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「描くこと」と生き抜く力

新型コロナウイルスとの戦いで、私たちは「おうちにいること」が使命になっている。
この使命が、なかなか大変な人たちがいる。
そして、そうでもない人たちもいる。
ウチの三姉妹は「そうでもない」という部類に入る。
それは、彼女たちが持つ「絵を描く力」と無縁ではないと私は思ってる。
今日はそんなお話を書いてみる。
テーマは「描くこと」とresilience(レジリエンス)だ。

難訳語 resilience

resilience、形容詞なら resilient という言葉は、よく見かけるのだけど、なかなか日本語に訳しにくい。Weblio先生には「はね返り、とび返り、弾力、弾性、(元気の)回復力」とある。
どうもピンと来ない。
このサイトがぴったりくるのだが、英語なので、日本語コンテンツのご説明としては同語反復感がある。

タイトルでは、この原稿の文脈に合わせて「生き抜く力」と訳してみた。「逆境でも」という枕詞をつけても良い。「しなやかな強靭さ」というイメージだろうか。
うん。ちょっとカッコつけすぎだな。
あまりカッコよくないけど、私がぴったりだと思う言葉は「しぶとさ」である。「ちょっとやそっとじゃ、参りまへんで」というしぶとい心身の在り様が、resilient、だと思う。

resilienceとredundancy(冗長性)は個人や組織の危機対応力を左右する重要なファクターだ。
後者は「ショックを吸収する余裕」と言いかえて良いだろう。
今回のコロナ危機は、日本の多くの組織が官民問わずこの2つを欠いた脆弱なものであることをまざまざと見せつけた。
あっちもこっちもパツパツで、元気も余裕もない。残念ながら。

それはそれとして、私は前者については、かなり意識的に娘たちに「ある武器」を授けてきた。
それは「描く力」だ。
「画材への投資ほど安いものはない」は私の子育ての体験的持論である。
たっぷり投資した甲斐があって、娘たちはお絵描き好きの人、絵を描いていれば時間を忘れられる人に育った。
そして、それは私にとってリターンの非常に大きい投資でもある。

幸田露伴の説教と娘の後悔

こちらの親馬鹿全開のnoteでご披露した通り、今年成人した長女は小さい頃からお絵描きが大好きだった。

姉の影響で妹2人もお絵描き少女になったので、100色色鉛筆からペンタブ、画集、イラストの描き方本、ポーズ集、絵の具類など、「絵を描くこと」に関する出費について、私の財布のヒモはユルッユルである。
このiMACもほとんど次女のお絵描き専用マッシーンと化している。

私は三姉妹の描く絵の大ファンなので、「推し」に資金をぶち込むのは理にかなっている。
とはいえ、そこそこカツカツの家計のなかで「描くこと」関連は、書籍と並んで「ここはケチりません」という姿勢を貫いてきた。
それはある本の影響による。
幸田文の『木』だ。

(欠品してますぞ、新潮社さん!)

幸田露伴の娘、幸田文は、熱烈なファンというわけではないが、独特の読み味で、時折手に取りたくなる作家だ。
『木』はタイトル通り、植物に関する15の随筆を集めたコンパクトな一冊。これか『流れる』が入りやすいのではないだろうか。

さて、この『木』と「描くこと」のお話であった。
20代後半で長女が生まれたころに『木』を読んで、「藤」という一篇にとても強い印象を受けた。
良い機会なので「藤」の書き出しを少々。幸田文節です。

どういう切掛けから、草木に心をよせるようになったのか、ときかれた。心をよせるなど、そんなしっかりしたことではない。毎日のくらしに織込まれて見聞きする草木のことで、ただちっとばかり気持がうるむという、そんな程度の思いなのである。今朝、道の途中でみごとな柘榴(ざくろ)の花に逢ったとか、今年はあらしに揉まれたので、公孫樹(いちょう)がきれいに染まらないとか、そういう些細な見たり聞いたりに感情がうごき、時によると二日も三日も尾をひいて感情の余韻がのこる、そんなことだけなのだ。
(幸田文『木』(新潮文庫))

この「ちっとばかり気持がうるむ」といった、ざっかけない言葉遣いがこの方の文章の魅力。
「藤」には、ある植木市のことが記されている。いろいろあって離婚した文が一人娘を連れて露伴宅に身を寄せてからの出来事だ。
ちなみにこの一人娘は随筆家の青木玉さんであり、その娘の青木奈緒さんもいくつか著書がある。親子四代で文筆家。露伴先生の遺伝子、強すぎだろう。

植木市での出来事とは、こんな顛末だ。
ある日、お寺の境内の市に幼い娘を連れていこうとすると、露伴が自分の「ガマ口」を渡して子どもが欲しがれば何でも買ってやれ、と言い付ける。
果たして、市で娘が欲しがったのは、文の背丈ほどもある藤の鉢植えだった。文は「それは花物では、市のなかのお職だった」と記している。
「お職」なんて言葉、1970年代でもまだ使っていたのかと驚く。あるもののなかで一番のもの、という意味だ。
当然、値段も張るので、文は別の物、小さな山椒の木を子どもに買ってやって帰宅した。
すると、父・露伴がみるみる不機嫌になり、「市で一番の花を選んだのは見る目がたしかだったからだ、なぜ買ってやらなかったのか」と文を叱った。
「藤はバカ値だったから」と弁解する文に露伴が吐いた説教が、長年、私が愛読してきた部分だ。長めに引きます。

好む草なり木なりを買ってやれ、と言いつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡してやった、子は藤を選んだ、だのになぜ買ってやらないのか、金が足りないのなら、ガマ口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差にして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花をもいとおしむこと教えてやれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の芽を伸ばさないとはかぎらない、そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない---さんざんにきめつけられた。
(幸田文『木』(新潮文庫)

露伴先生、怒涛の説教。激おこぷんぷん丸である(←古い)。

その後、娘は大きくなっても草木にあまり興味を示さず、文は「藤でチャンスを失ったらしいと、後悔することが度々あった」と書いている。「年々四季はめぐる。芽立ち、花咲き、みのり、枯れおちる。そのことがあるたびに心はいたんだ」という。良いお母さんだ。
この憂いは結局、「いいほうに外れた」。娘は、草木を愛する夫と出会って変わり、「孫で挽回を」と秘かに決意していた文は「もう孫のことも安心した」という。こういう心の動きと書きっぷりが、実におかしい。

「女一代の楽しみ」

この露伴先生の説教で一番響いたのは
一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみ
というフレーズであった。
特に「女一代の」という表現は、「なるほど、こういう言い回しがありますか!」と強く刻まれた。いつか使ってみたいが、機会がない。
上記の引用を熟読してほしいのだが、面倒な方もおられようから、味気ない抜粋・箇条書きを。

・子のせっかくの選択を無にするのは浅はかだ
・多少値が張っても藤を子の心の養いにしてやろうとなぜ思わないのか
・広く草木に関心の芽が伸びれば子の財産になる。これ以上の価値はない
・親は子のからだに、心に、いい養いをつけることを考えるものだ
・子の心の栄養より
金銭を先に云々するのは、あきれてものもいえない

こうして書いてしまえば、当たり前のことに見える。
だが、「子を持った」ばかり、特に女の子が生まれたばかりだった私には、「女一代の楽しみ」になりうる「心の養い」にはお金を惜しんではいけないという露伴先生のお説教は強烈に響いた。
男の子だって、それは同じだろうが、たまたま我が家には次から次へと女の子がやってきたので、メンバーが増強されるたびに「女一代の楽しみ」という言葉の重みが増していった。

この言葉を胸に、各方面に「投資」をした結果、三姉妹がそろってお絵描き好きになって、投資先が絞り込まれたのは幸いであった。
3人の趣味がバラけていたら、なかなか大変だっただろうな、と思う。

投資に対する特大のリターン

さて、本稿はすでに3500字を軽く超えているが、恐ろしいことにここまでが前振りである。
ここからしばし、親馬鹿コーナーです。
「そういうの、いいから」という方は次の見出しまで飛ばしてください。

私は4月生まれで、無事、48歳になった。
誕生日といえばプレゼント。私のリクエストは毎年、「何か描いて」だ。
もらった作品やカードは、小さなころのものから、大事にとってある。先ほどリンクをはった長女の成人エントリーでもいくつかご披露した。
何か買ってもらうのも悪くないのだが、資金源がお小遣いだと思うと、どこか「タコ足配当」感が漂う。
お金は自分たちの好きなものに回していただき、プレゼントにはお金より大事な「時間と手間」をかけてもらってる。

まず、次女がくれたカード。メッセージ部分は非公開といたします。

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愛用のギターにビリヤードのキュー、Macbook、そしてバスケットボールの上に某名著。
うーん。完璧だ。こちらは今もこのnoteを書いているPCの横、いつも目に入るところに飾ってある。

続いて今年一番の力作だった長女の作品を。これは、親馬鹿ですが、ちょっと凄いクオリチイ。「おうちにいよう」の産物か。

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なんとお手製の豆本。表紙は貼り絵だ。

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「すごい本」からキャラクターが脱走!
その穴をお父さんと三姉妹が本の世界に飛び込んで埋めるという筋書き。
中身は完全な内輪ネタなので割愛しますが、愉快な本です。
背表紙がポケットになっていて、3人のキャラのカードが収納できる。
これもすぐ手元に置いている。

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(「さみ王」は「さみお」の敬称です)

この豆本は、お父さんのお手製絵本へのお返しだろう。新しい宝物です。

そしてアイデアが秀逸で、オチで腹筋崩壊に導いてくれたのが三女の作品。

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こんな感じで色んな国の言葉で「誕生日おめでとう」と(多分)書いてあって、ひっくり返すと、

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それぞれの国の民族衣装のかわいい女の子が描いてある。
ここまではナイスアイデア。腹がよじれるほど笑ったのは、この1枚。

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いきなりアバヤ姿の適当な三姉妹(笑)

と、こんな調子で、三姉妹がお絵描きを「女一代の楽しみ」にしてくれたおかげで、お父さんは毎年、ホクホクである。

こんなイベント以外でも、三姉妹はほとんど毎日絵を描いている。
日記的なものだったり、ノートの端っこだったり、iPadだったり、iMacだったり、ホワイトボードだったり、たまにティッシュペーパーだったりする。
この人たちは、紙とペンがあれば何時間でも過ごせるのだ。
おそらく相当の長期戦にも耐えられる。今も毎日楽しそうにしている。
これは、強い。
resilientという言葉がピッタリくる。

なお私は、絵心はないけど、noteやら駄文を書いて、本を読んでいれば、籠城はイケるクチである。割とresilientです。

変わらぬ藤のように

親馬鹿パート、終了。

さて最近、ことほど左様に私の子育て観に影響を与えた幸田露伴との、ちょっとした機縁に気づいた。
自宅から徒歩圏内に露伴の旧宅「蝸牛庵」の跡地があったのだ。
篤志家が寄付した土地に作られた公園の名前は「幸田露伴児童遊園」。
今日4月22日、所用(確定申告……)で近くに行ったので立ち寄ってみた。

数々の碑と「蝸牛庵」跡らしいかわいいカタツムリが並んでいた。

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露伴と文、息子・成豊の写真も拝めた。

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ざっと展示をみて文豪の足跡をたどったあとで向かい合った文学碑の言葉が、深く心に響いた。
旧字など一部を変えて引用する。

世おのづから数といふもの有りや。
有りといへば有るが如く、
無しと為せば無きにも似たり。
洪水天にはびこるも、禹(う)の功これを治め、
大旱(たいかん)地を焦せども、湯(とう)の徳これを済(すく)へば、
数有るが如くにして、而(しか)も数無きが如し。
「運命」より

禹と湯(天乙)はともに古代中国の帝。
たとえ災厄があっても、人間の力でそれを克服すれば「無きが如し」というのが大意だろう。

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『運命』を含め、露伴の作品は肌に合わないので、ほとんど読んだことがない。『運命』はいろいろと議論のある作品のようだ。
ともあれ、この一節を読んで「新型コロナのことも、こうして達観して振り返る日が来るのだろうか」という思いがよぎった。

「聖地巡礼」を終えた帰路、別の公園の脇を通りかかった。
私の目に、青空を背にした、鮮やな藤棚が飛び込んできた。

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外出自粛で公園は人もまばらだった。
それでも藤は、恐らくいつもの年と変わらぬ姿で、今を盛りと咲き誇っていた。
「これが文と娘が買い損ねた藤だったら……」と夢想しかけて、すぐにそれはあり得ないと苦笑した。文の随筆には「大正十三年、街に引越した」あと、つまり小石川に蝸牛庵(どこに転居しても露伴宅をこう呼ばれた)が移ってからの出来事と明記されている。

それでも、藤は藤、だ。

年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず

毎年変わらぬ美しさと強さを示す花と比べれば、人の命と一生は儚い。
だが、我々の根っこには、藤と同じように、これまで地球上で生き残ってきた生物としての強さ、resilience 、しぶとさが備わっているはずだ。
人間の力を、疫病など「無きが如し」と言える日が来るのを、信じたい。

うーん。
親馬鹿投稿を、うまいこと偽装したもんだなぁ(笑)
これもまた、「かくこと」の resilience 、しぶとさの事例、かもしれない。
おあとがよろしいようで……。

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