、相手ボクサーにぼこぼこにされる危機感迫り来る、と言った感じですが、これが丸い土俵際に追い込まれた相撲取りなら——窮地は窮地なのですが——ひらりとかわして攻守逆転。山の様な体躯の相手力士を土俵下に転がす番狂せだって起こし得ます。

あ、いやいや会話の相手を丸テーブルからひっぺがして、床にねじ伏せようというのではありません。丸テーブルには上座も下座もなければ、中心も周縁もない、すなわち、誰をも取りこぼさないという思想がデザインそのものに通底している気がして。——と、もっともらしく書きましたが、

「なんか良いよね、丸テーブル」

これに尽きます。

では、いつからそのことに気づいたのかと言えば、1988年から住み始めたニューヨーク。たまたま現地で揃えた家具のひとつが丸い食卓だっただけのことで、そもそもは「丸い」ことに拘りもへったくれもありませんでした。

そのニューヨークの丸テーブル——正確には天板が真円ではなく楕円のものでしたが——は、大型ショッピングモールの売れ残り品として、家具屋の片隅にぽつりと取り残されていました。多少の擦り傷もあったのですが、ベッドからソファから……一から揃える大変さを前にして四の五の言ってはいられませんでした。お前が四つ脚の食卓でありさえすれば、氏素性・容姿・人柄は一切問わない、とまさにすがるような心持ちでした。

しかるに、(品質表示ラベルを信じるならば)「氏素性」はスペイン産。それが、高級家具を意味するのか普及品を意味するのかさえ見当もつきません。ただ、木目や節目を活かし、ニスの色は透明感を保ちながらも赤みがかっていてなんとも素敵。「赤み」は、どこか闘牛士のマントの赤を想起させて、情熱的でさえあります。

「容姿」は[四つ脚」ならぬ一つ脚。楕円の一枚板の天板の中央を、寄木の太い柱一本で支えています。天板のヘリに両手で体重をかけると、少しだけぐらつくところがさすがスペイン、と妙に納得したものでした。

最後に「人柄」……というか「卓柄」を言えば、結果的に、それはもう丸テーブルですから申し分のあろうはずもなく。ニューヨーク滞在中、エアコンのドレインの不具合からフローリングの床が「地震性の隆起」でも起きたかのように波打ったり、幼な子の頭皮が感染症にでも罹ったのか大仏像の頭部の螺髪(らほつ)を彷彿とさせるぶつぶつができたり……想像の上をいく色々なトラブルに見舞われるたびに、家内といったんはスペインの丸テーブルに着いては、日本茶を淹れて一息つくのでした。すると、大したことはない、死にはしないし、トラブルを乗り越えるたびにまた一段と英語が上手くなるさ、と気持ちが上向くのですから不思議です。

残念ながらスペインの丸テーブルは費用の関係で一緒に帰国便に乗せることは叶いませんでしたが、以来、食卓と眼鏡を買うときは、

「丸いヤツ、ありますか?」

を呪文かなにかのように繰り返してきたのでした。



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