人生初の坐禅体験。幸せを見つけるのがうまくなる方法とは。
「自分の人生の責任は自分でとる。選ぶ道は自分で決める。」
坐禅体験で、お弟子さんがおっしゃっていた言葉である。
坐禅体験では、ずっと目を閉じて、胡座をかいて、っていうのではなく、
お弟子さんの、おもしろい話、生きやすくなるヒントになるような言葉もたくさん伺えた。
(これは、毎回違うのかも。一期一会ね。)
今回は、私の人生初の坐禅体験で、学んだこと、考えたことなどをまとめていきたいと思う。
人生初の坐禅体験で教わったこと
人生初めて、坐禅体験をした。
坐禅を行ったのは、京都の 「建仁寺塔頭 両足院」
坐禅は、何のためにやるのか。
・自分の観察
・世界の観察
この二つであると最初に聞いた。
坐禅の練習もした。
「5分間だけ音だけに集中しましょう!」
色んな音が聞こえてくるとともに、頭は音だけを感じてはいなかった。
自分の知っている言葉へ変換して、情報をつかもうと考えている。
でも、思考する脳みそが悪いのかというと、そうではないらしい。
これで、いいのだ!
坐禅といえば、「心を無に」というイメージがあるが、無になることが坐禅のゴールではない。
「無」は、途中過程。
(無になるなら、全身麻酔で全部解決でしょ!全身麻酔で、何も解決しないでしょ!と、坐禅体験でお話くださったお弟子さんがおっしゃっていた。)
自分自身の、課題のゴールを見つけることが、坐禅の目指すところ。
なるほど!
5分間の練習後、参加者の方がどんなことを考えていたかを発表させられた。
音だけに集中といっても、頭は、何かを考えてしまうようだ。
みんな同じ。
でも、考えていることは、それぞれ違う。
その頭に降りてくる考えを、「ふむふむ」とただ観察すればよいとのこと。
ふむふむと、
自分と世界を観察すること。
これが、坐禅と教わった。
修行していく中で、変化した足のしびれへの感じ方
座禅といえば、胡坐(あぐら)のポーズ。
お寺での修行では、無理やりにでも、あのポーズをしなければならないそうだ。
からだが硬くて床に座れない、5分で足がしびれる私からは、想像さえもできない。
そのポーズを、修行では何時間もやり続けなければならない。
当然、足にしびれが出てくる。
それも、ものすごいやつ。
でも、坐禅では、そのしびれを感じながらも、自分と世界の観察をしなければならない。
お弟子さんのお話になるが、
修行をやり始めた当初は、どうしても、足のしびれに気がとられ、
「この後、足は動くのだろうか?足が壊れるのではないか?」
今後の足への不安に、脳みそが大方持っていかれていたそうだ。
なかなか、自分と世界の観察にいけない状態。
現在は、全く意識が足に行かなくなったそう。
胡坐に慣れて、しびれなくなったのかと思いきや、そうではないらしい。
今でも、しびれはガッツリある。
では、なぜ?
「ことの顛末がわかるようになった」
修行の中で、このくらいの時間あぐらをかいていると、このくらいのしびれがくるけど、自分の足が動くことはわかる!
これがわかったことで、そこへ思考を使わなくなったとのこと。
大変、興味深い。
不安から、目の前の幸せに引き戻す
不安があると、思考は、そちら側へもっていかれがちだ。
今目の前に、美味しそうなケーキがあったとする。
それを、おいしく味わいたい。
でも、不安があると、ケーキを味わいながらも、不安に気を取られて、
ケーキの味がよくわからなかったということもあるのでは。
生きている限り、不安はなくはない。
その不安との付き合い方が上手くなるのが、坐禅なのかなと思う。
自分と世界の観察。
俯瞰して自分をみること。
世界を感じること。
「今」に意識を向けること。
不安が同じある状態でも、その不安の取り扱い方がうまくなれば、
不安から、ケーキへの頭の持っていきかたがわかれば、
ケーキをおいしく味わうことができるのでは。
足のしびれを感じながらも、そちらに気を取られなくなったお弟子さんのように。
瞑想(坐禅)で、幸せ見つけがうまくなる
坐禅では、自分と世界の観察をする。
人間の脳は、無意識的に、幸せよりも、不幸せに注意が向きやすいらしい。
『この「不幸せぐせ」を、意識的に「幸せぐせ」に変えていくのに有効なのが、【瞑想】である』と、伊藤東凌さんはご著書「月曜瞑想」でおっしゃっている。
(ちなみに、瞑想の一つのやり方が、座禅。)
月曜瞑想には、より気軽に、日常の家事や生活に瞑想を取り入れるやり方が、たくさん示されている。
日常に取り入れることで、感覚を整えるのがうまくなるのだそう。
意識的に、感覚をフラットに持ってこないと、ついつい不安に引っ張られてしまうのがアウストラロピテクスの脳みそ。
ケーキを味わうとき、ケーキ瞑想、今度やってみたい。
今、私はモンブランがたべたい。